恋の落とし穴



 家族と結々芽からすれば長い間風呂に浸かっていた事になる。時間の配分も考慮して湯船に浸かった時間は五分ばかり。あまり気持ちの良い入浴ではなかったがマキナと計画について話せたので合理的にはプラス。


「……兄さん? 着替えの服を持ってきましたから、これに着替えて下さい」


 脱衣所に戻ってくると、扉の前で妹が俺に話しかけていた。洗濯機の上で綺麗に折り畳まれているのが着替えだろう。そう言えば持ってくるのを忘れていた。家族がリビングに居る状態で腰にタオルを巻いて部屋に戻るつもりだったのか。我ながら俺も変態チックな真似をする。


「……ああ。すまん。忘れてたよ」


「いえ、これぐらいは別に。兄さんのお役に立てて嬉しいです」


「…………ずっと気になってたんだけど、お前って普段は泣き虫じゃないんだな」


「―――な!? 何をおかしな事を言ってるんですかッ? わ、私。泣き虫なんかじゃありません! 兄さんが心配で、ちょっと感情的になるだけです……!」


 もし擬音が目に見えるなら、牧寧はぷんすかぷんと可愛らしく怒っているに違いない。怯えているように見えるのも実際泣き虫なのも感情的になっているだけか。また随分取り回しの良い説明だけれど、今はそういう事にしておこう。


「……兄さん。わ、私嬉しいです。兄さんと半年ぶりに会話出来たと思ったら、毎日の様に話せて」


「…………負担になってるか?」


「あり得ません。逆に兄さんが負担になってるのではありませんか? 私達の事、嫌いでしょうに」


「―――」


 好きだよ、なんて言えない。言ってしまえば、彼女は間違いなく俺との距離を縮めようとしてくる。兄妹として、それは見過ごせない。マキナとの出会いで俺は妙な立場に置かれる事となった。これからも結々芽のような奴と接触しなければいけないのなら、大切な存在はいっそ居ない方が良い。だって、もし死んでしまったら、辛くなるから。


「なあ」


「……はい?」




「全部終わったら、また一緒に寝ような」




 それが、俺の言える精一杯。妹がどんな表情をしているかは察せなかったが、そう悪いモノではないと思う。


「ふ」


「ふ?」


「ふつつつつつつつか者ですが、よ、よ、よろしくお願いします…………!」


 だって露骨に慌てているし。兄としての特権から言わせてもらうと、彼女が取り乱している時は大抵恥ずかしさが由来している。扉を開けるよりも早く逃げ出した妹の背中が見える事はなかった。リビングの方は相変わらず盛り上がっていて、俺が話し込んでいる内に結々芽と打ち解けた那由香も楽しそうに笑っていた。



 ―――壊したくない、



 家族を見ていると、俺なんか居ない方がいいのではという錯覚を日に数度覚える。牧寧を除いて、俺がいなくても楽しそうだ。きっと俺が死んでしまっても泣かないし、そもそも認識出来ないし、何事もなく平和に、また一日を過ごすのだろうとさえ思っている。そこに結々芽が入れば晴れて仲良し一家の完成だ。


 それでも、俺は俺の為にやらないといけない。この視界を消す為に。


「ユニメ」


「あん?」


 大丈夫。話せば分かってくれる。今の結々芽はしおらしいから、暴力に訴えてくる事は無い筈だ。


「話したい事がある。俺の部屋に来てくれ」


「いいぜ。直ぐ行った方がいい感じ?」


「出来ればでいい…………談笑がしたいなら、もう少ししててもいい」


「あいよ」


 マキナの為を思えばすぐにでも呼びだすべきなのに、ああなんて情けない。那由香の為とかそういう思惑は一切なくて、只々楽しそうな結々芽に水を差すのが嫌だった。階段を上って自室に入ろうとすると、まだ寝間着にも着替えていない妹が枕を持ったままこちらの様子を窺う姿がちらついた。


「…………今日から一緒に寝ようとは言ってないぞ」


「え!? あ、あ。あ。ち、違いますわよ! お、お兄様は何をいってらっしゃいまして!? 私、そのように破廉恥な淫行を致す事この上なしであらせられますわよ!?」


「何言ってんだお前。さっさと風呂入れよ。夜更かしは肌の天敵だぞ」


 だから色々な意味で気が早いのだ。妹は神速の身のこなしで部屋に戻ると、何事も無かったように階段を降りて行った。平静を装っていても耳は正直だ。そこだけが真っ赤なのは何というか、生来の素直さを感じさせてくれる。


 本当に、彼女だけは泣かせたくないものだ。


 心の余裕があるせいで、そんな事も考えてしまう。俺は俺で準備しないといけないのに、何を感傷に浸る暇がある。



 入れ違いで、結々芽が階段を上がって来た。



「もういいのか?」


「まーウズが話ってよっぽどだしね。それで、話って何よ?」


「今から外に出るからついてきてくれ。どうしても、誰にも聞いてほしくないからな」


「ふーん。寝間着で行くなんて変わってんね。まあついてくけど」


 自室の扉を閉めて鍵を掛ける。家族の誰も近くにいない事を確認してから窓を開けて、一階の屋根を伝って外へ出た。靴も履かず、何も持たず、この赤い世界を今一度直視する。ここで説得に失敗すれば結々芽は死ぬ。どうも糸は同じ場所に繋がっている訳ではないようで、マキナと繋がっているらしき糸は彼女の上腕部に伸びていた。


「あんま形は良くないけど、やっぱ月って綺麗だよな。ウズは月が好きか?」


「……あんまり、よく分からんな。太陽よりは好きかもしれない」


 星空も分からないし月も意味不明だ。赤い糸ばかり見えて嫌になる。井の中の蛙も上に蓋がされていれば大海を知らず、己の世界をこそ全ての広さと勘違いするだろう。糸の外はあまりにも不透明で頼りない。


 裸足で歩く、何処までも。


 俺達は続く。いつまでも。


 これが最良の結末になると、信じて。


「……この辺りでいいかな」


 素足で感じる土は、キカイの様に冷たかった。過熱していた精神が冷えていく。体温は血液を通して足裏へ。足裏から地面へ。それは公園全体に広がって―――身体を落ち着かせてくれる。今ならどこまでも冷酷に、冷静になれる。だから失敗は許されない。そんな状況でも、大丈夫。


「ユニメ。俺と同じになる方法、教えてもいいぞ」


「え? どういう……いや、この際なんでもいいや。教えてよウズ!」


「その前にさ。お前、何か拾った記憶はないか?」


 振り返って、対峙する。彼我の本当の距離を自覚しない事には始まらない。


「拾った?」


「形は分からないけど、何か変な物…………自分の身体に入れなかったか?」


「いやあ」




「お前の力の源だよ。それについて言ってるんだ」




 シラを切り通そうとするなら、それはもう最初から交渉の余地がなかったという事だが、明言されてようやく心当たりが生まれたらしい。結々芽はキッと目を細め、それとなく緩んだリボンを握りながら謎に身構えた。


「何で、アンタがそれを知ってるんだ」


「俺は特別だからな。俺と同じになりたかったら、その力を捨ててほしい」


「嫌だ!」


「……もしも捨ててくれるなら、俺はこの距離を縮められる気がするんだ。ユニメ、別にお前が嫌いって訳じゃない。 ただな、俺から見ればお前は他の人と何も変わってないんだよ。まるで人形劇を見てるみたいだ。そういや、昔はこんな映画もあったな。自分を映画の登場人物という事に気付いた主人公が抜け出そうとする、みたいな」


「……何が言いたいんだよ」


「お前はただ、自分は舞台から抜け出したと思い込んでるだけの人形だ。そういう奇抜な演劇の主役に選ばれただけのな。俺はそれを見てる観客で、このままじゃ一生相容れない。だから、お前には捨ててほしいんだ。お前自身の為にも、頼む」


「―――俺を助けると思って、とは言わないのな」


「お前に殺される事になったとしても言いたくない。悪いけど俺は善人じゃないんだ。お前の事は嫌いじゃないし、同じ目線に立ってくれるならそんな嬉しい事はないよ。でも、同じ目線に立ちたいが為に自ら堕ちるつもりはないよ。そこまでしてやる義理はないんだから」


 下手な交渉を笑えばいい。悪いのは交渉術を教えてくれなかったマキナだ。俺にとってはこれが精いっぱい。取り敢えず胸中を明かしつつ目的を伝えれば、説得力が生まれるかもと思っての行動だ。これでも一応作戦なのだ。


 相手が本当に善人なら、この気遣いを受け取ってくれる筈だと信じて。


「………………」


「…………………………ごめんな。これが限界なんだ。強制はしない。断るならそれでもいい。どうせ、俺にお前をどうにかする力なんてないからな」


 どうにか出来るかもしれない方法ならあるが、今は試す時でもなさそうだ。糸の『結び目』を一瞥してから、改めて彼女の顔を見る。






 泣いていた。






「……………………こっちにも。条件がある」


「言ってみろ」


「ウズに、キスしたい」


「口は駄目だぞ。恋人じゃないからな」


「……ケチ。じゃあ頬でいいよ」


 不壊の怪物が距離を詰めてきた。どうしてそんな交換条件を出そうと思ったのかは考えるだけ無駄だ。女心は秋の空とも言うし、今はその気まぐれに全力で甘えるしかない。互いの吐息が掛かる距離で、俺は僅かに顔を背けた。


「―――ねえウズ。アンタって嘘つきだよね」


「…………」


「実を言えば、薄々分かってんだ。アンタは決してアタシの物にはならないし、本当は手も取り合えないって。だからこれはケジメ。アンタに対する最後の……何だろ。心残りの解消みたいなんかな」


「言ってる意味が」


「分からなくていいつったっしょ。アタシの勝手な気持ちだよ。アンタが覚えてないならね」


 俺の知らない事で何か未練を残されるのも、それはそれで嫌だ。記憶に欠陥はない筈だが、どうしてこんなにも友人づきあいの物覚えが悪いのやら。頬に柔らかい口づけの感触。








 ベキッ!








 不意に、キスの階層が下にズレた。


 否、ズレたのは誰の意思によるものでもない。結々芽の足が勝手にぶちまけられたのだ。水をひっくり返したように乱雑な折れ方をした身体に、一瞬世界が静止する。


「…………え?」


「え―――」


 誰も状況を呑み込めない。両足が折れて膝立ちになったかと思うと今度は太腿も潰れ、不本意な正座を強いられていた。




「ひ―――ひゃああがあがはぎゃあああああああああああああああああああああああ!!!!」


 



 不可解な重傷にようやく理解が追いついたのだろう。結々芽はぶわっと涙を流したかと思うと、言葉にもならない声をあげて叫んでいた。


「ああばらららはららららはやうあああああああああああああかああやああいあああああああああ!?」


「ゆ、ユニメ!?」


 沈んでいく。溶けていく。不可視の物体に押しつぶされて同級生の身体が畳まれていく。骨盤が砕け、背骨が砕け、肋骨が砕けていく。思わず手を伸ばして彼女もその手を取ったが、その綺麗な指先も瞬く間に崩れ去って。



 ベチャっという音を最後に、谷峨本結々芽は死亡した。俺の手に残る肌色の川は、彼女の皮膚だった残骸だ。





「……………………………………………言い訳を、聞こうじゃねえか。マキナ」





 こんな不思議な現象は。あのろくでもないキカイの仕業に決まっている。明後日の方向に怒りを孕んだ声を発すると、電柱の上で様子を見ていたマキナが嬉しそうに下りてきた。


「部品が一つ戻ったわ! 貴方には感謝しないといけないわね!」


「…………」


「有珠希? どうかしたの? あ……ごめんなさい。貴方には刺激が強かったわね―――」




「そういう事じゃねえよおおおおおお!」




 死体がどんなに凄惨だったとしても、今はそこが問題ではない。頭に血が上って、いつの間にかマキナの胸ぐらを掴んでいた。彼女は飽くまで冷静に疑問符を浮かべている。その反応は一々癇に障って腹が立った。


「何で邪魔したんだ! 交渉は上手くいきそうだっただろ!? 殺すのが趣味じゃないって話は。命まで奪らないってのは何だったんだよぉ!」


「…………だって、取引相手が殺されそうになってるのを黙認する訳にはいかないでしょ?」


「何言ってんだ! アイツは応じる予定だった! 第一俺がいつどうやって殺されそうになったんだよ! ふざけんな! そんな不誠実な真似がまかり通ってたまるかこのクソ―――!」


 両者の顔の間に手鏡が割って入った。何のつもりかと払い除けた所で、ようやく視界の異常に気が付いた。二度見する形でもう一度手鏡を寄せると、そこには見る影もなく顔の二割が変形した式宮有珠希が写っていた。


「………………………………………っ」


 どういう怪我をしてもここまで突起する事はない。どんな病気でもこうも不自然に尖る事はない。吸い寄せられるように肉が持ち上がっていて、それに引っ張られて顔が変形しているなんてある訳がない。


「………………これ。は」


「痛みを感じなかったって事は取り敢えず間に合ったのね。暫く大変だろうけど、マスクで顔を隠してたらその内治るわ。だから、安心して?」


「な、何が起きて……いや。だって俺は何もされて―――」


 頬に受けたキスが、フラッシュバックする。偶然にもそのタイミングでマキナも頷いた。


「貴方の強度を限界まで下げて吸い込もうとしたのよ、彼女。早い話が貴方を飲み込もうとしたって事。ペットボトルごと飲料を飲むには相応の口の大きさと喉が必要になるけれど、中身を飲むだけなら大きさはそこまでいらないでしょ? それと同じ。あの時の有珠希は接触時の強度が液体以下になってたわ。もう少し遅かったら死んでたかもね」


「いや。違う。違う。だって、アイツは交渉に応じる感じで……いや。だって。だって!」


「そんな筈ないって? なら私がハッキリ言ってあげるわ。あの子は貴方をだまし討ちしようとした。それだけは確かよ」


 あり得ない。


 あり得ない。


 あり得ない!


 


 そんな事実は、認められない!



「お、お前は一体何したんだよ! 急に崩れて……それとも自殺でもしたっていうのかっ?」


「あれは糸が繋がってるお蔭で出来る殺し方の一種よ。早い話が誤作動させたの。キカイは命令には忠実だから、元の持ち主が一言言ってやるだけで直ぐに実行してくれる。貴方にしたみたいに彼女の身体の強度はあの瞬間に液体以下になったから。重力で勝手に潰れちゃったのね」


「………………………そんな」



 あれだけ人間不信だった筈の俺が騙されるなんておかしい。


 アイツには俺を騙す理由なんてこれっぽっちもなくて。


 だから。


 騙すのは。


 お し て


  か く 。



「………………まあ、いいじゃない! 部品は戻ってきて貴方は無事だったんだし…………って。有珠希?」



 これは夢だ。


 悪い夢だ。


 眠れば分かる。


 目覚めればはっきりする。





 何もかも、まやかしだって。





「有珠希ッ? ねえ、ちょっと! 有珠希! 有珠希ってば!」


 最後に見たのは、俺を抱きしめて賢明に名前を呼びかけるキカイの姿。









 ―――それもきっと、夢なのだろう。



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