第3話
先に目覚めたのはふん子だった。傍らに置いてあったチクワの袋を持って、「おっちゃーん、ちくわちくわ、ちくわだよう~」と、はしゃいでいた。
拓哉はまだ眠気が残っていたが、ふん子が朝食を期待しているので起きることにした。
まだ開ききることに抵抗を感じている瞼を無理矢理あけて、その辺に落ちている木っ端で火を起こした。チクワに適当な細い棒をぶっ刺して、火にかざした。少し焦げてきたところで、いったん焚火から離す。幼女がそのまま口にすると火傷してしまうので、少し冷ましてから手渡した。
ふん子は、それでもまだ熱いと思って、おちょぼ口で、ふーふーしてからかぶりついた。
「ふん子ちゃん、ほら早く食べてたべて」
拓哉は、早く食べきってしまうように促した。
「だれが見てるか、わからないからね」
あの老人との出会いを言っているのである。結果、タニシを半分わけ与えることになってしまったので、できれば食事中は誰にも見られないように気をつけようということだった。
「うん、そうだなあ、そうだなあ」
ふん子は 用心するように周りを見ながら、モグモグと急いでいた。
「ふん子ちゃん、ゆっくりと噛んで食べなきゃあ、のどに詰まっちゃうでしょう」
「うん、そうだなあ、そうだなあ」
ふん子はゆっくりと、噛みしめて食べていた。
じつはチクワもこの幼女の大好物である。とくに今日の焼き具合は絶妙で、腕の良いコックである拓哉を、あとでたっぷりと褒め称えてやろうと思っていた。
「さて、そろそろ出発しますかあ」
ふん子がチクワを食べ終わった頃を見計らって、拓哉が号令をかけた。
「たびだじょう」
二人は西の方に向かって旅立った。
作業着を着た中年男は鼻歌を奏でながら歩いている。この地では歌というものを知らない子どもが多い。拓哉が時々口ずさむので歌というものを知ってはいたが、ふん子は歌える曲を知らなかったし、当然のことながら歌えなかった。
「おっちゃーん」上機嫌で歩く拓哉の作業ズボンを引っぱった。
「ん、なんだい、ふん子ちゃん」
「おっちゃんな、うるさいなあ。そんなにおおきなな、こえだしてたら、きっとな、ヘムシがくるよう」
拓哉だけ歌うと自分がとり残されている感じがして、あまりいい気分ではなかった。だから、幼女は歌があまり好きではない。
「ふん子ちゃん、気分がいい時はね、こうやって歌うんだよ。そしたらね、もっといい気分になるんだよ。屁虫も逃げていくさあ」
は~あ~、と大きな声で調子よく歌う中年男であった。
「ふん子なあ、うたなあ、ようわからんからな、おっちゃん、おしえてけろ」
「あれ~、ふん子ちゃんは、歌わないんじゃあなかったの」
拓哉が、さも意地悪く言うのだった。幼女は下を向いていた。
「おしえてくれたらなあ、ふん子も、ちょんとなあ、できるんだけどなあ」
ふん子は立ち止まって、所在無げに足元の木片を蹴った。すると、そこに隠れていた極彩色のムカデがワナワナと這い出してきた。幼女は、わーわー言いながら拓哉の太ももにしがみ付いた。
歩きながら歌を教えることにした。
しかしながら、この強気な幼女はどうしようもない音痴だった。その下手さ具合が自分でもよくわかるのか、初めのうちは大きな声を出していたが、だんだんと小さくか細くなった。拓哉がさーさーと声をかけて励ますが、しまいには「びええーん」と泣きだしてしまった。
こうするんだよといって、ゆっくりと手本を示すが、ふん子は、「うたはいやや」と言って不機嫌になってしまった。
「わかった、わかったよ、ふん子ちゃん。歌はなしにするからね。もう ナッシングだよう」と言いながらも、拓哉は鼻でふんふんと歌っていた。
「まだ、うたってるう。おっちゃんは、うそばっかやあ」
怒ったふん子が走り出した。足元をロクに見ていなかったので、割れたブロック片につまづいて転んでしまった。膝頭をイヤというほど打ってしまい、ワーワーと泣いた。
「そんなに泣いてちゃあ、イタイの飛んでかないよ」
そう声をかけてきたのは見知らぬ女性だった。
すらりと背の高い女が、地べたで泣きべそをかいているふん子のそばにしゃがんだ。着ている服は薄汚れてはいるが、その立ち振る舞いにはどことなく気品があった。
「ほら、これお食べ。甘いもの好きでしょう」
彼女は上着のポケットから何かを取りだして幼女に差し出した。ふん子は、ひっくひっくと泣きながらも、女の手の上にのっている小片を見つめていた。
「とっても甘いから、ゆっくりと食べるんだよ」女性の言い方も甘くなっていた。
ふん子はその欠片に手を伸ばしかけたが、直前で引っ込めた。青っ洟をずずっと啜ると、一度振り返った。
「ふん子ちゃん、それはチョコレートだよ。めずらしいものだから、もらいなよ。ちゃんとお礼を言ってね」
拓哉の許可がおりた。ふん子は、うんと頷くと、今までの泣きべそが嘘のような笑顔で、チョコレートを握り口の中へと入れた。背の高い女性は満足そうに微笑んでいた。
「あまいなあ、あまいなあ」
ありがとう、ありがとうと言う幼女を、女性は目を細めて見おろしていた。
「お嬢ちゃんは、ふん子ちゃんって言うのかい。いい名前だねえ。どこに住んでいるの。ちゃんと食べているの」
女性は矢継ぎ早に、そして根掘り葉掘り訊きだそうとしていた。だが、うすら笑顔ながらも、なんとなく居心地が悪そうに近づいてくる拓哉には、まったく興味を示していなかった。
「ふん子はなあ、おっちゃんといるんよ。いっつもなあ、おっちゃんがなあ、タニシとかチクワとかなあ、くれるんだあ」
下唇をチョコレートで汚した幼女が答えた。
「ふん子ちゃんは、チクワが大好物なんだよね」
それを見つけてやっている拓哉は、少しばかり自慢げだった。
「タニシなんか食べさせているの。小さな子に食べさせるには、あまり栄養があるものじゃないんじゃないかしら」
その女性は唐突に非難した。予期せぬキツイ言葉に、拓哉はうまく切り返すことが出来ない。とりあえず、笑って茶を濁すしかなかった。
「ははは・・・」
彼女は、自らをコウズケと名乗った。女にしては変わった名だった。それが苗字なのか名前なのか、はたまた自称なのか不明である。
「タニシはな、うまいんだよ。おっちゃんはな、おっきなタニシをとってくるんだあ、すっごい、おっきいタニシをなあ」
ふん子が拓哉を庇うために、コウズケはそれ以上中年男を責めなかった。そのかわり、そこにいる存在を無視するように、より親しげに幼女に話しかける。
「ふん子ちゃん、おばさんとこ来ようか。まだね、チョコレートがあるんだよ。今度は白いのを食べるといいよ。甘くて、ほっぺたが落ちるさあ」
日々の食べ物にも事欠いているこの地で、お菓子類を探し当てるのは至難の業である。まして、チョコレートなど奇跡に等しい逸品なのだ。拓哉は、そういうモノをふん子に食べさせてあげたいと常々思っているのだが、まだ達成できていない。
「おっちゃん、いこうよ。チョコリャートはな、あっまいぞう」
ふん子は、拓哉も一緒に誘われていると当然のように思っていたが、彼に関して、コウズケはなんら意思表示することはなかった。
「おっちゃんはいいよ。ほら、甘いモノあんまし好きでないし、ふん子ちゃんがいけばいいさ」
そんな歓迎されていない空気を察して、拓哉は遠慮を申し出た。はははと笑いながら、自らに課せられた気まずさを誤魔化そうとした。
「んだども」
ふん子は、なかなか決断できずにいた。一人でご馳走を食べるのは、どうにも気が引けてしまう。
「おっちゃんはその辺でタニシを探しているからね。甘いものたべたあとに、あっつあつのタニシで、ふん子ちゃんのほっぺた落ちちゃうぞう」
稼ぎの悪い男の、精一杯の反撃であった。コウズケは無表情のまま心のうちを顕さなかったが、おそらくは嘲笑されているんだなと拓哉は感じた。
ふん子は迷っていた。拓哉と出会ってからは、なにかにつけても、二人して食べ物を分けあってきた。どちらも抜け駆けしたことはないし、そうする気もない。
「ふん子ちゃん、とにかくおいでよ。チョコレート食べたら、すぐに帰ればいいしさ。オジサンは、近くで待っているって」
コウズケは、小さな手をとって連れていこうとするが、ふん子は身体を左右に振らすだけで歩こうとはしなかった。
「お友達もいるんだよ。みんなでね、ふん子ちゃを待っているんだから」
ふん子には友達がいない。正確には拓哉以外、会話をする人間がいないのだ。ねぐら付近に子どもがいないわけではないが、話したりしようとはしなかった。拓哉がいれば、全てが事足りていた。
「ふん子ちゃんが来ないと、みんなチョコレートが食べられないよ。すっごく楽しみにしてるのにねえ」
まるでふん子に責任があるかのごとく、コウズケはそう言うのだ。
「ふん子ちゃん、行っておいでよ」
拓哉の一押しもあって、少女の気持ちは女の方へ傾いていた。大人の女性と話をしたのもじつに久しぶりであり、見知らぬ人と接する緊張感が興奮を呼び起こし、小さな身体を不必要に熱くしていた。
「そんじゃ、いこうかな。おっちゃん、ちょっとまってってけろ」
拓哉は、ぎこちなく作り笑いを浮かべながら頷いた。
コウズケはすぐにふん子の手をとり、逃げるような早歩きで引っぱって行った。もちろん、中年男には目もくれない。
「おっちゃんのぶんも、もらってくるから、ここでまっててけろ。なあ、ぜったいにまっててけろ」
ふん子は何度も振り返って言った。本心からそう思っていた。拓哉は、作り笑顔のまま手を小さく振るだけだった。女は小さなやや強引に手を引っぱって行った。
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