6.後悔したくないのなら

―瑠維―

翌朝、桃瀬さんは無事に目を覚ました。

一晩中、病室のベッドの傍らで付き添っていた透人さんは、仕事に行かなければならないと言って昼前には帰って行った。


***

ナースステーションに置かれた電子カルテで、桃瀬さんの病状を確認する。

『薬を飲ませれば治まる程度の発作』なんて世良先生は言っていたけれど、結局入院させて経過を見るとの事だった。

世良先生が入力したカルテの内容を見る。

『―本来なら手術適応だが、本人拒否―』

ステーション内に、ナースコールの音が響く。

「片倉、大部屋の佐藤さん呼んでる。点滴交換行ってきて。」

「あ、はい。」

先輩看護師に言われ、点滴のバッグを載せたカートを押してステーションを出た。


点滴交換を済ませステーションに戻る途中、個室から聞き覚えのある声が聞こえて思わず足を止めた。

「馬鹿な事言ってんなよ、何で今ここにいるのか分かってるのか。」

個室の戸の脇に貼られた、入院患者の名札を確認する。―桃瀬さんの病室だ。

建付けが悪いのか少し開いた引き戸の隙間から、中の様子を窺う。カーテンが引かれていて桃瀬さんの姿は見えないけれど、ベッド脇に立っている白衣の後姿は間違いなく世良先生だった。

「―外出許可なんて出せるくらいなら、とっくに退院させてる。」

聞こえてきた単語に驚く。外出許可だって?

「じゃあ早く退院させてよ、もう何ともないんでしょ?」

「何ともないわけないだろ。」

あのな、と世良先生は一呼吸置き、言った。

「お前…本当に死ぬぞ。」

思わず息を飲んだ。心臓が早鐘を打つ。

―けれど、桃瀬さんは。

「分かってるよ。」

しっかり、はっきりした口調だった。

「分かってるから、頼んでるんだろ。」

「…桃瀬」

「安静にしてたって、いつどうなるか分からないのは同じだろ。このまま死んだら、きっと後悔する。だから…」

ぱし、と背中をはたかれた。

「こら、全然戻ってこないと思ったら!」

振り向くと、先輩看護師が腰に手を当て怒った表情で僕を見上げていた。

「あ、すみません。」

「何やってるの、盗み聞きなんて趣味が悪いわよ。」

「ち、違いますよ。もう戻ります!」

カートを押し、ナースステーションへ戻る。

―頭の中で、さっき聞いた会話がぐるぐる回る。

外出したいだなんて。まさか、世良先生許可したりしないよね…?


***

「…桃瀬さん、本当に外出するんですか…?」

心電図の電極を外しながら、恐る恐る問いかける。

「するよー、何言ってるの今更。」

繋がれていたコードの類いが全て外れて嬉しそうな表情の桃瀬さんが、ベッドから体を起こす。

「早く点滴も抜いてー?」

はい、と太い留置針の刺さった白い腕が差し出される。

サージカルテープをゆっくり剝がしながら、桃瀬さんの顔を見た。

「本当に具合悪くないですか?」

「うん、ばっちり。ちゃんと朝ごはんも食べたよ?」

「…顔、青白いですよ。」

「もともと色白だから、それはしょうがないなぁ。」

あはは、と笑う桃瀬さんは楽しそうで、どう言っていいのか分からず複雑な心境になる。


―絶対、外出許可なんか認められないと思っていたのに、結局世良先生は許可を出してしまった。

今朝、出勤してすぐ夜勤明けの看護師から申し送りを受けて驚いた。

見せられた外出許可証には、世良先生のサインが入っていた。


ベッド脇の小さなキャビネットの上に置かれた、外出許可証の控えを見る。

日にちは今日、正午から夕食前の時間になっていた。

「…ご実家にでも、行かれるんですか?」

そうであってほしい、と思いながら問いかけてみる。

ご両親と今後について話し合う為とか、そういう理由なら納得できたのに。

「ん?違うよ。ちょっとお出かけ。」

桃瀬さんは、さっさと入院着を脱ぎ捨てると薄手のパーカーに袖を通した。ちなみにこの服は、外出許可を取った時に世良先生から借りた物らしい。

下に履いていたのも脱いで、細身のデニムに足を通す桃瀬さんに、思わず聞いた。

「桃瀬さん。」

「なに?」

「怖く、ないんですか。」

茶色い大きな瞳が、僕を見る。

「怖い?」

「自分の体が今どういう状態なのか、分かってるんですか?」

つい責めるような口調になってしまう。

桃瀬さんは少し考えるように視線を下げたけれど、すぐ、いつもみたいに口角をキュッとあげて笑った。

「分かってるよ?分かってるから、こうして行動してるんじゃん。」

桃瀬さんはベッドの端に腰かけると、そっと自分の左胸に触れた。

「ちゃんと、動いてるのになあ。いつ壊れるか分からないんだから、困っちゃうよね。」

「…。」

「でもさ、だからこそ今やるべきことをしないといけないと思わない?」

上目遣いにこちらを見た桃瀬さんの目を見返す。

「やるべき事が、無理を押して外出することなんですか。」

「そうだよ。」

「手術…受けてからじゃ、だめなんですか?」

桃瀬さんは困った様に笑って、世良と同じ事言うなあ、と呟いた。

「…手術は、受けるよ。でもその前に、思い出作りをしておきたいんだ。」

「思い出作り、って…」

「うん。名木なぎちゃん…ほら、俺にずっと付き添ってくれてたあの子ね。俺の恋人なの。」

恋人、という言葉が、すごく大切そうに愛おしそうに響く。

「俺がもしも、このまま手術受けて…それきり目を覚まさなかったりしたらさ、残されたあの子が辛いだろ。」

「…。」

「だからきちんと、名木ちゃんの心の準備ができるように、最後にしっかり話しておかないといけないからさ。」

淡々とした口調で話す桃瀬さんの言うことが、上手く自分の中で処理しきれない。

「桃瀬さんは…。」

声が震える。

「自分が死ぬかもしれないって、思ってるんですか。」

「思うも何も、そりゃいつかは死ぬよ。」

間髪入れずに答えが返って来る。

「永遠に続くものなんてないからね。限られた時間の中で、少しでも後悔しないように生きるしかないじゃん?」

『―桃瀬が、時々言うんだ』

イチョウの木の下で、世良先生の言っていた事がよみがえる。

『…俺はそこまで達観できねえよ。生きていてほしいって、思うんだよ―』

「…さーて、名木ちゃんに電話しないとなー。」

桃瀬さんが腰を上げる。

「桃瀬さん…」

「ん?」

「どうしてそんなに、落ち着いていられるんですか。」

泣きそうな顔をしていた、世良先生の事が頭から離れない。

「世良先生だって、本当は…っ」

「俺だって最初から全部、受け入れられていたわけじゃないよ。」

桃瀬さんの顔に、初めて悲しげな表情が浮かんだ。

「…怖くて、逃げ出したこともあった。もう、恋なんて本当はしたくなかった。…けどさ、しょうがないじゃん。俺あの子の事、好きになっちゃったんだもん。」

暗いロビーで、肩を震わせて桃瀬さんの無事を祈っていた、透人さんのことを思い出す。

「もう俺には、いつまで時間があるか分からない。だから、残された一分一秒だって後悔したくないんだよ。俺の体の事を知っても、それでも好きだって言ってくれる、あの子の想いに応えたい。いつか自分が辛い思いすることが分かってるのに、俺の為に泣いてくれる、…そんな名木ちゃんが愛おしいんだ。」

桃瀬さんはキャビネットに近づくと、外出許可証と、電話番号が書かれたメモを手に取った。

「…そんなわけで、名木ちゃんに電話してくるね。」

何も答えない僕の顔を覗き込むと、桃瀬さんは小さな声で、ごめんね、と言ってそっと僕の肩に触れてきた。

「何かあったら、ちゃんと連絡するから。」

「…はい。」

病室を出て行く桃瀬さんの背中に、気を付けて、と声をかける。

桃瀬さんは振り向くと、柔らかく笑って手を振ってくれた。

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