たとえば、日常的な幸せの話

『よく考える事ですね。キカイと行動を共にすればそれだけ貴方はかつての道を見失う。人でなくば悪党か、それか何者にもなれずキカイと別れ、腐り果てるか。いずれにせよ碌な結末にはならないでしょう。まだ無理強いはしません。よく考えてください』


 そんな言葉を言い残して未礼紗那は俺を解放してくれた。明らかに間違っていると思っていても一旦は考える時間を与える。それが機関とは無関係な彼女の信条らしい。

 お陰様で通常通り下校出来たは良かったが、考えろと言われても答えは変わらない。少し不安にはなったが、かつての道―――日常なんて、糸と共にあった醜い世界だ。そこに戻りたいとは、多分思わない。

「…………」

 玄関を開けるだけなのに、どうしてこんなに気が重いのだろう。仲は悪くても家族は家族。歓迎される謂れは無くても、ここまで怯える必要もないはずだ。自分でも理解したくない恐怖が、何となく残っている。

 否定したくて、踏み込んだ。


「に、兄さん…………?」


 家の構造が悪いのだが、二階へ上がろうとするとどうしても玄関から見える範囲に身体を通過させる必要がある。たまたま自室へ戻ろうとする牧寧と目が合って―――硬直。

 膠着ではなく。ただ二人共固まった。

「に、に、に…………う、ぅぅうう! 兄さ~んッ」

「うわあああ。おい! ちょ、泣くなって……」

 まさかその場に崩れ落ちて泣き出すとは思わずに、慌てて駆け寄って妹を抱きしめる。いや、そんなつもりはなかったけど手を伸ばしてきたから思わず。俺と比べればはるかに愛されている妹だ、泣いた声が聞こえれば飛んでくると思ったが、来ない。

「那由香とか二人は居ないのか?」

「ぅぅうう。うううう。兄さん、が。いて欲しくないなら、居ないんじゃないですかあああ?」

「ああもう泣くなよ……ここは家だからさ。か、帰ってくるだろ。お前に泣かれるのも嫌だし。だからもうそんな、人が死んだみたいな反応はやめてくれ」

 俺も人格破綻者ではない。自分に対する好意には相応の感情で接する。仲が良い方の妹に常時錯乱してもらいたいと願う兄はいないように、今は泣き止ませるので精一杯だった。これが外に出ると自立した大人みたいに振舞うらしいから世の中とは分からない。

 俺の前ではごらんの通りの泣き虫なのに。

「今日。ぐず。すん。出かけませんか?」

「え。あー…………その」

「出かけるんですね…………」

「…………まあ、あんまり家には居られないのも事実だよ。特に最近は俺も悪いから、顔を見るなりぶん殴られそうだ。那由香との仲もずっと悪いけど、一々暴言はかれるのは結構辛かったりする」

「そ、そうなんですか!? 那由香、私の声なんて聞いてないみたいに言ってましたけど……」

「一々相手にするのも嫌なんだよ。悪口ってそれだけで傷つくからさ。そう俺って実は心弱いんだ。泣き虫のお前と同じ。兄妹そっくりだな」

「も、もう! 今はそんな事いいじゃないですか! 兄さんいじわるなんですから!」

 胸の中で牧寧が頬を膨らませて可愛らしく抗議をする。目はまだ腫れて、ついさっきまで泣いていた痕跡は残っているが、立ち直ってはくれたと思う。結局他の家族が居るのか居ないのかは分からないが、妹が引っ張って仕方ないので仕方なく二階に上る。

「え、お前の部屋に行くのか?」

「…………私は、兄さんの部屋でもいいですけど」

「いや、そういう意味だったらお前の部屋でいい。俺の部屋は俺の臭いがするから多分居心地悪い」

「……………兄さんの臭い、安心するから好きなんですけど」

 名残惜しそうな表情も垣間見せつつ、牧寧の部屋に通される。自分の妹に対する分析であーだこーだと言うのもどうかと思うが、可愛らしい性格ながら壁紙を買えたり家具を統一する程の熱量はない。だがぬいぐるみなんかは大好きで、ベッドの周りにはたくさんの動物が置かれている。全部俺が取った物だっけ。

 そんなベッド周りを除けば部屋は凄く片付いている。彼女がしっかりしている事の証左だ。泣き虫とは別に両立する。

「いつ出かけるんですか?」

「学校から帰ってきて今は十六時……でいいよな。大体二一時くらいには出ようと思ってるんだが」

「そ、それじゃあ……その。兄さんさえよろしければ、これからはリビングで食事するのではなく、私の部屋でするのはいかがですか? 料理も、頑張りますから」

「え、そこまで世話になる訳には……大体拒否されたらどうするんだよ。俺の為に料理ってのは家族的に一線を越えてるんじゃないのか?」

「大切な兄の身体を支える事の何が一線を越えているんでしょうか。断られる事は無いと思います。二人共、私には優しいですから」

「…………」

「に、兄さんはもっと優しいですよ?」

「いや、張り合ってない。なんとなくさ……お前みたいに愛されてたら、俺も変われたのかなって」

 因果の糸は先天的に視えていた訳ではない。だから記憶にはないが厳密には最初の頃は愛されていたのかもしれない。覚えていないなら何にも関係のない事だ。糸が視えるようになってから俺は頭がおかしい奴と思われ、そのストレスに暴れ、忌避され、最早憎まれているのかという節さえある。

「兄さん…………その。夜の外出はいつまでも続きませんよね? 落ち着いたら……話があります。その時はどうか、来てくださいね」

「ああ。それは別に…………食事の件は、嫌じゃないならお願いしたいかも。ちょっと考えたけど、苦しそうだ」

「勿論です! 兄さんのお役に立ててうれしい! フフ…………あ、えっと。何でもないです。それより兄さん。こ、今回ね、部屋に入れたのは他でもないっていうか……………………」

 今度はやけに歯切れが悪い。言い出せないならそれでも、と思ったが暫くすると牧寧は意を決したように大声で叫んだ。




「ゆ、夕食まで一緒にお昼寝しましょう!」





「………………二人に見られたら終わりだぞ? 特に親父」

「大丈夫です。見る訳ない……ゆ、夕食まででいいですから。布団の中、で。手を握って。お、お願いしても……いいですか?」

 弱腰なんだか強気なんだか分からない妹だ。そこも言い切ってくれてよかったというか、何故家族に限って断言するのか。それだけ仲が良いという事だろう。その性格が手に取るように分かるならそういう事だ。一方で俺は、暫く関係が断絶していたから手探りのままな部分があるのだ。

 

 ―――これ以上困らせるのは、可哀そうだよな。


 妹のベッドに入るのがまず抵抗感があるという問題は見なかった事にして。俺は一足早く身体を入れると、クイクイと指で彼女を招き入れた。

「や、やった! 兄さんとお昼寝…………ふふ」

 普段の丁寧な口調も消えて、年相応に無邪気な妹が姿を現した。手を握り締めると足を絡めてきて、背中を抱きしめると全身を預けるように胸の中へ体を縮こまらせた。



「…………兄さん。私、幸せです。やっぱり私、兄さんが居ないと」

「……」



 例えば、こんな日常が。

 マキナといれば失われるらしい。 

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