2.桜色の髪の彼
―瑠維―
診察で使う検査機器の準備が終わる頃、新しい白衣を着た世良先生がふらりと診察室に現れた。
「おー、準備ばっちり。気が利くじゃん。」
先生は席に着くとすぐ、電子カルテにログインして外来の待ち一覧を確認し始めた。
右手でマウスをクリックしながら、無意識なのか左手がパソコンの横へ伸びる。
「どうぞ。」
さっき淹れておいたインスタントコーヒーが注がれたマグカップを、コースターの上にそっと置く。
さまよっていた世良先生の左手が、マグカップの持ち手を見つけて捕まえた。
「さんきゅー。さすが。」
「そろそろ胃に穴が開きますよ。」
「ストレスで?」
「カフェインの摂取のし過ぎで、です!」
「よーし、じゃあ診察始めよ。」
都合が悪くなるとすぐ誤魔化す…。
心の中で小さくため息をつき、診察室の引き戸に手をかける。
「ご予約の患者様からお呼びします―」
順調に定期受診の予約をさばき、待ちが少なくなってきたなと思ったところで、マウスを操作していた世良先生の手が止まった。
黒縁眼鏡の奥の、切れ長の目元に鋭さが増す。
近づき、背後からカルテの名前を確認した。―
「…片倉。」
「はい。」
「心電図準備して。」
「もうしてあります。」
世良先生は振り向いて確認すると、強張っていた表情を緩めた。
「ごめん、さっき見たな。そういや。」
「先に検査しますか?隣室も使えますが。」
検査中に、後に待っている患者を診察するかと思ってそう聞くが、「いや、入れて」と言われたので、引き戸の取っ手に手をかける。
「桃瀬さん、どうぞ。」
「はーい。」
よく通る声がした方へ視線を向ける。
―桜色の、柔らかそうな髪が目に入った。
「お願いしまーす。」
軽い口調で診察室に入ってくると、桃瀬さんは世良先生の前に置かれた椅子に座った。
「よ、久しぶり。」
「久しぶり。元気そうじゃん。」
知り合いなんだろうか。親し気なやり取りを聞いて、内心首を傾げる。
この桃瀬さんという患者さんは、前にも外来で見たことがあった。その時は別のドクターが診ていて、世良先生が対応しているのを見たのは今日が初めてだった。
「調子はどうなの。」
「まあまあかなー。最近、新しい仕事始めたからちょっと疲れてはいるけど。」
「また性懲りも無く立ち仕事とかしてんじゃないだろな。何始めたんだよ?」
「カフェで働いてる。今度おいでよ、どうせ相変わらずコーヒーばっか飲んでるんだろ?」
桃瀬さんの視線が、パソコン脇に置かれたマグカップへ向く。
「コーヒーは俺の主食だから。」
「うわ、不健康。お前のが病気になりそうだな。」
「言ってろ。…聴診するぞ。」
言いながら、デスクに置いてあった聴診器を手に取り、桃瀬さんの胸元に当てる。
雑談で和らいでいた世良先生の表情が、再び険しさを増していくのが分かった。
「何かイヤな音でも聞こえた?」
おどけて言う桃瀬さんに、世良先生は厳しい目を向けた。
「そこ寝ろ。心電図取る。」
「まじか。どきどきしちゃうなー。」
軽い口調でそう言って立ち上がると、桃瀬さんは靴を脱いでさっさと寝台に上がって仰向けになり、シャツのボタンを外し始める。
「技師呼んできますか。」
「いい、電極貼れ。分かるだろ?」
「あ、はい。」
世良先生の指示を聞きながら電極をセットする。先生は素早く機械を操作し始めた。
―検査が終わり、電極を外していく。
「…悪いの?」
今取ったばかりの心電図のデータを見つめたまま動かない世良先生に、桃瀬さんが問いかける。
「いいわけないわな。」
ため息をついて眼鏡の掛け具合を直し、世良先生は桃瀬さんの方へ向き直った。
「何度も聞いてるけど、手術する気は。」
「んー、だって成功確率五分五分なんだろ?」
服を整えた桃瀬さんは、ゆっくり寝台から足を下ろすとスニーカーに両足を突っ込んだ。
「自分で自分の寿命縮めたくはないなあ。」
「分かってるのか、桃瀬。このまま放っておいたら、いつどうなるか分からないんだぞ。」
苛立った口調で厳しい事を言う世良先生とは対照的に、桃瀬さんはどこか諦めたような表情で薄く笑んだ。
「俺は別に今更どうなったって構わないよ。」
ただ、と桃瀬さんは続ける。
「自分の運命決めちゃうのはさ…ちょっとまだ、怖いかな。」
「…あのなあ。」
さっきせっかくシャワーして整えてきたんであろう髪をかき回し、世良先生は心電図のデータをデスクの上に放った。
「まだ時間あるよな?」
「何ー?痛いのは嫌だよ?」
「CTと採血追加する。片倉、検査室の手配。」
「はい。」
指示を受け、PHSを手に診察室を出る。
検査室の使用予約を押さえ、世良先生がオーダーした採血内容を確認して必要なスピッツ(採血管)を戸棚から出していく。
準備を済ませ、再び診察室に顔を出した。
「先生、準備できました。」
「外で待ってる。」
素っ気なく一言だけ言い、傍らに置かれたマグカップのコーヒーを飲み干す。
やさぐれた様子の世良先生の背後から、先ほどの桃瀬さんの心電図データを盗み見た。
規則正しい波形の中、不規則に波打つ箇所が少しだけ見えた。
待合室で待っていた桃瀬さんを呼びに行き、採血を先に済ませてから検査室へ案内した。
「造影剤入れますので、横になってください。」
検査台に寝てもらい、駆血帯で腕を縛る。
指で押さえて血管を探す。色の白い人だな、と思った。白いを通り越して青褪めて見える。
「嫌いなんだよなー、造影剤。気持ち悪くなるからさ。」
ぼやく桃瀬さんの顔を見る。
「食事されてませんよね?」
「どうせ検査だなんだって言い出すに決まってるから、いつも食べてないよ。」
笑ってみせる桃瀬さんの顔色は青白い。朝食を抜いたからというより、貧血気味なんじゃないだろうか。
「針刺しますね。」
「はーい。」
血管の壁を破る手ごたえを感じる。針を固定し、点滴バッグの位置を調整する。
連絡したはずだが、忙しいのかなかなか技師が来ない。
桃瀬さんを見ると、目が合った。桃瀬さんの口角がキュッと上がる。
「なあに?」
「あ、いえ…」
うろたえかけ、ふと思い出して聞いてみた。
「あの、世良先生とはお知り合いなんですか?」
「あー、世良?うん、幼馴染なんだよね。」
「へえ…。」
そう言えば年も同じだったような、と近くに置いた桃瀬さんのカルテデータを見る。
「そうだったんですね。」
「うん、親同士が仲良くてさ。元々、俺の主治医ってあいつの父ちゃんだったし。」
「世良先生のお父さんて…院長?」
「そう。あいつ昔は、親の職業継ぐなんて嫌だーなんて言ってたんだけど」
それまで笑って話していた桃瀬さんの表情が、不意に翳った。
「…あんなに嫌がってたのにさ。あいつが今医者やってるの、俺のせいなのかも。」
「桃瀬さん…?」
検査室の自動ドアが開く気配がして振り返る。ようやく技師が来たらしい。
「では、僕はこれで。」
「うん、ありがとねー。」
点滴していない方の腕で、ひらひらと手を振ってくれる桃瀬さんに微笑み、検査室を出た。
その後も外来対応をこなし、ようやく昼休憩の時間になった。
財布とスマホだけ持ち、近くのコンビニへ行こうと正面玄関から外へ出た。
―気づいたのは、桜色の髪の毛があまりに目立つせいだった。
正面玄関脇の駐車スペースで、桃瀬さんが誰かと話している姿が目に留まる。随分いい身なりの、長身の男だった。
検査前に僕と話していた時とは打って変わって厳しい顔つきをした桃瀬さんが、男に何か言って背を向けた。男がすかさず、桃瀬さんの細い腕を掴んで引き留める。
何を言っているのかまでは分からなかったけれど、やがて桃瀬さんは諦めたような表情で車に乗り込んだ。
運転席に長身の男が乗り込む。二人を乗せた黒い外車は、僕が立っていた場所とは反対方向へ走り去って行った。
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