真なる欺瞞
キカイは水に浸けたら錆びるので、こんな水気の権化みたいな場所に居てはいけないのに、何故か居る。
「…………マキナ」
「うんッ。何?」
ちょいちょいと手招きをすると、餌を見せられた猫よりも警戒心のない動きで近づいて来た。俺はその肩を掴んで離さず、今にも耳の傍で叫びたい衝動を堪えながら力むように言った。
「…………殺すぞ、お前」
「へ?」
心当たりなどない。瞳を満月のように見開いてぱちぱちと瞬きを繰り返す彼女からはそのような言葉が読み取れる。こういうのは特殊能力ではなくて自明の理というのだ。ともかく、楠絵マキナがどうしようもないくらい考えなしのアンポンタンという事はハッキリと分かった。
「人の家に! 勝手に! 上がって! くんな!」
声を殺しながら怒鳴るというのも中々難しい。可能な限り怒ってはみたものの元々柄じゃなかったり、外見の迫力が足りないせいで彼女はちっとも怖がっていなかった。
「……何でお前まで勝手に上がるかなあ。ホント。せめて玄関から……」
それは、まずいか。
同じ流れを結々芽で味わった。食卓でもちらっと話題に出たが、結々芽は俺の恋人という扱いになっている。そこにマキナまで現れた日には二股が発覚してしまい、善人の道徳がどうとかは一切関係ないまま修羅場に突入する。
―――聞いてないよな。
脱衣所の扉に耳を当てると、結々芽と両親が会話をしているらしかった。
『君はいつから有珠希の知り合いなんだ?』
『アタシすか? そうですね、ウズとは小学校からの知り合いで、仲は比較的良かったと思います。ほら、ウズって結構ドライだから比較的ですけどね』
―――アイツ、敬語とか使えたんだ。
意外といえば意外で、当然と言えば当然。あいつの思い上がりはマキナの『部品』のせいだ。元々が善人であったなら今も同じ反応は出来るだろう。心なしか俺が傍に居ないと結々芽は陽気で、活発で、とても人を殺しそうにない。危うさと後ろめたさを微塵も感じさせない声音で家族と話している。
「ちょっと、せっかく来てあげたのに私なんかよりアイツが気になる訳!?」
「いや……危ないだろ。こんな所バレたら」
誰にも不審には思われていないばかりか、音も漏れていないようだ。話題を膨らませている両親に今は感謝か。振り返るとマキナがフグのように頬を膨らませていた。ちょっと可愛いと思った自分がとても悔しい。
「…………えっと。で、何の用だ。っていうかお前、来てあげたって言ったけど呼んだ覚えなんかないぞ」
「私も呼ばれた覚えはないわよッ。ただ……ニンゲンの貴方に交渉を任せるのは……ううん。物理的に殺せない奴に接触するんですもの―――心配くらいしたっていいでしょ」
「…………それ、だけ?」
「何よ何よ。迷惑そうにしちゃって。あーはいはい分かりました。損しちゃったわー。その様子じゃ進展もなさそうだし、私帰る」
「あ、ちょ」
「じゃあね」
「―――待てって!」
大体何処から脱出するつもりだ。浴室に向かって突撃するマキナの手を掴むと、物理的に引き留められるとは思ってなかったらしい身体が体勢を崩し転倒。したかに思えたが一人でに持ち直した。怪我は無さそうだが更なる不興を買ったと思う。それでも今は、引き留めたかった。
「ほ、本当にその為だけに来たのか? わざわざ……お前は顔を覚えられてる。死ぬかもしれないのに?」
「……それは貴方も同じでしょ。それに、私はキカイだもの。パーツが貴方でも死の恐怖は無いわ。恐怖が無いならそれは危険とは言わないわ。だって本人が怖いと感じてないものをどうして危ないと言えるのかしら」
「…………危ないものは危ないだろ。客観的に視ても危険かどうかくらい分かる」
「客観的に見て正しいかどうかは共同体に属する種の理屈よ。キカイは共同体なんかじゃないから、その考えにはあまり賛同出来ないわね。所でそろそろ手を離してくれない? 迷惑がられちゃったし、帰りたいんだけど」
マキナは不機嫌そうに鼻を鳴らして腕をそれとなく振っている。早く離せという命令だ。黙っていては伝わらない。睨んだ所で伝わらない。彼女の様子がどうであれ、気が付けば口から言葉が漏れていた。
「―――ありが、とう」
感謝をしたのは、いつ以来か。心の底から芽生えた感情をつまらない意地で隠して、それでも漏れてしまった本音が、マキナの耳に届いてしまった。彼女はギョッとした顔で数秒固まると、今までの不機嫌が嘘のように満ち足りた笑顔を浮かべた。
「……初めてお礼を言われた気がするわねッ。うんうん、中々いい感じ! 今ので許してあげるわ!」
「ゆ、許すって何だよ! や、やっぱ今のなし。お礼なんて言うだけ損だ!」
それこそ嘘だ。俺はその言葉に狂おしい程の親愛を込めていた。自分でも気が付かない内に、忌避していた道徳を無視して、それを『親切』と見なすよりも早く言ってしまった。
「ざーんねんッ。もう聞いちゃった♪ しっかりと聞こえたんだから、忘れてあげないっ」
「…………そ、そうか。ならもういいや。お前の言う通り本当に進展は無いから、帰ってもいんだけど……そこはすまん。引き留めて」
「そこは気にしないでもいいんだけど、本当に進展は無かったの? 糸はどんな感じ?」
「だから糸は―――――」
トクン。
心臓を抑えつける一閃の動悸。
腹を殴られればそこを抑えるように、俺の視線がマキナの胸元に落ちる。平坦な胸元ばかり直前にあったから、通常ならその形も良く大きさも並外れて抜けた胸元を凝視してしまったかもしれない。今は違う。その少し下(つまり胸とヘソの間)から伸びる赤い糸を、壁を貫通してリビングまで繋がっている因果を視ている。
「………………糸、繋がってる」
「え。ホント?」
「さっきまで繋がってなかったんだけどな……何だろう。切っ掛けが全然分からない」
お礼を言ったから? そんな保護者みたいな力があり得るだろうか。考えてみても良く分からない。仮にも因果と呼ぶならば、偶然などという言葉で片づけられはしない筈だが、今は置いておこう。
「―――ふーん。原理はともかく幸運ね。取り敢えずこれで、取り返す準備は出来たわ」
「マキナ。それなんだが今すぐにっていうのは……」
「説得してみる? 別にいいわよ。お手並み拝見って所かしら」
「…………キカイの癖に融通が利くんだな」
「ひっどーい! ニンゲンの癖に私を侮辱するなんて! 説得の手助けはしてあげないッ」
「それはいらん。えッと…………そうだな。この後、何とかして外に連れ出そうと思うから、お前はこっそりついてきてくれ。家に勝手に入れるんだからそれくらい出来るだろ」
少し喋り過ぎたし、妹の提案を無視せずに乗っかったのは英断だった。家族は俺がゆっくり湯船に浸かっているものと思い込んでいる。湯船どころかまだ水一滴も浴びていないが、流石にこれ以上は不審に思われても仕方がない。
「……えっと。風呂入るから。外出てくれ」
「―――えッ。あ、う。うん…………」
マキナはほんのりと頬を染めて、壁をすり抜けていった。
―――ちゃっかり凄い事するなよな。
今更だ。凄いと言い出せばこの糸を見る力も客観的には凄い力になる。本人は非常に迷惑しているので、もしもこの糸を引き取りたいという人が居れば是非とも申し出てほしい。それで何とか、奪って欲しい。抵抗はしないから。
服を脱いで、浴室へ。蓋のされた湯船を見て、俺はあらぬ光景を幻視した。
「…………やめろ」
アイツは妙に感性が人間臭い所があるのでそんな真似はしてくれない。
あの比類なき曲線美を見たいだけの、妄想だ。
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