天外の月に理外の想い



 赤い糸は何者も邪魔しない。光は遮られず、人はそれを意に介さない。ただ純粋に俺の視界の邪魔をしているだけ。今までその選択肢を外してきた。ずっとそれを忘れて生きてきた。優しい感情が邪魔をして、まともな理性が踏み留めて、ずっとこの選択に手が届かないでいた。




 今、俺は人を殺したい。



 積極的に。破滅的に?



 官能的に、猥褻的に?




 理由なんてどうでもいい。この感情に身を任せ、この感傷を忘れないでいる内に殺シタイ。


「…………ぁ。ああ。クソ。腹が立つ」


 式宮有珠希はロクデナシだ。だからこの怒りも間違っている。それでいい。俺には我慢ならない。単なる偶然でマキナの力を手に入れた癖に、それを自分の力のように振舞っているのが気に入らない。それで日常を破壊しようとするのが理解出来ない。


 俺もそいつも異常者だ。善人になれない奴等は全員仲良く一括り。日陰に身を寄せるべきは俺達の方であって、恩着せがましくてあつかましい善人の方ではない。『規定』を変えられるから何だ。そんなに自分を普通に置きたいか。



 ―――違う。



 違う。何が違う。じゃあ俺は何に怒っている。この怒りに正当性の欠片もない事を承知した上で尚、何を間違える?


「……有珠希。どうしたの? 顔が怖いわよ」


 階段をゆっくり上っていると、肩を並べて歩いていたマキナが声を掛けてきた。怒りに支配されている筈の脳みそが、ほんの少し解放される。


「…………何でもない」


「嘘」


「お前には関係ない。大丈夫だから」


 声を荒げている事も分かっている。彼女は俺を純粋に心配しているだけ。それなのに何故だ。何故俺はいつもの調子を保てない。そしてこの酷い性根は悪戯な謝罪を良しとしないので、謝りもしない。マキナは俯いて、何も言わなくなった。



 イタイ。



 いたいいたいいたいいたいいたいいたい。心臓が痛い。キカイの心臓が、取り換えられた心臓が、錆びついたように鼓動が悪い。この痛みは何だ。何が原因だ。これも誰かが改定したからなのか。許せない。許さない。殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる。


「………………ぐぅぅぅぅぅぅ」


 この手が血に濡れたら。本当の意味で日常には戻れなくなる。俺は日常に帰りたいから、妹と―――家族と素直に接したいからマキナとの取引を呑んだのに。それは駄目だ。駄目だろう。許されない。誰かが俺を助けようとしても、俺自身が許せない。



「……大丈夫かな」



 聞こえるか聞こえないかの独り言。俺の耳には届かない。


 三階に到着した。不思議にも気分が高揚している。感覚は研ぎ澄まされ、気配という概念も今なら理解出来る。この階には沢山の死人が居た。何も間違ってはいない。生殺与奪を握られたまま生きているなんて死人以外の何物でもなかろうに。


 言うなればゾンビの対義だ。死にながらに生きる存在がゾンビなら、生きながらに死んでいる存在は果たして何と呼べばいいのやら。


「―――聞き忘れたんだが、マキナ」


「ん?」


「白い糸を切るとどうなるんだ? 俺には、何も起こってないようにしか見えなかったぞ」


「あーそう言えば説明し忘れたわね。と言っても私に糸は見えないけれど、まずは安心して? ちゃんと因果の一種よ。それで白い糸を切った場合なんだけど、あの瞬間、子供が泣き止んだでしょ?」


「泣き止んだな」


「あの時ね、因果に歪みが発生したのよ。ちょっとキカイっぽく言うならエラーを吐いたみたいな? ううん、それはちょっとわかり辛いわね。要するに、貴方が子供の行動を勝手にキャンセルさせたのよ」


「……行動を、キャンセル?」


「ああもう、こっちが見えないものを説明するのってこんなに難しいのね! その白い糸は因果の中でも特に直近の行動を示してるのよッ。他の人にも見えるのはその人が『歩いて』いたり、『話して』いたり、『座って』いたり、『呼吸』でもしてるからじゃないかしら」


「―――他人の行動に、割り込めるって事か?」


「ちょっと違うわね。多分相手にとっては自分の意思で何故か行動を辞めたって認識よ。つまり、貴方の力は少なからず因果に干渉するようになってしまった…………本当、有珠希って珍しいヒトね。良くもそんな力を持って十何年も正常でいられたものだわ」


 『狂気の夢』にも意味があったとしてくれるなら、少し嬉しい。自分がおかしいだけで世界は正常なのだという自虐的な思い込みにも意味があったようだ。お蔭で本当に狂う事もなく、今の俺は現実を直視出来ている。




 三階に踏み込んだ瞬間、大柄な男性が病室から飛び出し、木製のバットを振りかぶって俺に突っ込んできた。




「うおおおおおおおおおおおおおおお!」


 可哀想に。


 己の命を人質に殺人までしなければいけないとは。


 背後から挟むように迫ってくるのは中学生くらいの女の子だ。もしも同じ学校なら妹と同級生くらいか。あからさまに身体を強張らせ、表情を引き攣らせながら近づいてくる。手には包丁、共に俺を殺す気か―――



 いや、違うか。



 俺に『傷病』をリンクさせて、同じ生き地獄を味わわせて野郎という魂胆。それはついさっき、マキナに人格を排泄させられた少年で見た手口だ。たとえ即死しなくても、この一撃だけはまともに―――カスっても駄目だ!


「オネガイオネガイオネガイオネガイオネガイ…………し、死し志 しししし 死んデええええええ!」


 相手の死を願うその状態は、異常である。最強の免罪符は俺に通用しないが、そこまで死んでほしいなら言ってみればいいものを、ただお願いするだけじゃ幾ら救世主気取りの人間でも、死にたくはならない。


 死ねば認識さえされなくなるのを、みんな心の何処かで分かっている筈だ。それくらいは信じたい。


 大ぶりの攻撃を躱すと、男性の方のタックルを避けられなくて喰らってしまった。


「ぐおっ!」


 当たり前の事だが、善人だらけの日常に喧嘩の入る余地はない。誰かを殴りたくてもその時は『俺を助けると思って五分間殴られてくれ』とでも言えばいい。俺だけは救いを拒み、救う事も拒んだが故に暴力で以て排除された経験が沢山あるものの、この二つは両立する。


 だから喧嘩は弱いが、多少痛みへの耐性はある方だ。背中が壁にぶち当たって息が詰まるも、これはまだ致命的ではない。お構いなしに伸びてくる白い糸は、闇雲にナイフを振り回して凌いでいる。糸は他人には見えないから俺が何に向かって振っているかなど知る由もない筈だが、男は構う事なくバットを振り下ろしてきた。


  


 処理落ちする視界。絶命する正にその瞬間、世界は遅くなる。



「――――――ッ!」


 足に繋がる糸の揺れ方から軌道を呼んで咄嗟に回避。滑らかな壁に無骨な打撃が叩きつけらる。


「……ま、マキナッ!」


 頼れるキカイは呼んでも反応しない。まさか逃げた……いや、脅威たり得ない存在に逃げる奴はいない。次のバットも躱して三階の奥へ逃げると、今度は壮年の女性が素手で掴みかかってきた。


「早く家に帰らないといけないの……お願い、抵抗しないでえ!」


「うるせッこの!」


 脇腹から力任せに押し退けようとしたが命懸けの人間とはかくも馬鹿力を発揮するものか。渡されていた折り畳みナイフで白い糸を切ると、マキナの見立て通り女性の力が無に帰した。今の内に押し退けると、近くの病室に逃げ込んで扉を抑えた。



 ガンッ!



 間一髪でバットの追撃を防げたが状況は悪化するばかりだ。殺す覚悟があった所で俺には何も出来ない。この刃を心臓に突き立てようとも、その前に傷を治されるのがオチだ。頼らなければ。頼らなければこの危機は脱しない。


「マキナッ! 居るなら返事してくれ!」


「はーい」


 声は背後から聞こえる。いつの間にか付いてきていたようだが、今はそんな事に文句を垂れている場合ではない。


「たす…………………………どうにか…………見てないで…………ああああ、何でもない!」


 自分の命が危機に瀕しても尚、矮小なプライドは健在であった。口が裂けても言えない。言えそうにない。助けてくれなんて、善人を散々馬鹿にしていた俺にそれを言う権利などない。彼女は清々しい強情に呆れ顔を浮かべつつも、真剣な眼差しを俺に向けた。


「普通はこんな事気にしないんだけど、有珠希はどうしたいの? この人達を生かしたい? それとも殺す? 私、有珠希の怒ってる顔なんて見たくないの。だから今だけは言う事を聞いてあげるわ。どうする?」


 俺が望みを口にするまで、飽くまでキカイは静観を決め込むらしい。なんて理不尽な願望機であろう。この状況は彼女にとって何ら絶望的ではなく、いつ如何なる時も打開出来るそんな状態であるにも拘らず、俺が対等を望んだが故に、尊重された。


「うわあああッ!」


 押し寄せる狂人に力で敵う道理もない。引き戸は開けられ、三人の男女がのしかからんとしてくる。包丁が、バットが、鋭利に尖ったその爪が。俺の身体を狙っている。頭が真っ白になった。考える時間など用意されていなかった。助けを呼ぶこととか、人を殺したくない倫理とか殺さないと死ぬ道理とか殺さなくてもいつかは主人に殺されてしまうとか直ぐにでも包丁が首につきささ。




「ころ―――してくれ! じゃな……ころ、してくれえええええ!」




 あらゆる思考を両断した言葉は。




 どんなに間違っていても、たった今、俺の口から出た望みだった。この期に及んで邪魔をしそうになったプライドを彼女に対する気遣いで捻じ伏せて、ありったけの思いを口にする。気まぐれから願いをかなえてくれるようになったキカイは瞬く間に三人の動きを抑えて、『強度』を改定。


 足元の糸を切って一切の抵抗を抑止。三人は抵抗する間もなく頭部を溶かされて死亡した。


「ナイス、有珠希ッ」


 『傷病』の規定は不死身の手駒を作る力。だが悲しいかな、人間は怪我でなくとも生きられる形状になければ自動的に死亡する。カードゲームでも破壊はされないがステータスのマイナス修正で死ぬ奴がいるように、人間は一切の傷病を跳ねのけた所で脆い。


「あ……………ああ」


 腰が抜けているので躱せない。


 容認したので、罵らない。


 直前まで滾っていた殺意は鈍で、いざ人が死ねばこの様だ。これもまた現実。今までと同じように直視しないといけない。



 マキナの殺人を容認したのは俺で、俺は彼女が殺しやすいようにサポートをした。



 俺達は紛れもない共犯者……そんな事はどうでも良くて。犯罪者になってしまった事実を受け止められない。事故とも防衛とも言えないような形で殺してしまった。俺がこの手で殺したようなものだ。


 せめて楽に殺されたらいいと。そんな偽善的な事を考えていた。


「…………ありがとう、有珠希」


「………………へ?」


 声が上擦った。感謝される謂れがない。マキナは丁寧に死体をどかすと、俺の身体に付着した骨肉片を掃除し、身体で挟むように手を繋いだ。


「あんな事しなくても私は大丈夫だったのに、私に責任を全て負わせたくなかったんでしょ?」


 分かってるんだから、とドヤ顔。理外の美貌が緩く笑って、それでいて頬を仄かに染めている。白く滑らかな肌が朱に染まる様は、月が太陽を誑かす為に粧したみたいだ。


「それに、殺せって命令しなかったわよね? 言う事聞いてあげるって言ったのに、貴方は命令するの嫌がった。自分の立場を下に置いて、感謝するのはこっちだって事にした」


「ぇ? あ……………ぁ」


「ニンゲンの事なんてどうでもいいって散々言ったのに、貴方って本当に変なヒト! 無駄な気遣いって言ったらそうなっちゃうんだろうけど、今、すっごく嬉しいわ! 有珠希がそこまで私の事考えてくれてるなんて思わなかったのッ」


 兎のようにぴょんぴょんと跳ねてみせるマキナに悪意はなく、偽善だとか後悔だとかそういうちっぽけな感情がどうでも良くなってしまうくらい、美しかった。呼吸を呑んでしまう程に。自虐さえ忘れかけてしまう程に。


 声が上手く出ないのは、そのせいだ。


「私、心が読めるって言ったばかりよ。だから隠したって無駄。だから分かるの、私みたいな恐ろしいキカイにこんな優しいヒトは、世界の何処探したっていない! 貴方は特別優しいだけのニンゲンよ、ほんのちょっとだけおかしいかもしれないけど、大丈夫ッ。自分を省みる気持ちがあるなら、手遅れにはならないわ!」


 人を殺すのは悪い事。


 しかしここで殺さずともいつかは死ぬ。苦しんで死ぬ。


 ならばこの場で殺すべきか。


 それでも殺すのは悪い事。


 ロジックエラーが繰り返される。今でも自分の行いが正しかったかさえよく分からない。



「うふふ。うふふふふ♪ 守ってもらっちゃった♪ 初めての経験かしらッ? やっぱり貴方と居ると楽しいわねッ」



 マキナはすっかり上機嫌で、俺の周りをくるくる踊っている。部品拾得者が逃げるかもしれない以上、今は一刻を争う。こんな事をしている場合ではないのに、いつまでも彼女の踊りに見惚れている。美しいと思っていた。


「有珠希が♪ 私を♪ 私だけ守ってもらっちゃった♪ うふふふふふ♪ うふふふ~ふふふふ!」


「うお、ちょ、おい。マキナ!」


 手を引っ張られたかと思うと、ダンスに巻き込まれた。そんな経験はなく、俺の方は振り回されているだけだ。遠心力と立ち位置に翻弄されていると、マキナがふわっと身体を浮かして自ら抱きかかえられるように俺の首に腕をかける。


「私、嬉しいわ! 有珠希!」


「お…………おう」


 心臓の痛みは気付けば無くなっているのに。




 こんな近くで顔を見ていると、際限なくその心拍は上がっていくようだ。熱を帯びた身体、輝きを纏う瞳、密着する天上至極の肉体。俺の知らない暖かさ、俺の知らない優しさ、俺の知らない柔らかさ。大きくて。ハリがあって。


 ああ、何でこんな、意識してしまう。いつにも増して、俺という奴は。こんな感情を催している場合じゃないのに。その柔らかそうな唇に触れたいと。心が読めると知っているのに!


「…………?」


 全自動でない事を祈るばかりだ。


 俺は、コイツに『 』をしてしまったような。



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