8.初恋だった
―瑠維―
…3年前。
看護師になって、半年以上が過ぎた頃だった。
ある日、業務中にすごく大きなミスをしでかした僕は、上司の看護師長に叱られてかなり落ち込んでいた。
とんでもない事をしでかしたショックと自分に対する不甲斐なさで涙が止まらなくて、休憩時間に人のいない所を探していて、裏庭まで行きついた事があった。
黄色く色づいたイチョウの大きな木のそばに、背もたれの一部が欠けた壊れそうなベンチがあって、ここならきっと誰も来ないだろうと思って腰かけた。
「…ねえ。」
急に声を掛けられて驚いた。振り向くと立っていたのは、当時まだ研修医だった世良先生だった。
「そこ、俺の席なんだけど。」
指さされて、慌てて立ち上がった。
「すみません、誰も来ないと思って…。」
世良先生は僕の隣に来ると、ちらっと顔を見て、「ま、別にいいよ。居れば?」と言って端に腰かけ、懐からタバコの箱を取り出して一本くわえた。
戸惑いながら、世良先生と距離を開けて反対の端に腰かけた。カチ、とライターの音が鳴った。
「先生、いいんですか。勤務中なのに。」
「そういう自分は?」
口からゆっくり煙を吐き、世良先生がこちらを向いた。
「どうして、こんな所で泣いてるんだよ。」
聞かれて、引っ込みかけていた涙が再び、泉のごとく湧き出て溢れ出してしまった。
急にぼろぼろ泣き出した僕に驚くでもなく、世良先生はただ、優しく背中をさすってくれた。
込み上げる嗚咽がようやく収まった頃、何があったのかを話すことが出来た。
世良先生は、ふうん、とだけ言って、そっと頭を撫でてくれた。
「ま、そんな日もあるさ。」
ともすれば素っ気なくも聞こえるような、そのたった一言で、すっと心が軽くなったのを覚えている。
「元気出せほら、タバコ吸うか?」
そう言って小さな箱を差し出してくる世良先生に苦笑を返した。
「僕まだ、未成年なんですけど」
「まじかー…それなら。」
白衣のポケットから出て来たのは、透明な包装紙に入った、小さなキャンディだった。
「これ舐めて、元気出せ。」
「…ありがとう、ございます。」
手のひらに、ころんと載せられた薄荷キャンディーを見つめていたら、世良先生の指がそれを摘まみ上げた。色が白くて、ほっそりした指だった。
包装紙を剝かれたキャンディが、ほら、と僕の口元に差し出された。
条件反射で口を開けたら、カラカラに乾いていた口の中に甘いキャンディが転がり込んできた。けど舐めたら、一瞬で辛みが鼻に突き抜けて、思わず顔をしかめてしまった。
「はは、すごい顔。辛かった?」
そんな僕を見て笑った、世良先生の優しい笑顔は、今でも昨日の事みたいに覚えている。
***
桃瀬さんの手術から、一週間が過ぎた。
5時間にも及ぶ大手術は無事終わり、循環器病棟の大部屋に移った桃瀬さんは、顔色も良く元気そうに見えた。
「お疲れ様でしたー。」
日勤勤務の看護師が次々に帰って行く。僕も自分の業務を片付け、帰り支度を済ませてナースステーションを後にした。
廊下を歩きながら、ふと窓越しに南棟奥の部屋を覗いてみる。窓は閉じていて、半分かかったカーテンの奥に、人の気配は無い。
―桃瀬さんが無理を押して外出した日に、勢いで世良先生に告白した。あの時から一度も、医局を覗きに行っていない。
もちろん桃瀬さんの様子を見る為にしょっちゅう世良先生は病棟に来ていたし、ナースステーション内のパソコンでカルテを打っている姿も、何度も見かけていた。
だけど気まずくて、つい避けてしまっていた。
世良先生の方も別にわざわざ僕に話しかけに来るわけでもなく、淡々といつも通り仕事をこなしているだけだった。
当然用事があれば普通に言ってくるし、僕もそこはきちんと社会人として分別をつけて接していたつもりだけど。
…やっぱり、勢いであんな事言うんじゃなかったな。
「ただいまー。」
おかえり、と台所から母の声が返ってくる。履き潰したスニーカーを下駄箱に片付け、コートを脱ぎながら二階の自室へ向かう。
リュックを床に放り、ハンガーにコートを掛けようとしたところで、スマホが着信音を鳴らした。見ると、病棟の固定電話からだった。慌てて通話ボタンを押す。
「はい、片倉です。」
あ、片倉君?と、夜勤担当の先輩の声がする。
『帰ったばかりで悪いんだけど、戻ってこられる?』
ものすごく申し訳なさそうな先輩の声に、不安が募る。
「あの、何かあったんですか?」
『うーん…あのね』
ちょっと待ってね、という先輩の声の後、先生ほんとに言うんですかー?と、呆れたような問いかけが聞こえた。
…何だろう?
『あ、ごめんね。至急戻れって、外科部長が』
「外科部長?!」
頓狂な声が出てしまった。何でそんな大物の先生が僕なんかに?
『戻ったら急いで着替えて、ヘリポート行ってだって。』
「ヘリポートですか?え、あそこ使ってましたっけ…?」
病院の屋上にヘリポートがある事は聞いてたけど、ドクターヘリが本当に来た事は僕の知る限り無いはずだった。今はもう、使用していなかったはずじゃ。
『いいから、早く来なさい』
「あっはい、行きます!」
面倒臭そうな先輩の声に慌てて返事をし、僕は急いでまたコートに袖を通して部屋を出た。
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