7.冷静になんかなれない
―瑠維―
休憩室でコンビニおにぎりをかじりながら、時計を見てため息をつく。
…今頃、桃瀬さんはどこで何をしているんだろう。
電話で呼び出されたらしい透人さんは、仕事中だったのかスーツ姿のまま病院に来た。何事かあったのかと慌てている様子だったけれど、病室で待ち構えていただろう桃瀬さんを見たら、びっくりしただろうな…。
おにぎりの最後の一口を、押し込むようにして飲み込む。コンビニ袋の中にはもう一つおにぎりがあったけれど、何だか食欲がわかなかった。
ふと思いつき、おにぎりの入ったコンビニ袋を手に僕は休憩室を出た。
南棟へ続く渡り廊下を歩く。奥へ向かって歩みを進めていくほど、人の気配が薄くなっていく。
『医局』と古びたプレートのかかった扉に手をかける。いつもみたいに勢い良く開けるべきか迷って、結局そっとドアノブを回した。
「世良先生?いますか。」
部屋に入り、ソファへ目をやる。何かの抜け殻のように、放られた白衣が背もたれの部分にかかっていた。
「…しわになりますよ、っていつも言ってるのに。」
「何か用。」
少し開けた窓辺にもたれてタバコをふかしていた世良先生が、素っ気ない声を発する。
「先生、お昼ご飯は?」
「食ってない。」
「そうだと思って、ご飯持ってきました。」
窓辺に近づき、コンビニ袋を差し出す。タバコをくわえたまま袋を受け取った世良先生は、中身を確認すると微かに笑った。
「何だよ、おにぎり一個って。お前の食べ残しだろ。」
「失礼な、封開けてないですよっ。」
「どうした、食欲ないのか。」
僕を見上げた世良先生と目が合う。いつもの眼鏡はしていなくて、彫りの深い目元を縁取る長い睫毛が、綺麗に見えた。
「…先生こそ、今日は『栄養ゼリー食べた』って、言わないんですね。」
世良先生はくわえていたタバコを手に取ると、携帯灰皿に押し付けて蓋を閉じた。
「食べたいっていう、欲求が湧かない。」
「タバコばっかり吸ってるからでしょ。」
「お前、本当口うるさいなあ。」
世良先生の口元が、ふ、と緩む。
「…まあでも、ありがとな。後で食べるよ。」
机の隅にコンビニ袋を置くと、世良先生は窓の外へ視線を投げた。
「…戻らなくていいのか、片倉。休憩もう終わるだろ。」
「…。」
黙っていたら、先生は再びこちらを向いた。
「何か言いたいことあるなら、言えば。」
どきり、とした。
―先生、本当は分かってたのかな。僕がいつもみたいに、世話焼きに来たんじゃないってこと。
何もかも見透かされている気分になりながら、口を開いた。
「先生。」
「ん。」
「どうして、桃瀬さんに外出許可出したんですか。」
世良先生はため息をつくと、やっぱりその話か、と言って腕を組んだ。
「どうしても何も、医者として患者の求めに応じただけだ。何か文句あるのか。」
「だって…桃瀬さん、出歩いて平気な状態なんですか?違いますよね?」
「桃瀬が大丈夫だって言うんなら、大丈夫なんじゃないの。」
どこか投げやりな世良先生の態度に、もどかしさと同時にいら立ちが募る。
「心配じゃないんですか、桃瀬さんの事…っ。」
「…心配に決まってるだろ、当たり前のこと聞くな。」
「だったら何で…」
世良先生は目を伏せ、無造作にセットされた前髪をかき上げた。
「…とっくに自分の命に向き合って覚悟決めてる奴の事、止めて何になる。俺が縄で縛り付けて部屋に鍵かけて閉じ込めたって、あいつは何としてでも透人チャンのところへ駆けつけたさ。それが分かってたから止めなかった。」
「でも…そんな。」
「実際、今のところ調子は安定してる。いつどうなるか分からないのは、ここに運ばれてくる前からずっと変わらない。…もう、好きなようにさせてやりたいんだよ。」
―どうして、そんな。
何もかも、諦めきったような口調で。
「止めたかったんじゃないんですか、本当は。」
「…何?」
「『行くな』って言いたかったんじゃないんですか、先生…っだって、本当は先生、桃瀬さんの事…!」
その先を言っていいのか、躊躇った一瞬のうちに、世良先生の目元が険しくなった。
「そうしたら、あいつは幸せなのか。」
「…え?」
「桃瀬が嫌がってるのに、無理やり病院に縛り付けて強引に手術受けさせることが、あいつの幸せに繋がるのかって言ってるんだ。」
「でも…だって、このままじゃ桃瀬さんは」
「成功率100パーセントなら、無理にでも手術受けさせるさ。だけど医療に絶対なんてない。」
「そうじゃなくて…っ、だったら、世良先生の気持ちはどうなるんですか!」
思わず大きい声が出た。ずっと眉間にしわを寄せていた世良先生の表情が、ぽかん、となる。
「は?何…?」
「どうして言わないんですか。好きなんでしょ、桃瀬さんの事…!」
口に出してしまったら、急に涙が込み上げてきた。
「何で言わないの…好きなくせに…っ。どうしていつも、自分の気持ちは置き去りなんですか…!」
嗚咽が、こらえきれずに喉の奥を震わせる。
桃瀬さん、ひどいよ。どうして気づいてあげないの。こんなにも近くに、あなたを誰よりも大切に想ってくれている人がいるのに。
何でもないふりで平気な顔してるけど、ただの強がりなんだよ。
本当は、本当は…世良先生は…。
「…泣くなよ。」
頬にこぼれた涙に、世良先生の指先が触れる。
「あのな…何か勘違いしてるみたいだけど、俺は別に桃瀬の事、そんな風に思ってるわけじゃないよ。」
「…うそ」
「違うんだって。ただ…」
ぐい、と少し雑な手つきで、べたべたになった頬をぬぐってくれる。
「ただ何よりも、あいつに幸せでいてほしいだけなんだ。大事な、幼馴染だからさ。」
「じゃあ…っ、先生の事は、誰が幸せにするんですか…っ。」
「は…何だよ、それ。」
笑って、ぐしゃぐしゃと髪を撫でてくる。
「俺は幸せだよ。こんな風に、俺の為に泣いて怒ってくれる、可愛い子がそばに居るんだから。」
「…っ、ほんとに…?」
「本当だって。いい加減、泣きやめよ。」
「だって…っ。」
馬鹿みたいに泣きじゃくる僕の頭を撫でて笑いかけてくれるばかりで、世良先生は最後まで涙を見せなかった。
―ねえ、先生。
僕じゃだめなんですか。僕じゃ、あなたの支えになってあげられませんか。
いつも優しいあなたの、弱いところに触れてはいけないですか。
寂しい気持ちを、分けてはくれないんですか―。
「…おい、お前のPHS鳴ってないか?」
言われ、慌てて胸ポケットを探る。病棟の固定電話からだった。
「わ、やば…っ」
「貸せ。」
出ようとした僕の手からあっさりPHSを奪い取ると、世良先生は通話ボタンを押して耳に当てた。
「もしもし、世良です…ああ、片倉?ちょっと俺が用事言いつけたせいで、すみません…ええ、もう戻りますから。」
適当な嘘を言って通話を切ると、僕の胸ポケットに元通りPHSをしまってくれた。
「ほら、そろそろ戻れよ。」
「すみません、先生…」
「いいから、とりあえず顔洗ってこい。」
軽く目を擦り、言われた通り顔を洗いに部屋を出ようとした。
片倉、と、名前を呼ばれて振り向く。
「?…はい。」
窓辺にもたれたまま、世良先生は僕に向かって微笑んだ。
「…ありがとな。」
優しい声。
―堪らなく、なった。
開きかけていた扉を閉める。引き寄せられるようにして、世良先生に近づいた。
僕を上目遣いに見上げた世良先生の唇に、自分の唇を押し当てる。
顔を離したら、目が合った。ゆっくり一回瞬きした世良先生の目が、びっくりしたように見開かれる。
「…おい。何して」
「ごめんなさい!」
慌てて謝り、扉へ向かって走る。
「片倉、ちょい待てお前」
「…っ、先生!」
扉に手をかけ、勇気を出して振り向く。
「僕、先生の事が好きです!」
声が、震える。
「桃瀬さんの事ばっかじゃなくて、これからは、少しは僕の事も考えてください!」
「は…おい、片倉」
「失礼します!!」
バンっ、と勢いよく扉を閉め、誰もいない南棟の廊下を走った。
息が上がる。弾けて胸から飛び出してきそうなくらい、心臓が激しく脈打っている。
唇が熱い。柔らかい感触を思い出したら、爆発しそうなくらい心臓が早鐘を打った。
…ごめんなさい、先生。
僕は、桃瀬さんに嫉妬していたんです。
全然、世良先生の気持ちに気づかない桃瀬さんに、腹が立って仕方なくて。
先生、本当に違うんですか。桃瀬さんの事、好きなんじゃないんですか。
違うなら…もう、あんな悲しい顔しないで。
僕を見て、心から笑ってくれたらいいのに。
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