キカイな女性



「待てって、おい!」


 全くおかしな話だ。自分の手首が知らず知らずのうちに切り落とされていたなんて。楠絵マキナは俺の忘れ物と言うが、手首はそんな簡単に忘れられる部位でもない。余計な善人に気が付かれても面倒なので、俺は断面だけになった左腕をポケットに突っ込んで走っている。


 走り辛い。


「なんで……おい、こら! 早すぎるだろ! 返せ!」


 マキナは軽快なステップを踏んで俺から逃げている。こっちは血液と共に漏出する意識を何とか昂らせて追っているのに、追跡が始まって十五分。不機嫌から俺の傍を離れた女性は、いつからか楽しそうに、煽るように時折こちらを振り返って笑っていた。


「お、お、お。君、一体どうしたんだ? 何か困りごとがあるなら―――」



「うっせえすっこんでろ! アンタに助けてもらうような事は何一つとしてねえよ!」



 脊髄反射で噛みつくと、足を引っかけられた。片腕をどうやっても使えない都合で受け身も滅茶苦茶だ。反対側の肩で全体重を受け止めたものの、肩はその重さに耐えかねて悲鳴を上げた。


「どうした? 転んだのか? 助けようか?」


「…………消えろ、ゴミが―――ッ!?」


 五キロはありそうな鞄で、頭頂部を殴られた。こんな奴に付き合っていても時間の無駄だ。中年の男も助けを求めない俺に興味を無くしたか、また本来の行動に沿って去っていった。脳震盪一歩手前の視界を前方に戻すと、楠絵マキナという女性が神妙な顔でこちらを見つめている。


「…………手首を。返せよ!」


 ああクソだ。気が付かなければよかった。手首の出血は微々たるものだが、出血は出血。もう後何分かも走れば、多量出血による脱力で走る事も出来なくなる。或はショック死の許されない衰弱でこの短い生涯を終えるか。



 ―――ん?



 まだいつまでも逃げられそうな雰囲気だが、楠絵マキナが路地裏に入ってくれた。見た目に表れなかっただけで限界という事かもしれない。ビジネスバッグで殴られた挙句に転んだせいだ。足が動かない。俺の記憶が正しければあそこの路地裏は大通りへと繋がっているが、その大通りが工事中なせいで行き止まりになっている筈……!


 生まれたての鹿よりも頼りなく立ち上がり、壁に手を突いて壁を這うように歩いていく。手を隠す余裕はない。



 路地裏に、楠絵マキナの姿はなかった。



「………………は、はあ?」


 何の自慢にもならないが、糸が繋がっているなら俺から隠れるという行為は不可能だ。糸を辿ればそこに居るのは操り人形。本体じゃなくても糸を辿ればそれだけで分かるのに、あの女性には糸がない。俺と同じように。



「なんかおかしいと思ったけど。貴方ニンゲンなのね」



「―――へ?」


 声は、背後から聞こえる。恐る恐る振り返ると、そこには神妙な面持ちを保ったまま楠絵マキナが佇んでいた。いつの間に背後を取られていたのかなんてどうでもいい。出血のせいで意識が朦朧としている。驚くなんてそんな、余裕のある行動はとてもじゃないが取れそうにない。


「――――――て、手首を。返せ」


「はい」


 返してくれた。俺の手は握り拳を作りかけ―――例えるならつり革を掴むような状態で固まっている。


「返したわよ?」


「…………………………」





 ――――――馬鹿な男が、居た。





 俺は人間だ。人間が手首を返してもらった所で直ぐに接合出来るものか。図画工作とは訳が違う、のりを使えばくっつくだろうなんて楽観的だ。大抵は病院に行って―――いや、そんな余力はない。歩いている内に出血多量で死ぬ。ポケットからしみ出したのか、左足が俺の血でずぶ濡れだ。雨が降り続けているのもまずい。身体が冷えて、凍えて、そのまま体温を失って凍死してしまいそうだ。


「ねえ―――助けてほしい?」


 頭を振る。そんなのはごめんだ。


「どうして?」


 助けられるのは嫌いだからだ。助けようとする奴が嫌いだから。


「自分が死ぬかもしれないのに、まだそんな事言うの?」


 ずぶ濡れの壁に身を寄せる。お前のせいだろうと睨んでみる。寒い。寒い。寒い。視界が凍り付いてしまいそうだ。身体の感覚は大分麻痺している。それは手首を切り落とされた時からかもしれないが、何であれ俺も、己の死期を感じていた。


「…………なんか、悪い事しちゃったな。私、貴方がキカイだと思ったから頼ったんだけど。違うなら…………うん。これは私の責任か」


 手首の傷を塞いでいた結びが解かれる。緩やかな介錯は嫌いじゃない。この暖かい寒さに全てを委ねる事が出来るなら死んだっていい。



 ―――丁度いい、よな。



 善人じゃない奴に、存在価値は無い。


 誰も救おうとしない奴は、まともじゃない。




 ならせめて、消えさせてくれ。





 俺の知る、人間らしく。































 冷める。


 褪める。


 醒める。


 目が覚めた時、見覚えのある天井が視界を覆った。


「…………………………家?」


 記憶が混濁している。そんな事はない。全てを思い出せる。俺は謎の女に手首を取られて、それを取り返したと思ったら限界が来て…………そのまま、死んだ。


 死んだのか?


 両手で自分の身体を触ってみる。体温に変化はない。いつも通りの三十六度と少し。身体の何処にも擦り傷は無いし脳震盪も……それよりも、気付くべき事があった。両手が戻っている。俺の左手首は健全に、切り落とされた経験を忘れたようにくっついていた。その表現さえ適切か分からない。現代医療とは接合痕もなくリハビリもなく十全に動かせる程に進歩していただろうか。



 ―――誰が運んだんだ?



 普通に考えればあの女性だが、俺の家を知っていたら単純に恐い。しかし助けを求めてもないのに助けられたのは不自然だ。俺が出会う人間は全て、助けを求められないと見向きもしないような善人で溢れているというのに。



 コンコン。



「兄さん、起きてますか?」


 当然のように無視をする。たとえ血の繋がった妹であろうとも、善人は嫌いだ。


「いいんです。分かってます。貴方は私も、その下の妹も、両親も嫌いなんだって。助けようとか。そんなつもりはありません。でも聞かせてください。どうして玄関の前で倒れていたんですか?」


「………………俺は。一人だったのか?」


「…………兄さん!」


 妹の声に反応したのは、記憶が正しければ半年ぶりだ。扉越しにも声音が上がって、弾むような笑顔を見せる彼女の顔がありありと浮かぶ。そんな一時も束の間、妹はハッとしたように調子を直し、答えてくれた。


「え、ええ。兄さんは一人。でしたよ? ど、どなたかご友人と一緒にいらっしゃったんですか?」


「………………そうか。じゃあ部屋に入れたのは、お前か」


「い、いえ。兄さん、自分でお風呂に入って、それで着替えて直ぐに部屋に……」


 両手を見る。足を見る。胴体にも無い。頭上に手をやって、ようやくそれに気が付いた。



 俺の身体は『糸』に繋がっている。




「―――ーああああああああああああああああああばああああ!!」




「!? に、兄さん! 一体何が……」


「來るな来るな来るな来るな来るな! 入ってくるな入ってくるなそこから立ち去れ直ぐに寝ろ俺の事なんか気にするなあああああああああ!」


 ベッド横にある引き出しを漁ると、ハサミが見つかった。鏡を見ながら慎重に赤い糸に刃を通す。しかし切れない。刃を通す。切れない。刃を通す。切れない。刃が錆びているのか。使えないハサミを壁に投げつける。


 刃物、刃物、刃物、刃物。


 中学の頃に学校で配られた彫刻刀セット。


 切れない切れない切れない切れない。切れない切れない切れない切れない切れない。セットもろとも投げつけた。


 ホームセンターで買った万能包丁。


 切れない切れない切れない切れない。何処とも知れぬ場所に投げつけた。



「きゃッ! な、何……?」



 糸は嫌だ。操り人形は御免だ。確かに俺は異常だが、その異常を看過してきた今がある他の皆と同じなるからってこれはあんまりだ俺はそれを認めない自分の異常を愛している善人になりたくない救世主になりたくない。


 そうだ。糸が切れないなら根本に原因がある筈だ。壁に手を突いて、頭を叩きつけた。この、頭蓋が。壊れれば。きっと。きっと糸が離れる!



 何度も。



 何度も何度も。



 何度も何度も何度も何度も何度も何度も。





「俺から離れろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

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