第2話

 瓦礫の地のあちこちには、たくさんの浮浪児がいた。多くは空腹なまま、ぼう然としている。大人は、その辺に散らばっている木っ端やブロックなどをどけて食い物を探す。なかなか見つからないので、たまに缶詰を見つけて大声ではしゃいでいる者を、人々がうらやましそうに見ていた。 

 この地で数少ない良いことの一つは、ひどい悪人がいないということだ。大人が飢えた子どもを放置しているだろうと言われそうだが、それは積極的に危害を加えているものではない。子どもの世話を焼くのは、あくまでも任意であり義務ではない。

 よって責任が生じるわけでもないから、悪とまでは言いきれない。一度手をつけておいて、途中で放り投げるのは良いことではないが、この荒れ地では仕方のない事だ。面倒をみようと努力しただけでも、まだ良心の存在を感じさせた。


 中年男と幼女が、タニシの獲れる溜め池にやってきた。

 廃棄されたバックホーやショベルカーなどの重機が、水面から何機も顔を出している。油膜が張った溜まり水が、いかにも汚そうだった。

「ふん子ちゃんは、ここで待ってなよう。おっちゃんが、とってくるから」

「ふん子もいくう」

「ダメだよ。ふん子ちゃん、この前溺れかけたでしょう」

 池の水深は浅そうに見えるのだが、ところどころに深い個所があって、油断していると背が立たなくなってしまう。水が不潔なだけではなく、底には鋭い金属片やガラスなどが散らばっているので危険でもある。

 作業ズボンを膝の上までまくった拓哉は、ふん子を池のほとりに残して、一人で池の中へ入っていった。足裏に怪我をしないように、靴は履いたままだった。

 目を凝らして濁った水の中を見る。時おり手を突っ込んでは掴みとるが、大抵が鉄くずや割れた陶器の破片だ。それらを苦笑いしながら遠くへ放り投げ、また水の中をまさぐる。そんな様子を、ふん子はずっと見ていた。

 どのくらいの時間が経っただろう。夕焼けはけして暗くなることなく闇が訪れることもないが、幼女はうとうとしてきた。やがて、ショベルカーの廃タイヤのそばで小さくなって寝てしまった。


「ふん子ちゃん、ふん子ちゃん、起きて。ほら、こんなに大きいのが四つもとれたよ」

 泥で爪が汚れた指が、小さなお尻を突っついた。寝ぼけまなこのふん子が起き上り、開ききらない瞳で右を向き左を向いていた。

 拓哉は、そこに両手に持った四つのタニシを差し出した。にんまりとした表情から、少しばかりの自慢が洩れ出ていた。

「今日は、おっちゃん、がんばったでしょう」

「うわあ、うわあ、でっかいなあ。でっきゃいなあ、おっちゃん」

 大きなタニシを見せられて、ふん子の眠気は一気にふっとんでしまった。かわりに、お腹の虫がぐうぐうとなり、口の端からヨダレが出てきた。

「ふん子ちゃん、よだれよだれ」

 幼女がジャージの袖でヨダレをぬぐっている間に、その辺の木くずを集めて火を起こした。小さな焚火だったが、二人をほんのりと温めるには充分だった。

 中年男と幼女はしばし炎に見入っていたが、熾火になったところで拓哉が四つのタニシを置いた。少しばかり待つと、タニシの口からジュージューと汁が噴き出して、なんとも食欲をそそるいい匂いが立ち昇った。

 ゴクリと、唾をのみこむ可愛らしい音がした。もういい頃合いだと、拓哉が棒きれでタニシをよせようとした時だった。

「なあ、すまんがのう。それ、なんだったらでいいんだが、一つ分けてくれるか」

 そう声をかけてきたのは老人だった。

 ひどく痩せていて、足が悪いのか杖をついている。小刻みに震える手がタニシを指していた。

 その腰のまがった爺さんの後ろには、幼児がいた。ふん子よりちょっとばかし幼い男の子で、洟をたらしながら呆然と前へ出てきて焚火をじっと見ている。右手は老人のズボンを、しっかりと握っていた。

「一つでいいんじゃが、この子に一つでいいんじゃが。だめかのう、だめじゃろう」

 タニシの持ち主が返答をする前に、その皺だらけの表情は諦めきっていた。男の子の手が強く握りしめる。

 拓哉はふん子を見た。幼女は、はにかみながら小さく頷いた。

 棒切れが熾火の中からタニシを一つ引き出すと、それを老人の前にまで差し出した。

 一瞬、戸惑った皺顔だったが、「ありがたいことだあ、ありがたいことだあ」と言って、何度も頭を下げた。腰からシミだらけの手拭いを出すと、ヤケドしないようにタニシを包んだ。    

 それを男の子の口元まで持っていき、まだ熱々の汁にフーフー息をかけて、充分冷ましてから飲ませた。それから落ちていた木っ端で中身をほじくり出し、やはりフーフーと冷ましてから食べさせた。幼児は目線を焚き木から離すことなく、もぐもぐと頬張っていた。

「これは爺さんに」

 拓哉はさらにタニシを一つ、老人の前に差し出した。

 皺顔は信じられないものを見たような表情で、中年男とタニシを交互に見た。そして拝むように礼を言うと、熱々のタニシを手にした。

 皺が寄った瞼を力いっぱい閉じて、熱い汁をすすった。中身を取りだして半分だけ齧り取ると、残りをまだ咀嚼している最中の幼児の口の中に入れた。男の子は、相変わらず一点を見つめたままもぐもぐと噛み続けている。

 その様子を横目でみながら、拓哉とふん子もタニシを食べ始めた。食事を終えると、四人は焚火を囲んで座っていた。ご馳走のお礼とばかりに、老人はいかに瓦礫の中から食い物を探し当てるかを雄弁に語っていた。

「それでなあ、その屁虫の後をなあ、見つからんようについていくと、なんと、エイの干物があったんじゃあ。あの穴は屁虫の巣で、どっかから拾ってきたのを、かくしてたんじゃよ」

「へむすは、いやや」屁虫と聞いて、ふん子はふくれっ面になってしまう。

「ありゃありゃあ、嬢ちゃんは虫がきらいかな」

「ふん子ちゃんは、きれいなものが好きなんだよねえ」

 あっちを向いたままの姿勢は、拓哉の言っていることを、ふん子が肯定している証だった。もちろん本気で怒っているわけではない。そういういじらしい感情を、誰かに見せたい年頃なのである。

「おお、それならば」

 老人はズボンのポケットの中をまさぐった。パン耳のカスや干からびたウドンなどのゴミが、ぱらぱらと出てきた。目当てのものがないのか、老人はズボンだけではなく上着のポケットにも手を突っ込んでいた。

 ふん子は、焚き木の中を素手でいじろうとする男の子の手をはらって、だめっしょ、だめっしょと言っている。

「あった、あった」老人は、石を一つ探し出した。

 それはルビーだった。大人の親指の爪ほどもある、赤くて大きな宝石だ。

「さあ、これを嬢ちゃんにあげるよ」

 小銭や札束などの現金は、この地のいたるところに落ちている。わざわざ瓦礫のすき間を探さなくとも、汚れ池の水面にも浮いていた。

 だが、宝石の類はなかなかお目にかかれない。もともと数が少ないのと、誰かが見つけると拾ってしまうからだ。特にそれで腹がふくれたり、食べ物と交換されることなどないのだが、見た目がきれいなのでなんとなく持ち続けてしまう者が多い。

 老人は、そのルビーを小さな手に渡そうとした。しかし、ふん子はすぐには受け取らなかった。なんだか哀しげな顔で拓哉を見ている。

「よかったね、ふん子ちゃん」作業服の男はニコリとした。

 幼女は、日々世話をやいてくれている男の許可を待ったわけではない。その宝石が老人の唯一の宝物であり、それを自分が少しばかり不貞腐れたために、結果的に奪ってしまうことになるのではと心配したのだ。

 しかし、それは杞憂だった。老人はそれを手放すことになんら躊躇はなかったし、これっぽちも惜しいとは思っていない。

「嬢ちゃんがもらってくれると、ありがたいなあ。もらってくれるね」

 ふん子は「うん」とうなずいた。

 沈んでいた老人の表情が明るくなった。ふん子は宝石を手渡されると、ありがとうと小さくつぶやいた。そしてしばし、その赤を夕焼けにかざしてみた。朱と赤が混じり合い、なんとも形容できぬ血色がまぶしかった。

「さて、わしらはもう行くかな。もう寝る時間じゃてな」

 この夕焼けの地では、しっかりとした安眠を貪るのは簡単ではない。空全体を覆う朱色から逃れなければ、まぶしくて寝つけないのだ。

 建物はほとんどが崩壊して瓦礫になっているので ふん子みたいに、瓦礫のすき間を寝床とするのが常道だ。しかし、そういうところは崩れやすく、危険でもある。拓哉は基礎のコンクリート支柱がしっかりとしている場所だと知っていて、ふん子を寝かせていた。そのような好所はなかなか見つからないので、たいていの者は野宿を強いられている。

「はて、今日はどこで寝るとするかな。この前見つけた穴倉は、屁虫がうじゃうじゃいたから・・・、っと失礼。嬢ちゃんの前では屁虫はご法度じゃったな」

 はははは、と笑ってごまかそうとしたが、ふん子はたいして気にしていなかった。

 老人は立ち上がり、空を見渡した。そして「夜が懐かしいのう」と、なに気なく言った。

「よるって、なあに」

 ふん子は夜を知らない。物心ついた時からこの地で暮らしている。だから、夕焼け空しか見たことがなかった。

「ここには夜がないんだよ。だから、ふん子ちゃんに説明するのは、ちょっとむずかしいなあ」

「そうか、嬢ちゃんは夜を見たことがないんだ」

 二人の男は、お互いを見るとすぐに目線を逸らした。ほんの少しの間、気まずそうに沈黙した。  

「一度、ふん子ちゃんに夜を・・・、ああでも、まあ、そんなことはなかなかねえ」と言ったところで口ごもった。

 この地で夜を望むことはかなわないと、拓哉はわかっている。夜のことを話題にして、あまりふん子に気を持たせたりしないほうがいいと考えた。

「これは聞いた話で、本当のことかどうかわからんじゃが、真西に真っ直ぐ、どこまでもどこまでも行くとな、夕焼けの終わりがあるって言うんじゃ」

「夕焼けの終わりって、どういうことだい」

 これ以上夜についての話をしないほうがいいと思ったが、老人がいう夕焼けの終わりという言葉が気になった。

「さあなあ。それが、いまいちよくわからんのじゃ。夕焼けが終わるんじゃから夜になると思うんだが、その辺のことを聞くと、なんだか要領を得んのじょよ」

 老人もその先をよく知らないようだ。

「おっちゃーん、ふん子なあ、よる見たいなあ」

 具合の悪いことに、ふん子が興味を持ってしまった。

「ふん子ちゃん、夜はそんなにおもしろいものじゃないよ。ただ、暗いだけだよ」

「くらいって、どんくらい」

「ううーん、そうだねえ。ふん子ちゃんが寝ている場所よりも、ちょっと暗いかな」

 その暗さの頃合いがつかめず、ふん子は首を傾げた。タニシの殻を拾って、この中みたいにくらいの、っと問いかけた。拓哉は微笑むだけで答えなかった。

「おおー、夜はなあ、暗いなんてもんじゃないさあ。もうなあ、心の底がしんしんと冷えるっちゅうかのう、とにかく暗いのなんのって。そしてな、ぐっすりと眠れんのじゃよ」

 じいさん、もうそれ以上しゃべるなと、拓哉は心の中で言った。その声が聞こえたかどうかわからないが、老人はもう行くと言った。

 男の子がなかなか立ち上がらないので、老人は何事かささやいていた。ふん子が、よいしょと掛け声をかけて小さな尻を持ち上げた。

「そんじゃあねえ、バイバイ」

 ふん子が別れの手を振ると、男の子はうんと小さくうなずいた。

 夕焼けの下、足の不自由な老人と、その手に率いられた幼児がゆっくりと歩き出した。焚き木の火が見えなくなったころ、その姿が見えなくなった。


「もう眠いでしょう、ふん子ちゃん。家に帰ろうか」

 今日のやるべきことは終わりである。拓哉は帰宅の決心を告げた。

「なあ、おっちゃん。ふん子なあ、よる見てみたいなあ。しんしんのよる見てみたいなあ」

 一度火が点いてしまった子どもの好奇心は、そう簡単には消えない。とくにふん子は、幼女のくせに頑固者だった。

「ふん子ちゃん、夜はねえ、ここにはないんだよ。だからね、そんなことを思っても、しょうがないんだよ」

「じっちゃんは、あるって言ってたよ」

「あれは夕焼けに終わりがあるって話でね、夜のことじゃないんだよ」

 拓哉は、なんとか諦めさせようとした。

「じっちゃんは、あるっていってたもん」といって、ふん子は背中を見せた。

 もう、ふくれてしまった。こうなるとテコでも動かない。本格的に機嫌が悪くなると、ふん子は手強い猛獣となる。拓哉は諦めさせることを諦めるしかなかった。

「まあ、そうだねえ。最近はあんまし動いてなかったから、たまには西の方に旅行するのもいいかもね」

 ここのところ、食べ物を見つけられない日がなかったので、しばらく遠出はしていなかった。やはり、慣れた土地のほうが探しやすいからだ。 

「そうだねえ」

 不貞腐れたふん子の背中を眺めながら、久しぶりに遠くを探索するのもいい暇つぶしになると、拓哉は思った。探検に夢中になれば、ふん子も夜のことを忘れるかもしれないし、彼自身、そういうことにワクワクする性分でもあった。

「ふん子ちゃん、旅をしようか」

 ふん子は、すぐに振り向かなかった。拓哉がくすぐるように背中を押すと、小さな声で笑った。

「たびはええなあ」

 振り返った夕焼け色の幼な顔が、しみじみと言うのだった。


 旅の前に、タニシがいる池のほとりで二人は寝ることにした。時は就寝の頃合いなのである。

 錆びついた灯油タンクの下でふん子が寝てから、拓哉は池に入ってタニシを探したが、見つけることができなかった。かわりに、チクワが四本入った袋を見つけた。

 ビニールの包装は薄汚れていたが、中身はきれいだった。水の中にあったので、適度に冷えていて腐らなかったようだ。起きたら朝飯として焼いて食おうと考えた。

 卓也は、灯油タンクから少し離れたところで、ふん子の喜ぶ顔を想像しながら眠りについた。

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