特別な証
人間の身体は血液と骨と肉で出来ている。それらは有機的な物体で、マキナよりも現実的な存在だ。バラバラになれば騒ぎになるし、返り血はつくし、何より善行ではない。第一発見者でありながら通報のみ行って(警察からの質問には一切答えなかった)、第三者を装う俺にあまり人の事は言えないが、元々ロクデナシのスタンスを取る俺と至って普通の善人である彼女は違う。
―――臭い。
それはおかしい。俺は一滴の返り血も浴びなければ現場さえ見ていない。何故こんなにも血の臭いがするのだろう。
「おー戻ってきた。あれ? 弁当もう食っちまったのかよー。んだよッ」
「…………なんか変な臭い、しないか?」
「ん?」
この臭いは嫌いだ。今は脳みそを痺れさせ、麻薬のように意識を蕩けさせる力に従いたくない……何を言っている? とにかく、生理的に受け付けたくない。
もしくはこれ以外の全てを受け付けたくない。
「……いや? そんな匂いしねえよ。あ、それとよ、さっき警察が来たらしいぜ?」
「―――へえ。仕事が早いな。それで?」
「なんか死体がどうとかって通報で来たらしいけど帰ったよ。まあ巡回って奴? 犯罪なんか起きる筈ねーけど仕事は仕事だもんなー。ほんと、御苦労なもんだよ」
―――無駄だったか。
やはり糸の繋がった人間には死体が認識出来ないらしい。その一方で『死体』という概念は存在しているようで、警察も一応は仕事を果たしにきた……いや、問題が解決されていないならそれは怠慢だ。仕事をした事にならない。
「お、ウズ。早速部活の届を出しに行ってやったよ」
「…………!」
何事も無かったかのように結々芽が戻ってきた。返り血はなくとも気のせいではない。彼女には肉を潰し骨を砕いた残滓がこびりついている。しかしそれを追求しようにも当然あるべき返り血はなく―――いや。
「ユニメ。ポケットに突っ込んだ右手を出してみろ」
「あ? まあいいよ、ほいな」
やはり返り血などついていない。これだけなら洗った可能性はあるが、それを否定するのはその他一切の部位に何も痕跡が残っていないという事実だ。現実的な状態ではない。服を着替えたならまだしも、彼女は休み時間に話しかけてきた時のまま、制服だ。
―――見なくて正解だったよな。
俺も巻き添えで殺された可能性もそうだが、死体を見てしまえばとても冷静ではいられなくなる。マキナのバラバラ死体を見た時以上に取り乱し、遠回しに目撃者という正体を明かす事にも繋がるだろう。ああ、本当に見なくて正解。直視していないなら死体の映像は何とか脳内でオブラートに包める。
「…………どうしたよ?」
「何だ? 食った弁当がまずすぎたか?」
「はあ!? んな訳ねえじゃん、ばっかじゃないの! …………え、そうなの?」
「……いや、弁当は美味しかったよ。とても。ちょっと考え事があるだけだ」
野次馬というよりも単なる雑音として処理される級友の声。曖昧な返事ばかり返しつつ、俺は自分の世界へと没頭していった。
分からない事だらけだ。
存在している筈なのに誰もそれを問題としない現実的な問題。善意や悪意ではどうにも出来ない様な問題さえどうにかなっている……様に見えている。正しさと善意は表裏一体。その一辺倒で溢れていた世界の真実に突如気付いては凶行に走った結々芽。俺の様に取り乱さずして何事もなく善人の仲間入りをした彼女について、果たしてどんな風に考えれば正解なのか。
マキナの存在が些細な物に思えてしまうくらい、この世界は不明瞭だ。分からない事が分からない。分からない物が分からない。分からないなら無くても良い。無いものは分からなくても良い。それで全ての問題が解決している。
「……正しいのか」
理解出来そうな場所から考え直してみよう。漠然と考えていても答えは出ない。一見関係のない事でももしかしたら途中で繋がるかもしれない。結々芽の発言が正しいか、とか。彼女の発言を鵜呑みにするなら、先生は確かに正しくないし善人とも言い難い。それでは都合の良いレイプ魔だ。しかし仮にも教職がそれを悪い事と認識していないとは考えにくく、その辺りを麻痺させているのはやはり善人に共通する精神か……?
バレなければ何をしても良いという考え方ではないだろう。バレなければ、という事はそれを悪事と自覚しているも同然だ。だから誰にも知られたくない。知られなければ大丈夫という考え方に繋がる。それにそういう考え方は結々芽の質問にあっさりと白状した事からもあり得ないと分かる。
「なあ」
授業中、相対的に最も話しやすい稔彦に声を掛けた。親愛なる善人は直ぐに反応してくれたが、それでノートを閉じるのはやりすぎだ。
「お前が話しかけてくるなんて珍しいじゃねーの。何だよ」
「俺はあんまり夜遊びとかしないタイプだし、お前以外との交流もまあ少ない方だ。だからもし有名な情報なら聞きたいんだが……あ、耳よりとかじゃなくていいぞ。確認みたいなものだから」
「保険すげーなお前。いやほんと、どんだけ嫌なんだよマジで」
前方の席に座る容疑者は机に突っ伏したまま動かない。アイツはいつだってこうだ。そもそも俺の級友は大概授業を真面目に受ける事がない。尋ねられるとすればそれは今しかないだろう。
「……社会の蕪里先生って、放課後に女子生徒食ってるって話。知ってるか?」
稔彦はつまらなそうに眉を顰めて、やれやれと溜息を吐いた。
「んなの有名な話じゃねーかよ。でもそれがなんだよ。先生が生徒に助けられてるってだけだろ? 世の中助け合わなきゃな」
今日は穏便に放課後を迎えられた。
否、語弊がある。穏便というよりは何事もなく、時間通りという意味だ。誰も何も言いださなければそこにはれっきとした社会のルールがある。ほんの少し、安心できた。赤い糸との相乗効果で夕陽が段違いに眩しい。目が痛くなりそうだ。
「んじゃーなー。おさっきー!」
「ああ。あばよ」
光の量とは裏腹にさほど温かく感じないのは常々不思議だと思っている。状態として日が落ちる寸前だからだろうか。温かくも無ければ眩しいだけの太陽に存在価値はないのでさっさと沈んでくれた方が俺も歩きやすい。マキナと約束した時間は十八時。今から家に帰れば大体十七時になって、それからでも余裕で間に合う。
「…………いい加減起きろ。授業どころか全部終わったわ。掃除サボりやがって」
「起きてる~」
「じゃあ帰れ」
「……眠い~」
何も知らない人のフリ。何も目撃していないなら、いつもの俺ならユニメを起こすだろうと信じている。親切心でも何でもない打算によって生まれた行動がどう見られようと俺の知った事ではない。何度か椅子を蹴ると彼女は気怠そうに上体を逸らして、天井に欠伸を見せつけた。
「ふわ~あ。お、ウズ。何さ、もしかしてアタシを待っててくれた感じ?」
「いや、起こしただけだ。学校で寝泊まりしたいなら悪かったな」
「いや~ここ寝心地悪いからいいや~。起こしてくれてあんがとね」
結々芽は寝ぼけ眼を擦りながら俺を見つめている。表情が読めない。主に逆光のせいで。
「ね、今日くらい一緒に帰んない?」
「…………理由」
「幼馴染みたいなもんじゃん~? 部活動の事とかも話したいし、ちょっとくらい付き合えよー。それとも何か、理由があったり?」
「いいや、別に。私を助けると思ってとか言い出したらぶっ飛ばそうかと思っただけだ。そういう理由なら付き合うよ。ただ俺は家に帰るだけだから、後で勝手に別れろよ」
「ふ~ん」
逆光に隠れた結々芽の顔は、確かに口元を吊り上げて笑っていた。
背筋が凍り付いたのは、季節由来の気温からだと信じたい。
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