窮屈で退屈



 式宮那由香との折り合いが悪いのは、多分赤い糸が見えなくてもそうなっていたと思う。根拠は一つもない。何となくそう思っただけ。もしも立場が逆だったなら虐められていただろうとも確信している。これも根拠は無い。


 兄と妹という関係でここまでぴったりな物はないだろう。余計な気も遣わない、泣きもしない(泣かせてるのは大体俺)、喋らない。家族のような他人が今の所一番良い距離感だ。逆に牧寧の方は距離が近すぎる。迷惑とは言わないが…………いや、迷惑だ。ハッキリ言おう。俺が迷惑を掛けている。理由は明白で、泣き出されると心が痛いからだ。


 


 ―――もう中学生なんだから、泣き虫くらい直して欲しい所なんだけどな。



 善人がどうとかこの際関係ない。泣き虫はきっと苦労する。家の話を盗み聞く限りじゃ俺の事以外では一切泣かないばかりか、とても落ち着いているそうだが―――にわかには信じがたい。仮にそうだとするなら余程俺は妹を情けなくしている。


「…………」


 窮屈だ。ここ数日に会話をしているとはいえそれ以前の空白期間は消えない。窮屈だ、退屈だ。家族との時間をここまで苦痛に思った事はない。車の揺れに身体を任せながら俺は間抜けなキカイと出会う前の自分を想起する。


 


 ―――昔は、こんな事。思わなかったと思うんだよな。



 それは例えば単純作業において心を切り離すようなものだ。ノートに写しながら別のことを考える、食事しながら別のことを考える、仕事しながら別のことを考える。向き不向きがあって出来ない人間も居る。俺にはそれが出来たから、目を背けるついでに心を殺していたと思う。だから稔彦の戯言にもうまい反応が出来ず、あんな雑な返しをしてしまった。だから真っ当に成績を気にしていた。率先して不良行為に走る今と比べても大違いだ。


 このような責め苦に比べれば部品探しなんて散歩みたいなものだ。頼むから早く終わって欲しい。外食でも何でも、どうせ俺が楽しいと思える時間は来ない。




「聞いてよ父さん。今日学校でね、私だけ百点取ったんだよ」


「おお! 凄いな~!」


「私の血を引いてるだけはあるのね」


「えーうっそだー。お母さん学生の頃は赤点ばっかりって聞いたよ」


「……ちょっと? お父さん?」


「知らんなー? んぉー知らん。全く知らん」



 ああ、家族はすぐ傍で喋っているのに。聞こえる声はどうしてこんなに遠いのか。壁越しに聞くよりもくぐもっている。隣の家の喧騒よりも、昼休みの放送よりも、あまりに不明瞭で不正確で、ぼんやりと鼓膜を撫でる環境音。


 心臓の音がうるさい。それ以上鳴るな。妹に気付かれる。今の俺が人間じゃないと思われる。



「あ、あのお店いいんだよね。でも駐車場いっぱいかー」


「行きたいのか?」


「んや、目についただけだし―。どっちでもいいよ。お姉ちゃんは行きたい?」


「…………ふぇ!? あ、あ。そ、そうですね……私は、お父さんの方針に従いますよ」



 妹は何度かこちらを見て話題を振りたそうにしていたが、それはやめておいた方がいいと視線だけで断っておく。どうやら彼女はどうにか家族の輪に俺を入れたいらしいがそれはもうとっくに、具体的には十年くらい前から手遅れだ。


 ならせめてこの雰囲気を壊さないように努めよう。キカイ的に、置物のように。目を瞑って、糸は見ないように。


「着いたぞー。ほら、降りろ」


 見ない。見ない。見ない。絶対に付き合わせない。俺の狂気は俺だけの物だ。大丈夫。糸は上から伸びているから、下から見れば大丈夫。誰の顔も見えない。見てはいけない。人間の視野角は広すぎて糸を認識してしまう。


「おー。ゴールデンタイムなのに結構空いてるな」


「ラッキー。お姉ちゃん、隣に座ってもいいよね」


「はい。構いませんよ」


 ここは善人のたまり場。働いてもない客がオーダーを取りに来たり、注文と違う料理が出てきても全員が笑って許す。客に水を零そうが、席が足りないのでと立ち飲食させようが禁煙席で喫煙しようがそのレストランがそもそも閉店していようが問題は無い。注文は通るし客もいるしサービスも提供される。




 …………………………。




 え?


 それ、おかしくないか?


「…………」


 今まで当然のように受け入れていた事実に困惑する。狂気の夢から覚めた事は嘆かわしいが、それよりも現状だ。この状態はまともじゃない。まずこのお店が空いているのは既に閉店しているからだ。理由は言うまでもなく度重なる無銭飲食が原因だろう。お金の話はやらしい話と嫌悪する人間が居るのは知っているが、それはそれとしてお金が絡まないと人間社会は成立しない。それでも客は来るし従業員は居るし店のオーナーも何も言わない。


 


 ……成立、してる筈がない。



「全員注文決まったか?」


「決まった。俺の方は勝手に注文するから親父は気にするな」


「………………」


 お金を払っているのは、俺だけ? 


 金は流動するからこそ価値があるのではなかったか。俺だけしかお金を払っていないならこの貨幣に何の信用がある? 税金を払う為だけの物体か? まともに税金を納めてる奴なんか居るのか?


「んー美味しい! お姉ちゃんこれ美味しいよ!」


「ふふ、そうですね。…………兄さんはどうですか?」


「美味しいよ」


 俺達が今まで許容してきた社会は、どんな奇蹟があって今も存続しているのだろう。




「……………………兄さん。全然楽しそうじゃない」




「……ん?」


 妹の声は一体誰に向けられたのだろう。誰も気にしていないし、聞こえたのがそもそも俺だけなのか、それ以前に幻聴だったのかもしれない。俺だけに聞こえて家族に聞こえないなんて……いや、単に黙っているから聞こえた可能性はあるか。


 どうせこちらの考え事に答えを出してくれるものではない。速やかに無視を選択する。


 貴重な家族団らんの時間は、悪夢のように過ぎ去っていった。


 


 





















 外食の帰り道、上機嫌になった家族に様々な話題を振られたが気のない返答に話題を膨らませる力はなく、五分もすればいつも通り俺を省いて盛り上がる。家に帰って真っ先に妹達はお風呂に向かってしまった。両親はリビングでのんびりと寛ぎはじめ、俺は自分の部屋に引き籠る。


 時刻は二一時。まだ明日にもなっていないとは。アイツにはあんな事を言われたが、流石に門限が早すぎる。今度外食をする事になっても絶対に従ってやるか。楽しくないし、窮屈だし、成立しない筈の物がさも成り立っているように見えている事が恐ろしくてそれどころじゃない。妹にお風呂を譲ったのは間違いだった。どうせ俺に残された選択肢は寝るくらいしか無い。湯船に入るのが嫌だと言うならシャワーだけで済ませても良いからとにかく眠りたい。明日にしたい。


 コンコン。


「に、兄さん? お風呂が終わりましたので、次、どうぞ?」


 返事を待たず牧寧は自分の部屋へと戻っていった。彼女は俺が何かしない限り規則正しい生活をするので、このまま何もしなければ三〇分もしない内に眠るだろう。俺だってそうしたい。わざわざ伝言してきたのだから両親を抑えて俺に順番を譲ってくれたのだと思われる。


 一拍置いてから部屋を出る。声に出すのは他の家族にも聞かれそうで何となく癪にさわったので、妹の扉の下から手紙を滑り込ませて、それから心置きなく風呂に向かった。家族以外は誰も知らないであろうどうでもいい情報として、この家は安っぽいので防音機能が存在しない。湯船は丁度妹の部屋の下にあるので、ここで静かにしていると生活音が聞こえる事もある。


 天井からは、妹の鼻唄が聞こえていた。




 ―――ごめんな。




 こんな方法でしかお礼を伝えられないひねくれ根性で。


 

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