夕焼けの向こうへ

北見崇史

第1話

 瓦礫の地で、拓哉は忙しく動き回っていた。

 地面に目を這わせ燃えそうな木片を集めて火をおこし、その辺に転がっているコンクリート片で即席の鍋台をこしらえた。

 ススで真っ黒に焦げた鍋をおいて、積んだ木っ端木にマッチで火をつけた。鍋の中身は、カビの生えた乾麺をうすい塩水で茹でただけだったが、今日は幸運にもションベントカゲのタマゴを見つけたので、最後に割り入れる予定だった。

 乾麺がぐつぐつと煮えてきた。沸騰した塩水の表面にカビが浮かび上がった。ひどく錆びついたお玉でその汚れを丁寧にすくい取ると、拓哉はとっておきのタマゴを割り入れた。

 ションベントカゲは、肉が小便臭くてなんとも不味いのだが、タマゴにはその臭みがなかった。棒でつついて少しばかり黄身を崩すのが、拓哉流特製ラーメンである

汚れた作業着を着た中年男は、熱々の鍋を両手でもって、瓦礫だらけの荒れ地を転ばないように気をつけて歩いた。

 二十メートルほど離れた場所まで持っていくのだが、途中、猫の腐乱死体を踏んでしまい、腐った内臓から鼻がもげるほどの悪臭が立ち昇った。拓哉は、鍋の中身にその臭いが移ってしまっては大変だと、とっさに抱きかかえてしまう。

「あっちっち」

 手のひらを少しばかりヤケドしてしまったが、鍋からは塩ラーメンの美味そうな匂いがしていた。足首にまとわりついた猫の小腸を、空に何度も足を蹴りだしてほどくと、また慎重に歩き出した。


 少し離れた場所に倒壊した木造家屋があった。

 そこまでやってくると、崩壊した瓦屋根の前に鍋をいったんおいた。崩れて落ちた屋根と地面との間に小さなすき間があって、その穴倉に上半身を無理矢理押し入れる。

「ふん子ちゃん、ふん子ちゃん、ご飯だよう。遅くなってごめんねえ」

 すき間の中は、何ともいえぬすえた臭気がわだかまっていたが、垢じみた中年臭よりはキツくなかった。多少の尿臭が混じるが、どことなく柔らく懐かしさをおぼえるものであった。拓哉はこのニオイが好きで、思わず表情がほっこりと緩んでしまう。

「ふん子ちゃん、起きてるんでしょう。ご飯だよう。あったかいラーメンができてるよ」

 中年男は、そろりそろりと上半身を流し込んだ。すき間は大人の男には狭くて、尻のあたりがつかえてしまう。無理にこじ開けて穴倉を壊したら大変だ。

以前、それをやってしまい、しばらくの間、ふん子に口をきいてもらえなかった。

 穴の奥のほうに幼女がいた。小さな身体をくの字に曲げて、あっちを向いて寝ている。じつはもう起きているのだが、わざと寝たふりをしていた。しかも拓哉の呼びかけも聞こえないフリをしている。

 ふん子は、すこしばかり機嫌が悪かった。拓哉が来るのが、いつものタイミングより遅かったからだ。

 大人の都合よりも、常に自分を優先させなければならないとの幼児特有の心理である。抗議の意思を明確にするための不貞寝だった。

「ふん子ちゃん、お腹空いたでしょう。塩ラーメンおいしいよ。それに今日はねえ、なんと、ふん子ちゃんの大好きな卵まで入ってるんだよう」

 ゴクリと幼女のノドが鳴った。汁に入った半熟のタマゴは、ふん子の大好物である。

 拓哉からは、暗い穴倉の向こうに幼女の小さな尻がかすかに見えていた。瓦礫をかき分けて苦労して手に入れた、ひまわり柄のタオルケットを敷いていた。

 ふん子が不貞寝しているのはわかっていたので、拓哉はここで一芝居打つことにした。

「あ、こらっ、シッシ。これはふん子ちゃんのラーメンなんだから、野良犬ごときが食べるんじゃない。ああ~、ああ~、タマゴも食べられちゃったよ」

 中年男が意地悪そうに言うと、幼女はいてもたってもいられなくなった。不貞腐れている場合ではないと、まだ抑えることを知らない食い意地が黙っていなかった。

「わあああ、だめえ、だめって、ふん子が食べるんだから」と叫びながら慌ててでてきた。

「んっご」

「ひゃああ」

 あまりにも急いでいたために、拓哉は身を引く暇がなかった。瓦礫のせま苦しい裂け目で、幼女と中年男の頭がガチンコしてしまったのだ。

「いててて。ふん子ちゃん、大丈夫かい。頭割れてないかい」

 拓哉はふん子を引っぱって外に出た。小さな幼女の頭をそっとさすりながら、怪我がないかどうかを確認した。

「だいじょうび、だいじょうびだよ」

 なにが可笑しいのか、ふん子はキャッキャと笑っていた。その表情を見て、拓哉は安堵のため息がでた。

「じゃあ、ふん子ちゃん、朝ご飯にしようか」 

 拓哉は、そのあたりに散らばったブロックを頃合いの高さまで積み重ねて、そこにラーメン鍋を置いた。

 ふん子は、ちょこんと正座した。両足がハの字にひらいて幼女らしかった。

卵入り塩ラーメンが余程うれしいのか、にゃっにゃっと言って小首を傾げたり、匂いを嗅いだりした。拓哉がふん子専用の短い箸をその小さな手に握らせると、さっそく両手を合わせた。

「いたあだき、ますっ」

 ラーメンは、すでに熱々ではなくなっていたが、ふん子にはそれがちょうどよい温度だった。麺も少しばかりのびてしまったが、小さな子どもには、少しふやけたくらいが食べやすかった。

「うんまいなあ。おっちゃん、うんまいなあ、ありがとうなあ」

 さっきまで機嫌が悪かったが、もう欠片もなかった。そこには、自分のために温かな食事を用意してくれた者への素直な感謝があった。


 ゆっくりと麺をすすって、ふうふうしながら、ちっちゃな手が鍋をつかんで汁を飲んだ。作業着の男はその様子をしゃがんだ姿勢で、アゴに手をかけながら満足そうに見ていた。

「ごちそうーさま」

 幼女は再び手を合わせた。中年男のほうを向いて、いっぱいの笑顔をみせた。

「ふん子ちゃん、まだ残ってるよ」

 鍋の中には、ラーメンもタマゴも汁も、ちょうど半分が残っていた。

「おなかいっぱいだから、もう、いいの」

 ふん子は幼女であるが、食べる量は一人前だ。常に飢えているので、食べられるときにお腹を満たさなければならない。

 本当はもう少し食べたかったのだが、自分が全部食べてしまうと、拓哉の分がなくなるので遠慮しているのだ。そして、それはいつものことであった。

「なんだ、もういらないのかい。なんだあ、ふん子ちゃんは少食だねえ まあ、捨てるのも、もったいないからね。おっちゃんが食べるかな」それも、毎度お決まりのセリフだった。

 拓哉が食べている間、ふん子はあっちを向いて、いつものように手近にある瓦礫の破片などいじくっていた。ラーメンに未練のあるふりを見せまいとの、じつにいじらしい態度だった。

 中年男が、ずずずーっと汁の最後を飲み干していると、足元にさも怪しげな虫が近づいているのを見つけた。

 赤と黄色のマダラ模様が毒々しいその甲虫は、屁虫クワガタだ。強い毒はないのだが、ばい菌だらけなので、噛まれると傷が膿んで治りにくい。さらに、噛まれたものはなぜだか屁が異常なほど臭くなるというイヤな特性を持った虫だ。ついでに付け加えると、虫が肛門から噴射する屁も、尋常じゃないほどの悪臭だった。

「ふん子ちゃん、おしりおしり。屁虫がいるよ」

 そう言われて幼女は一瞬、何が?と首を傾げたが、すぐにその毒々しい色彩に気づき、さらにそれが大嫌いな屁虫クワガタであるとわかり、慌てて尻をあげた。

「アアー、イヤあー」

 ふん子は、顔中くしゃくしゃにしながらその場を離れた。

「うわあ、うわああ、なして、くるにょー」

 屁虫クワガタは、なぜか逃げる幼女を追いかけていた。基本的にはクワガタなのだが、まるでゴキブリのような俊足だった。悲鳴をあげながら逃げ回るふん子のあとを、わさわさとした足取りでついて行く。

「おっちゃーん、おっちゃーん、へむしがくるじょー。いややあ」

 泣きじゃくる幼女とくっさい甲虫が、瓦礫の地を走っていた。だが、遠くへ離れているわけではない。座ってラーメンの汁をすする中年男の半径五メートル以内を、左りにグルグルと回っていた。

 ふん子の一大事である。拓哉は、まだ温さが残る汁を喉の底へと一気に流し込んだ。そして鍋の底に残った砂粒のような残りカスを指ですくうと、最後まで舐め取ってから立ち上がった。

「いややあ、へむすがくじゅうー。なして、くじょーーー」

 もう、ふん子は大変である。

 大人にとっては虫の一匹くらいなんともないのだが、小さな子どもにとっては、それが魔界の化け物のように思えてしまう。

 瓦礫の木くずに足を引っかけて、幼女が転んでしまった。

 わーわー喚いているふん子に、見るも奇怪な虫がわさわさと接近する。だが、なぜか直前で停止してしまった。遠慮しているのか臆したのか、少し離れた場所でじっとしている。尻を上げて後ろ肢を空中でもじょもじょさせたり、触覚で自慢の大あごを撫でまわしていた。どうやら、ふん子が復活するのを待っているようだ。

「ほら、ふん子ちゃん、たって。もう大丈夫だよ、おっちゃんがやっつけてあげるから」

 泣きべそをかいている幼女をそっと抱き起した拓哉は、瓦礫の中から錆びた鉄パイプを拾うと、コンクリート片の上で余裕を見せる屁虫を叩き潰そうと、大きく振りかぶった。

「おっちゃーん、やめてけろ」 

 ふん子は、拓哉のズボンのふともものあたりを掴んだ。何度も引っぱりながら、なんだか神妙な表情をしている。もう泣きべそをかいてはいなかった。

「なんかなあ、かわいそうだからなあ」

 拓哉は鉄パイプをおろした。そして、ふん子の言っていることに、そうだねと頷いた。 

 屁虫クワガタは、小さな女の子に情けをかけてもらったことなど気にする様子もなく、腐った魚の屍骸みたいな強烈な屁を一発こいて、わさわさと肢を動かしてどこかへ行ってしまった。

「くっちゃ~い」

 ふん子は鼻をつまんで、これでもかっ、というぐらいのしかめっ面をした。悪臭や不潔に慣れているはずの拓哉も、さすがにこの臭いはがまんならず、屁虫がいなくなった方向に向かってコンクリート片を投げた。「こんちくしょう」

 ふん子は尻を地べたにつけて 小さな顔をあげた。 

「くっちゃい、ですねえ」との幼女の呼びかけに、「ほんまに臭いでがんなあ」と中年男が返した。両人ともくすくすと笑っていた。


 濃い朱色に染まった夕焼けが、二人に長い影を供していた。その鮮血のような灯りは、一日を通して消えることはない。この世界は、朝も昼も、そして夜すらない。いついかなる時でも空は夕焼けなのだ。

 雨がふらないので雲もかからない。空は、その見事なほどの朱色を絶え間なく見せつけていた。

「あれれ、ふん子ちゃん。ちょっとお尻みせて」

 中年男は幼女の腰のあたりをつかんで、半回転させた。

「いやや」

 ふん子はわざとらしく恥じらうが、結局はおとなしく従った。

「ありゃりゃ、ズボンのお尻、破けちゃったね」

 ふん子が屁虫クワガタと追いかけっこしているときに、瓦礫からとび出していた有刺鉄線に引っ掛けてしまったのだ。 

「あーあ」

 垢だらけの小さな手で赤ジャージの尻の部分を触って、ふん子はしょんぼりとため息をついた。泣くまではいかないが、なんだか物悲しい表情だ。

 拓哉が走った。

 彼のねぐらは、少し離れた場所にある倒壊した東屋だ。崩れ落ちた屋根と地面のすき間に入り、寝床から空き缶を一つとると、すぐに戻ってきた。

「ほら、ふん子ちゃん、ズボンを脱ぎな。おっちゃんが縫ってあげるから」

 空き缶には裁縫道具が入っていた。それは瓦礫をかき分けて食い物を探しているときに、偶然見つけたものだった。

「ああ、うう~ん」

 ふん子は、なんだかモジモジしていた。幼女といえども女の子なので、恥ずかしいようである。

「ほらほら、早くしないと、また屁虫が追いかけてくるよ」

 拓哉は無理に脱がそうとはしなかった。ふん子がその気になるまで待っていた。また、その時間を面倒だと思うことはなかった。ほっこりと、心の中で笑みをうかべていた。

 ふん子はジャージを脱いで足元に置いた。拓哉がそれを拾って、尻の部分の破れ具合を吟味する。ふざけてニオイを嗅いだりすると、幼女はキャッキャと騒いだ。

 糸で縫うだけでは、その破け目を修復できない状態だった。ジャージの生地が薄くなっているのだ。

「ふん子ちゃん、この穴ね、縫っただけじゃあだめだから、違う布をあてがうよ。ちょっとカッコ悪くなるけどね」

 拓哉は、作業着のポケットの中から、その作業着と同じ布きれを取りだして、ジャージの破れ目に当てて縫いはじめた。ふん子は、とくに文句を言うことはなかった。

 器用に裁縫をする中年男を、幼女は膝を抱えるようにして見ていた。時おり首を傾げては、キャッキャと笑っている。

 縫い物をしながら、拓哉はチラリチラリとふん子を見た。イチゴ模様がいっぱいのパンツがひどく汚れている。またバイ菌が繁殖して皮膚病になるのではと心配になった。現に、幼女はパンツの中に何度も手を入れて、ポリポリ掻いたりしている。前に洗ったのはいつだったかと、頭の中を検索していた。

 切実に洗濯してやりたいと思ったが、年相応に恥ずかしがり屋なふん子のことだ。ズボンならまだしも、パンツはなかなかあずけたがらない。

 ふん捕まえて無理矢理脱がすという手もあるが、それをすると信頼関係にヒビが入り、せっかく築いてきた友情が壊れてしまう。無視されてしまうと、ふん子の世話を焼けなくなる。そうすると、幼女は毎日飢えて苦しむことになるだろう。

 いま無理をしなくても、そのうち何かのきっかけで洗濯が出来るだろうと考えた。寝る前にちょっとだけ頑張って、瓦礫の中から幼女用のパンツを探してみようとも思っていた。新しいパンツをもってきたら、容易に着替えてくれるだろう。夕焼けの朱に照らされた中年の顔を、ふん子は頼もしそうに見ていた。

「ハイ、できたよ」

 拓哉の裁縫のおかげで、ズボンの破れ目はすっかり塞がれた。すきま風が入って、寒い思いをしなくて済むだろう。

「なんかあ、カッコわるいなあ」

 口ではそう言うが、幼女の機嫌はよかった。さっそくズボンをはくと、キャーキャーと笑いながらその辺を走って具合を確かめていた。

「おっちゃーん、きょうなあ、なんするのう」

 拓哉の前に立ったふん子は、ピョンピョン飛び跳ねていた。拓哉とどこかへ行くことが楽しくて仕方ないのだ。まだ行先も聞いてないのに、はやくはやくと急かしている。

「そうだねえ、今日はふん子ちゃんの好きな、タニシを獲りに行こうか」

「ひゃおひゃお、キャー」

 タニシを獲りに行くと聞いて、ふん子は喜びのあまり変な声を出した。満面の笑顔である。

「た、たにしって、うまいんか。オラア、食ってみてえなあ」

 いつのまにか、男の子の浮浪児が一人、すぐ傍にいた。二人の会話を聞いていたようで、タニシに異常なまでの執着をみせていた。

「オラもいこうかな。たにし食いてえしなあ。うまいんだったら、食いてえしなあ」

 拓哉とふん子は無言になった。男の子と逆の方向を向いて、そこになにもいないかのような態度をとった。


 ふん子のように、自分の面倒を本気でみてくれる大人がいる子どもは、じつはそんなに多くはない。たいていが一人で瓦礫の地をさ迷い、そして当然のように飢えきっている。住処さえも見つけられないまま、ずっとウロウロしている子が大半なのだ。

 ここでは大人でさえも、その日を十分に過ごせる量の食物を得ることは難しい。一日中瓦礫をかき分けて、やっと一握りの食料を得ることができる程度だ。重たいコンクリート片や、ササクレだった木片を除けての作業なので、怪我をすることもある。まだ年端もいかぬ子どもが、この地で食い物を探し当てるのは困難なことであった。

浮浪児の面倒をみようとする大人は、じつは意外と多い。

 しかし、最初は可哀そうだと思ってあれやこれやと世話を焼くが、子どもを育てる大変さに気づき、大半が途中でなげ出してしまう。

 ふん子も、過去にそういう大人たちに幾度となく辛酸をなめさせられた。飢えて食い物をねだる少女の目の前で、少しも彼女に分け与えることなく、ガツガツと節操なく食べ尽くすのだった。

 そのあまりの非情さに初めのころは泣き叫びもしたが、それもやがて冷えた沈黙にかわった。幼児がいくら泣き叫ぼうが、薄情な大人は気にすることもない。ここでは誰もがそうしているし、それが罪や恥の意識に繋がることはなかった。


「そうだ、ふん子ちゃん。つば爺さんのとこ行って、神さまの話を聞こうよ」

「ええー、いややあ」

 つば爺さんとは、この辺りで瓦礫が一番高く積まれている頂点に座っている目が不自由な老人のことだ。

 神さまの話しが大好きで、下を通りかかった者を手招きしては長々と話をする。たいていの大人は相手にもしないが、さ迷い続ける浮浪児は、食べ物を貰えるのではと思い、ホイホイと老人のところへ行ってしまう。

 拓哉に出会う前のふん子も、食べ物を貰えるかと期待して行ったことがあった。

「じいちゃんのつば、くっちゃあいから、いや」

 老人は視力がほとんどないので、瓦礫の中から食い物をあさることができない。いちばん高い所で、ひどい臭いのする唾をぺっぺと吐き出し、それに群がってくる羽虫を食べるのだった。羽虫は小さいのでたくさん捕まえなければ腹を満たせない。だから爺さんは、四六時中唾を撒き散らしていた。

 神さまの話を少しでも聞いた子どもは、あっという間に臭い唾だらけになる。この辺の浮浪児で、そのことを知らない子はいない。

「さあ、行こ行こ、つば爺さんのところへ行こう」

 イヤイヤをする幼女の手を無理矢理引っぱって、中年男が歩き出した。男の子はついてくる気配がない。つば爺さんと聞いて、タニシへの執着が萎えたようだ。この子も、あの臭い唾だらけにされたことがあるのだろう。

 ふん子にとって、拓哉は親以上のありがたい存在だ。いままで世話をしようとした大人たちとは違い、途中で投げ出さず、ほんとうによく面倒を見てくれていると感じていた。彼と一緒にいるようになってから、何日も飢えに苦しむこともなくなり、貧しいながらも日々の食事を欠くことはほとんどなくなっていた。

 ねぐらにしている瓦礫のすき間も、彼が見つけた。ここの空はいつも夕焼けなので、どこかに隠れなければ、まぶしくてなかなか寝つかれない。睡眠不足で辺りをうろつくと、金属の破片などが引っかかって怪我をしやすくなる。とくに浮浪児は、足に怪我を負っている子が多かった。

 拓哉のふん子に対する接し方は、愛情に溢れていた。

 食べ物は、自分よりも常にふん子を優先していた。どんなにお腹がすいていても先に食べさせるのだ。幼いながらも、ふん子は彼の気持ちを痛いほどわかっていた。ありがたくて、そして大好きでたまらない。だから拓哉がやることに時として意見を言ったりはするが、基本的には従うのだ。

 中年男は、足取りの重い幼女をいきなり抱き上げた。そして、ぶっちょヅラしている小さな顔に言った。

「よし、じゃあ、タニシをとりに行こうか」

 ふん子の表情が瞬時に明るくなった。うれしさのあまり、拓哉の顔面に抱きついた。

「つば爺さんのとこに行くって言ったら、あの子もついてこないからね」

 その意味するところを理解した幼女は、よくやったとばかりに中年男の顔をバシバシ叩いた。

「いたったた。今日はたくさんとれればいいね」

「うん」

 タニシはそんなにいないことを、拓哉もふん子もよく知っている。だから多くを期待してはいない。二人で何かをするということが重要なのだ。

 瓦礫の地を、中年男とズボンに目新しいパッチを縫い付けた幼女が歩いている。落ちることのない真っ赤な夕焼けが、彼らに二つの長い影を提供していた。


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