キョウコさんのいえない恋

葛来奈都

キョウコさんのいえない恋

 私はキョウコ。いつも一人で音楽室にいる。


 でも、最近は一人じゃない。休み時間や放課後のたびにピアノを弾きに来る子がいるからだ。その子の名前は相田あいだ君。一年三組にいるメガネをかけた男の子だ。


 彼が弾くのは「時の旅人」という合唱曲の伴奏だった。

 私がいる中学校の学校祭は毎年クラス対抗で合唱コンクールが行われる。この合唱コンクールが学校祭の名物で、みんな闘志を燃やして練習する。


 いつもは音楽の先生がやる伴奏も、合唱コンクールでは生徒が行う。相田君はピアノが弾けるという理由で伴奏者に選ばれたらしい。だからみんなに迷惑がかからないよう、こうして練習をしているみたいだ。


 今日も相田君は「時の旅人」を弾いていた。音楽室にいびつながらも繊細な旋律が鳴り響く。たまに弾き間違うことがあるが、その一生懸命さは私の胸を打った。それに、「時の旅人」は私も歌ったことがあるから、聴いているだけで懐かしい気持ちになる。


 だが、相田君の演奏は曲のクライマックスになるといつもつまずいた。曲が転調する大事な一小節なのに、指がもつれてしまうのだ。相田君はそのたびに演奏を止め、悔しそうに短い髪をガシガシと掻いていた。合唱コンクールまであと一週間しかない。相田君は本番までにちゃんと弾けるようになるのだろうか。


 相田君が心配で、どこにいても彼のことを考えることが増えた。今だって、せっかくトイレで友達のハナちゃんとお話をしているのに、ハナちゃんの声が全然耳に入ってこなかった。


「大丈夫? 何かあった?」


 ハナちゃんが心配そうに顔をのぞき込んできたので、私は「なんでもないよ」と笑ってみせた。それでも、ハナちゃんが「本当に?」と首を傾げる。


「あ、わかった。ひょっとして、恋してるとか!」


 ハナちゃんが目を細めてからかってくるが、黙りこくってしまった。

 もしかして、私は相田君に恋をしているのだろうか。


 確かにピアノを弾いている相田君は格好いいと思った。譜面を追う真剣な眼差し。みんなに迷惑をかけたくないという健気な姿勢。いや、こうして彼のことで頭がいっぱいになっている時点で、きっと相田君のことが好きだった。かといって、口には出せない。それがたとえ、友達のハナちゃんであってもだ。だって、この思いを口に出してしまったら、相田君への気持ちを認めてしまう。


「恋なんかしてないよー。というか、できないもん」


 そう言って誤魔化してみると、「そうだよね」と納得された。


「恋なんてしたところで、報われないもんね」

「そうそう。そうだよ」


 ハナちゃんに合わせて私も頷く。ハナちゃんの言う通りだ。叶わない恋だとわかっているからこそ、この気持ちは誰にも言わない。言いたくないのだ。


 そんな話をしたところで、トイレの奥で誰かがハナちゃんのことを呼んだ。

 ハナちゃんは人気者だから、こうしていろんな人に呼ばれる。


「私、行かなくちゃ。またね、キョウコちゃん」

「うん。またね」


 ハナちゃんは私に別れを告げると、「は~い」と返事をしながら私の元を去った。ハナちゃんもいなくなったから、私も音楽室に戻ることにした。



 音楽室に着くと、すでに相田君がピアノを弾いていた。練習のおかげか、少しずつ指がもつれなくなった。いつも失敗してしまうところも今日はちゃんと弾けている。

 この調子なら本番も大丈夫のはず。私はホッと安堵しながら、音楽室のはしっこで彼の演奏を静かに聴いていた。



 合唱コンクールまであと二日。

 この時期は音楽の授業を使って合唱コンクールの練習が行われる。音楽の先生がビシバシと指導してくれるから、みんな真剣になって歌っていた。しかも今日は本番前の最後の音楽の授業。彼のクラスメイトたちの気合いが私にまで伝わってきた。


 ピアノの椅子に座る相田君の顔がこわばっている。あれだけ練習したのだ。「失敗するもんか」と思っているのだろう。


 指揮者の子がタクトを振る。それに合わせて相田君が鍵盤を叩いた。

 左手のオクターブから始まる前奏は上手く弾けていた。だが、ピアノの音色からいつもの繊細さが消えている。それどこか、伴奏が少し早い。緊張して指が駆け出してしまっているのだ。きっと今の相田君には指揮者のタクトも見えていない。それどころか、指揮が相田君の伴奏に合わせている形になっていた。これでは本末転倒だ。


 音楽の先生の顔が険しい。机をトントンと指で叩いてイライラを押さえているように見える。それでも先生は相田君の演奏を止めなかった。本番と同じにしているのだろう。


 当の相田君は先生がそんな顔になっていることにも気づいていないようだ。それどころか、クラスメイトたちの視線が相田君に集まっていることにも気づいていないのだろう。今彼が見つめているのは、目の前の譜面とピアノの鍵盤だけだ。


 けれどもそんな荒々しい演奏もあっさりと終わりを告げた。演奏中に相田君の指がもつれたのだ。


 大きく外れてしまった音に相田君の指が止まる。それに合わせるように指揮者のタクトとクラスメイトの歌声も一緒に止まった。


 それを見た音楽の先生が深くため息をついて椅子から立ち上がった。


「歌も指揮もそこで止まらない! 本番は何が起こるのかわからないんだからね!」


 荒らげる先生の声でみんなの表情が固まる。中には腑に落ちなさそうに口をとがらせる子もいた。おそらく「自分たちのせいじゃないのに」と思っているのだろう。


「相田君。続きを弾いて」


 先生が相田君に声をかけるが、相田君は顔をうつむいたまま動かなかった。相田君の肩が小刻みに震えている。こんな状態では、とてもピアノは弾けそうにない。


 再び先生が深く息をつく。そして「今回だけよ」と言って相田君をピアノの席から立たせた。


「最初から弾くわ。相田君はみんなの歌をよく聴いていて」

「はい……」


 返事をするが、相田君の声は暗かった。


 相田君が席に戻ると、先生の合図で指揮者がタクトを振った。演奏が始まる。先生なのだから当然だが、伴奏は相田君とは雲泥の差だった。時にゆったりと弾き、時には力強く弾き、生徒たちの歌声を引き立たせる。もちろん、指揮者とテンポも合っている。歌っている人たちは同じなのに、伴奏でここまで変わるのかと思ってしまった。


 一方、演奏中の相田君はずっとうつむいていた。多分、クラスメイトに合わせる顔がないと思っているのだろう。


 相田君……。

 祈るように相田君を見守る。だが、結局相田君は先生のピアノも合唱も聴いておらず、音楽の時間が終わるまでずっと下を向いていた。



 その日の放課後、相田君は音楽室にやってきた。

 ピアノの椅子に座って、譜面台に楽譜を置く。そしていつものように鍵盤を叩くが、今の彼が奏でる旋律は、目を向けられないほど悲しい音色だった。


 相田君の目から大粒の涙が流れる。一生懸命練習したのに、それが報われなかった。それどころか、みんなに白い目で見られた。悔しかったのだろう。悲しかったのだろう。授業中で泣かなかった分、押さえられなかった気持ちがこうしてあふれ出しているのだ。


 それでも相田君は制服の袖で涙を拭いた。目を真っ赤にしながらも、相田君はかぶりつくように楽譜を見て、鍵盤に手を置いた。あれだけの屈辱感を味わっても、彼は立ち上がろうとしていた。


 ああ、だめだ。こんな姿を見てしまったら、私もこの気持ちに噓はつけない。胸の中に秘めてなんていられない。


 気づけば私は相田君の隣に立っていた。


 ──大丈夫。君ががんばっていることは、私が一番知っている。


 そっと相田君の肩に手を置こうとするが、彼の体に触れることなくすり抜けた。これが現実だ。でも、不思議と悲しいとは思わなかった。


 相田君が鍵盤を叩く。曲の前奏が始まった。

 歌が始まる。それに合わせて、私も深く息を吸う。


 発声した時、相田君が私のほうを見た気がした。最初は驚いたように目を丸くした相田君だったが、やがて小さく笑った。相田君には私の姿なんて見えていない。それでも、相田君が私に向かって微笑んでくれた。それだけで、もう十分だ。


 さっきとは打って変わって、彼の音色が明るくなる。はずむような鍵盤。滑らかな指の動き。聴いているだけで、楽しくなるような旋律だ。この調子なら、本番も絶対大丈夫だ。


 ──忘れないで。私はずっと、君のことを見守っているから。

 私の声は君に届かない。それならば、せめてこの思いだけでも歌に乗せて──

 

 その日以来、相田君しかいないはずの音楽室から女の子の歌声が聞こえてきたという噂が広がった。よくある学校の怪談だ。一番奥の個室のトイレで名前を呼ぶと返事をしてくれる「トイレの花子さん」と同じ類い。ただ、私の場合は「音楽室のキョウコさん」とでも呼ばれるのだろう。



 私はキョウコ。その昔、合唱コンクールの日に交通事故に遭って亡くなってしまった──歌が大好きな生徒の亡霊だ。

 誰にもいえない私の恋心は、歌声と共に消えていった。

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キョウコさんのいえない恋 葛来奈都 @kazura72

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