社会に説法
俺は現場を見ていない。見ていないが、犯人はこいつだという確信がある。どうやって痕跡を消したかは分からないが血の臭いが身体中に染みついているこいつに警戒心は緩められない。幾ら昔からの腐れ縁でもそれだけは駄目だ。
「こうやって帰るの、久しぶりじゃんね」
「……そうだな」
頭がクラクラする。視界にアカが染みついた。脳みそを搔き乱す甘美な匂いに酔いしれる。自分でも良く分からないが、俺はこの生臭さが好きになってきたかもしれない。何故と言われても本人に分からないのでは誰も答えられまい。尤も、この兆候が何となく危ないのは常識的に考えれば理解出来る。だって死体は見るのも悍ましいと避けている様な感性の人間が血を好み始めたらそれは紛れもない異常だ。
だから何となく、距離を取る。本当の距離はもっと遠い。
「ウズ。ずっと聞きたい事があったんだけどいい?」
「不愉快にならない質問なら受け取る」
「昔からアンタって親切にされるのが嫌いだったよね。それって何で?」
「…………何で?」
マキナに対してちゃんとした説明をしているせいで頭がこんがらがっていたが、彼女を除いて俺の視界について真実を語った人は居ない。恐らく関係者の中では一番距離が近い妹ですら知らないのだ、糸の繋がった幼馴染程度が真実を知っている訳がない。
「なんでも何も、親切にされるのが嫌いだからだよ」
俺の気持ちを知ってか知らずか、結々芽がそれ以上距離を詰めてくる事はない。飽くまでのんびりとした足取りで、俺の歩きについてきている。大袈裟な身体の振りに合わせて緩んだリボンが揺れている。それはまるで彼女の機嫌を示しているようで、だとするなら現状は敵意を持たれていない。
「だから、その理由を聞いてるんだけど。教えてくれないの?」
「俺の周りには知りたがりしか居ないんだな……まあいいか。じゃあ本当の事を少しだけ言うよ。お前等のやってる事が正しく善い事だとこれっぽっちも思わないからだ」
冬の夕暮れはどうにも肌寒くて、息をするだけでも気管が凍えてしまいそう。決して今の発言は迂闊だったかもと、肝を冷やしている訳ではない。行き交う人々の隙間で結々芽が足を止めた。
「それは何故? 幼稚園の頃から教えられてきただろ? 他人には親切にしなさいって。悪い事はするな。ウズはそれの何処に反発してるのさ」
「お前達の親切は押しつけがましい。大体がして俺はあの免罪符を許してないからな。物は言い様だ、あんなやり方は屁理屈にも劣るこじつけだ。そういうの何ていうか知ってるか? 文字通りの意味で偽善だよ。逆に俺の方こそ聞いても良いか? 子供の頃に教えられたからって、何でそれだけを頑なに守ってるのか」
「……それだけって。アタシは他にも色々守ってるしッ」
「そうかいそうかい。じゃあ聞こうか。横断歩道を渡る時は手を挙げてって教わった筈だがそれは守らないのか? お前がやってる所も見た事ないし、周りの奴等は……まあ、一目瞭然だな」
横断歩道で手を挙げる行為が正しいかどうかはともかく、飽くまで幼少の教えを守る頑固さが原因だと云うならこれも守らなければ正しくないだろう。
「…………それは。皆善い人だから、事故なんて起きないっしょ」
「それは色々と違うな。事故を起こしたらそいつが悪い奴なのか? 俺は法律に詳しくないが、それでも事故が起きた際の過失割合がどうとかって話は知ってるぞ。道徳だけじゃ社会は回らない。それでも道徳だけが社会を回してる。いや、そもそもこれは道徳なのか? 正しさはカタチにしちゃいけないもんなのに」
それは昔出会った人の受け売りだが、赤い糸を交えない説明をするならこれ以上適当なものはない。カタチになった正しさは嫌いだ。それ以外を正しくないと断じる不公平さが大嫌いだ。
「……要するにさ、アンタは周りが正しくないって思ってるんだよね?』
結々芽がこちらに歩み寄ってくる。また血の臭いを認識する様になってしまったが、ここで退くのは悪手だ。相手の手札を考えてもみろ。彼女には殺すという選択肢がある。幼馴染という立場で得をしているだけ。この距離は既に、進むも戻るも許されない。
指に彼女の手が絡む。ほんの少し捻るだけで、俺は片手が使えなくなる。
「アタシ、ようやくアンタの世界に辿り着いたよ」
「……何言ってんだ?」
「ようやく気付いたんだ。アタシもこの世界は間違ってるって。ね、そうだよな? 間違ってるんだよな?」
「…………少なくとも俺は、そう思ってるが」
「……ハハハ♪ ねえ、じゃあアタシ達は仲間って言えるんじゃない?」
押される。人目の突かない場所へ。じっとこちらの瞳を捉えたまま。脇目も振らずに真っ直ぐ進む。
「ど、何処に行くんだよッ」
「アタシはね、アンタの事がずっと理解出来なかった。だから今、とっても嬉しいんだ。部活を作ろうって思ったのもその為だけれど、構いやしないよね? アンタとアタシは世界でたった二人だけの理解者なんだから」
「それは…………」
「だからねえ。証明しようよ。アタシ達が正しいんだって。こんなバカげたルールで生きる必要なんかないんだって。だから、ねえ。ねえ。ねえ。ねえ」
こいつは多分、俺の話なんて聞いてない。俺の言葉なんて理解しようとも思っていない。俺の言い分をちゃんと聞いているならそんな言葉は出ないし、こんな強引にはなれない筈だ。
面従腹背が趣味じゃない?
笑わせる。そんなものは強がりだ。決して殺しはしないという善人の甘さに付け込んだだけの油断。本当に趣味じゃないと言うならあの時と同じように歯向かえばいい。そのせいで死んだとしても本望だろう…………ほら。
出来ない癖に、何を格好つけたんだ俺は。
「家に帰るのなんてやめようぜ。アタシの家で過ごせばいいよ。アンタも苦しいでしょ。妙な奴ばっかりで。アタシの傍に居た方が安心するだろ?」
「…………い、イモウとが、ま、ッテルから」
「妹? 妹なんか居たんだ。で、それはアンタと同じなの? 違うよね。そう顔に書いてある。建前なんか気にしなくていいんだ、自由にやろうよ。アンタはロクデナシ呼ばわりを受け入れてたじゃんか。それっぽく振舞わなきゃ」
「い、イや」
「嫌? 何が嫌なんだ? アタシはアンタの嫌な事なんてこれからするつもりはないよ。あ、まさかアタシの事女性として意識してるとか? アンタに限ってそんな事は無さそうだけど、それならいっそ恋人にでもなろうか?」
敵意は無いが、善意はあって。結局こいつは何も変わっていない。自分で変わったと思い込んでいるだけの善人だ。しかしながらその剣呑な善意に抗う術を俺は持たない。気が付けば見知らぬ工場に連れ込まれていた。人が居ない訳ではないが、誰も俺達を気にしない。
「…………野外でするの、アンタは好き?」
「や、やった事あルか! お、お前は……え、あるノカ?」
「さ、どうだろうね。直接確かめてみればいいじゃん?」
ああ、制服を開けさせようとするその指を。スカートを跨ごうとするその足を止められれば。俺の勇気は証明されるのに。何処までも自分という人間の矮小さに呆れてしまう。腰が抜けて動けない。ならば助けを呼ぶ。それも出来ない。
この身体は親切を拒むあまりどうやって助けを求めればいいかが分からなくなってしまった。
「助けて」と一言叫ぶだけ?
それは何だ。どういう意味だ? どのように? 誰が? どんな目的があって?
「ウズ。難しい顔してんね。何も考えなくていいのに。今はただ正直に、馬鹿になろうよ」
「た、た。たす…………た。ス」
「ん?」
「……………」
「ちょっと。何してんのよッ?」
どう足掻こうが変えられない結末を前に、キカイの女が現れた。俺達を気にかけていなかった作業員さえそれを前に釘付けになり、結々芽も例外なく、視線を奪われた。
「……アンタ、誰?」
彼女の一言が自分に向けられていると思ったらしい。その敵意はこちらからもありありと伝わってくる。しかしマキナは眼中にないとばかりに横を通り過ぎると、俺の前で屈みこんだ。
「有珠希。貴方は約束を守る気とかある? 私生活に口を挟む気はないけど、家に帰らなきゃまた面倒が起きるわよ」
「ま、まき……マキナッ」
舌がもつれて、上手く発音出来ない。否、それ以前に心臓のリズムが狂っていて、あらゆる身体機能が麻痺している。
「ちょっと、アタシを無視すんなよ。それともウズの知り合いなの? 知り合いならどっかいって。今アタシ達重要な所なんだから」
「―――ねえ、有珠希。助けてほしかったりする?」
頭を振る。それはもう、どうしようもない誤作動だ。マキナは困り眉のまま微笑んで、「仕方ないなあ」と立ち上がった。
「貴方がどう思うかなんて知らないけど、私との約束を破ろうなんていい度胸してるわね。絶対に守らせてあげる。キカイはそういうのに忠実なんだからッ!」
「おい! ウズに触んな!」
マキナは俺をひょいと抱え上げると、その場で転進。結々芽の頭頂部を蹴り上げて外へ。行き交う車の頭上を踏んで向こう側の道に着地したかと思うと、ノンストップでガードレールを走って再度の跳躍。
「ど、何処へい。行くッ?」
「約束を守らせるんだから約束の場所に決まってるでしょ? それ以上喋ると舌を噛むわよ」
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