破滅を厭わぬ者よ

「どけええええええ!」

 全部、全部全部この糸のせいだ。俺だって周囲の人間にナイフを振り回すような危ない人間になりたくなかった。でも仕方ないのだ。こうでもしないと規定が手に入らない。穏便に、安全に、誰も死なずに済ませたいと思うくらいいいだろう。何処の誰とも知らない自殺は止めようがないとしても、せめてこれくらいの被害は抑えたい。

 俺は断じて救世主などではなく、そしてこれからもそうなるつもりはない。これは善意ではない。悪意をまき散らすのが苦手というだけ。大いなる我儘の延長線にある自惚れだ。

 殺したくない、殺さなくていい道があるという無意識の自信。

 規定者が殺しに来ているなら話は別だ。俺だって死にたくないから、それはもう和解のしようがない。しかしこゆるさんは明らかに規定を使いこなせておらず、その異常な力に自身も被害を被っている。こういう人を殺すのは、善くない。

「…………ぁ! ッぐ! きぇあああああああああ!」

 声で圧して、白い糸を切る。ついでに青い糸も切っているが本当に効果が良く分からない。害がないので一緒に切っているだけ。何のメリットがなくとも糸は見ているだけで吐き気がするので切断されてくれるとほんの少しだけ気持ちがいい。

 俺のナイフ捌きは素人のそれだが、白い糸が強制的にあらゆる行動をキャンセルさせてしまうせいで、見た目以上の効力がある。キャンセルはマキナ曰く『自発的』なので―――言うなれば自発を選択させている。自ら動きを止めてあまつさえ近くを刃物が通り過ぎるなんて想像するだけでも肝が冷える。相手が素人なら効果覿面だ。


「波園ちゃんを返して!」

「きゃ……いやっ!」

「…………触るなっつってんだろ!」


 マキナがどんなに強い存在だったかを再確認する。俺には人間一人満足に守る事も出来やしない。せめてもの保険として片手を繋いでいたのが功を奏した。反対側の手を抱き込もうとした中学生を蹴り飛ばし、あわやの所でこゆるさんを抱きしめる。

「………………あ、有難う」

「……………」

 蹴ったのはお腹なので許して欲しい。そしてこれに懲りたようなら俺を追わないで欲しい。糸の力でどうにかなっているだけで人海戦術は基本的に覆せない。頭上を切ってばかりだから今は安全かもしれないが、少しでも身長の高い人間が混ざったら俺はどうするつもりだろう。うっかり刃物を肌に滑らせれば致命傷だ。まして今は誰も見ていない。努めて目を瞑って、その気持ち悪くて仕方のない気配を狙っている。目を開いている時より負担は軽いが、それだけだ。『切る』という形で認識しているせいか確実に負担がかかっている。

 襲い掛かってきては勝手に停止する人の波を力任せに掻き分けると、そこは表通りだった。偶発的な物ではない。俺が狙っただけ。人の壁が明らかに裏へ誘導するような意図を感じたので敢えて表へ出てみた。

 こちらには立て籠もっていた俺達に向けて脅迫をしてきた三人組が居るものの、来るのは想定外だったらしい。拡声器以外に何の準備もしておらず、奴等は手持無沙汰のまま加勢するように向かってきた。

 痛みから、目を見開く。開幕見えたどうしようもない因果に、声が荒れる。

「ああもうほっとけよ! 人が嫌がってんのにずっとつけてきやがって! 厄介ファンが歓迎される訳ねえだろばああああああああか!」


 規定のせいだと分かった上で言っている。ハートだらけの糸を視て俺は気がおかしくなりそうだ。悪態でも吐いてないとやってられない。こゆるさんの手前、精神状態がまともである風は装わないと、信用問題に関わってくるが―――目から今にも死にそうなくらい出血した奴がまともであるなら、かえってそれは疑わしくなりそうだ。

「なんか追われてる!」


「あ、あの人こゆるちゃんを攫った人だよ!」

「警察に連絡……連絡……」

 

 波園こゆるのアイドル力を舐め腐っていた。道行く人の全てが俺の敵だ。言葉の上では何となく理解していても、実際に加勢されると非常にきつくなる。世の中素晴らしい善人が多すぎて涙が止まらない。お願いだから今くらいは携帯のカメラをこちらに向けて傍観者を気取っていて欲しかった。ネットにアップするなり友達に自慢するなり何でもいいから、俺を追いかける側に加わるのだけはどうか…………



 糸が邪魔だ。



 いっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそいっそ。


 全部切ってしまおうか。何もかも殺して、滅茶苦茶に壊して、解は出た。明白だ。そして簡単だ。人としての誇りと、世界を拒む意地を捨てて頼めばいい。それでこの悩みは終わる。終わるのだけれど。

「………………邪魔、なんだよ」

 こゆるさんの規定はこんな状況でも俺を蝕まんとしてくる。こいつが一番あり得ない。空気を読め。俺の味方は何処だ。見渡す限り敵だらけ、規定の影響に拘らず、誰も犯罪者の味方はしてくれない。そんな当たり前の状況に憤慨している俺は、やはり悪人なのだろうか。


「うおおおあああああああああ!」


 ラグビー部も斯くやという模範的なタックルを食らい、俺達は共に体勢を崩した。糸の有利で辛うじて均衡を保っていたがもう限界だ。一人に組み付かれたかと思えば三人に、三人が十人、十人が五〇人くらいに。



「波園ちゃん!」


「取り返したぞおおおお!」


「何かされてるかもしれない!」


「俺の家で調べよう!」


「私が身体を調べる!」


「こっち! 早く!」


「誘拐犯から引き離せ!」


「波園ちゃんだあああああ!」


「い―――あ―――あ――――――!」



 こゆるさんの声がかき消される。


 愛に狂ったファンには優しさの欠片もない。髪を掴み、顔を掴み、首を掴み、肩を掴み、胸を掴み、足を掴み、靴を掴み、太腿を掴み、お尻を掴み、腰を掴み、腕を掴み。組み伏せられたこの状況では頭上に伸びる糸を切る事も出来ない。圧倒的人数差にどうしようもないのは彼女も同じだ。目に大粒の涙を浮かべながら、俺に向かって何度も手を伸ばそうとした。伸ばそうとして、そのたびに防がれていた。


「……………………………波。こゆるッ!」


 何故だろう。この光景には何故だか見覚えがあるような。こゆるさんではなく、誰かがいつか同じ様な状況に。思い出せない。だが身体は震えている。ああ、助けられないのか。救世主出ない限り、俺には何も出来ないのか?


 マキナのような規格外が居なければ。

 未礼紗那のような暴力が無ければ。


 かのじょはないていた。

 おれにたすけをもとめていた。

 このひろいせかいで、おれにだけたすけをもとめていた。

 今も、まだ信じている。

 「ぃ―――ゃ! いや゙ぁ! たすけ―――」

「…………ッこゆ、る……」

 世界が赤く滲んでいく。『愛』の規定が成就すれば、この場の善人達は波園こゆるを強姦するだろう。男も女も子供も老人も関係ない。『愛』の形は数あれど、そもそも規定とはそれ自体に基づいたルール。『愛』の基準を弄るだけの力でも、生物に紐づけられた原始的な『愛』とは即ち性愛、そして繁殖。

 何故分かるかなんて説明させるな。分かるものは分かるんだ。赤い糸は全てを教えてくれる。こゆるさんから発生する糸は、その結末をありのまま語ってくれる。 

 ピシッ。


「………………ぅぐぅ…………ぅぅぅぅぅぅ!」

 出血には留まらず、今度は左目自体が決壊した。視界に罅が入った次の瞬間には全体的に黒く塗りつぶされ、使い物にならなくなる。


 


 だが痛みは。




 俺に、選択する力を与えてくれた。


 



 ファンはこゆるさんの方に気を取られ、俺への対応がおろそかだ。今しかないだろうと、俺は再び持ち上げたナイフで己の手首を勢いよく掻っ捌いた。




「うがああああああああああああああああ!?」


 元々マキナに落とされた手首だからと楽観視していたが、何をどうやってかしっかりと神経まで繋げてくれていたようだ。あの時は『傷病』の規定もなかったのにどうやって。そんな事がどうでも良くなるくらい、痛かった。気が狂うなんて生ぬるい。残った視界が閃光のように白くなって、全身が感電したかのような熱を持って、正常な意識なんてとても保っていられない。次の瞬間には全てが嘘で、何もかもデタラメで、だからどうでもよくなってしまう無気力が確定していた。

 そんな俺を助けていたのは腹立たしくもこの視界。どんなにおかしくなっても糸だけは見えてしまうせいで、これは現実なんだと身体が反応してしまう。それが悔しくて、悲しくて、業腹で。


 血の気が抜けるから、いつも以上に冷静になってしまう。


 間欠泉よろしく飛沫いた血液を周囲にまき散らすと、あれだけ強気に俺達を固めていたファンが一斉に飛び退いて血液から逃れるように背中を向けた。残されたのはたった一人で血の雨を受け続けるこゆるさんのみ。

 ナイフをポケットに刺すようにしまって、視界が無事な方の手で彼女を抱き上げる。色んな所を触られたショックからか、アイドルは借りてきた猫よりも大人しくなっていた。虚ろな瞳が僅かに動いているので気絶まではしていないようだ。


「…………逃げよう」


 俺の血は余程穢れているらしく、ファンの殆どが動きを止めてその場で服を脱ぐなり水を浴びるなりの対処法を取っていた。今の内に逃げるしかない。最初にして最後のチャンスだ。俺にも時間が無い。これ以上生易しい事を言える強さがないのだ。

 だから今度同じ状況になったら、殺す。

 身体の何処にこんな力が残っているのかは自分でも不明だが、とにかく同行者一人を抱えて逃げられるくらいの力は残っていた。血の気が失せて朽ち果てる前に、一歩でも遠くへ。
















「ここまで……来れば」

 途中から抱える力もなくなって、それでもどうにか橋の下までやってきた。出血は隠し切れていないが、簡単には辿らせないように土の上を歩いたり住居侵入したり、ズボンに溜まった血を抜いたりしたので少しは時間を稼げると信じたい。

 出血に伴う脱力に何度足を取られただろう。こゆるさんにはそういう意味で助けられた。ここまでしっかり動けるなら案外軽傷かもしれないなんて思った矢先、身体が動かなくなった。

「直ぐに応急手当てしますから! 死なないで下さい!」

「…………返り血、悪いな。天下のアイドルに、そんな汚いモン浴びせて」

「そ、そんなのどうでもいい! 死なないで下さい! なんであんな事したんですか……」

 玄関、という言葉がある。日常用語の様で、元は宗教用語だ。この国には信仰の自由があり何を信じるも自由、何も信じないも自由だが、日常生活にまで用語が溶け込むと最早そこに具体的な信仰はなくなってくる。しかし信仰には変わりない。


 穢れ信仰というと如何にも古めかしく聞こえてくるが、俺達が普段やっているような手洗いなんかは穢れを祓う行為ともされる。科学的な説明では病原菌を洗い流す為にする行動だが―――同じ事だ。穢れとは要するに汚いと思えてしまう概念。怪我や病気がその代表で、どんな素人でも誰かの血を進んで浴びたいとは思わない。宗教的には穢れているし、科学的には単純に不潔、どんな病原菌を持っているか分からない。だから触りたくない。

 汚い物には出来るだけ触りたくないという心理を逆手に取った末に思いついたのがあの作戦だ。あそこまで嫌がってくれるのは予想外だった。その前に失明したのは誤算だったが、身体が動くならそれでいい。

「……指一本も触らせないつもりだったけど……それも破った」

「そんなの別に…………駄目。血が多すぎる!何で無事な……いや、そうじゃなくて!」



「いや、それでいいんだ」



 こゆるさんの手を止めさせて、血塗れになってしまった肩を掴む。これがマキナに頼らない俺の限界。それならせめて……最後にもう一仕事。不自然にまだ生命の続く身体に奇跡を信じて。

「なあ波園さん。死ぬ前にさ……聞かせてくれよ。望み」

「え? 急に、何の……」

「手首とか、脚とか。何処が消えるか分かんないけど、それで君の今の悩みは消える。死なせたくないから…………出来れば、俺が。喋れる内に」

「…………今はそれが、望みじゃない!」

「……………………?」

 こゆるさんは手遅れと悟っても尚、手当てを再開した。

「今は、貴方に生きててほしいんです! 私は貴方の事全然知らないのに、貴方は何も知らない私の事を守ってくれました! どんな理由があろうと、貴方は私の救世主なんです! 私の望みは貴方が死なない事! 身体の何処でもあげるから! 死なないで! 死んじゃ嫌! 貴方の為なら死ねるから! 有珠希さんには生きててほしいんですぅ…………!」

 馬鹿な事を。

 目を泣き腫らしてぐちゃぐちゃに顔を歪めたって駄目だ。マキナじゃない。アイツは居ない。これが人間の限界。無理をした。早く頼るべきだった?


 ………………。


 まあ、もうじき死ぬ男には関係のない問答だ。マキナと出会ってほんの少し長い気出来たと考えれば損はない。ああでも。





 アイツに会えないのは、嫌だな。
















「勝手に死ぬなんて、私が許さないわ」    

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