運命の赤い糸
俺の目には、赤い糸が映る。多分それはきっと、運命の赤い糸と呼ばれるロマンチックな代物に相当する。稔彦がわざわざ俺にとてつもなくどうでもいい相談を持ち掛けてきたのは、彼が俺の力に対してそれとなく理解を示しているからだ。
と言ってもこんな光景、理解してもらえる訳がないから占いが出来る程度で済ませている。彼がわざわざ他人の恋愛事情を持ち出そうとしたのは大方俺に占ってもらいたかったのだろう。成功するかどうか、というのを。
運命の赤い糸は小指同士で繋がっている訳じゃない。
人体のあらゆる箇所に繋がっている。誰が誰のという区別は難しい。糸の殆どが空から伸びてきては操り人形のようにカタカタと揺れて人体を動かしている。口を動かしたり瞬きをするだけでも身体に繋がった糸は揺れる。運命の赤い糸と呼ばれるような箇所については、人体から人体に繋がる糸の事だろう。
今までの経験から言って、互いの糸が繋がっていればその告白は成功する。糸がないなら失敗する。俺は失敗するだろうという事を最初から知っていた。近づいたのは多分嗤ってやる為だ。
「俺を助けると思って、付き合ってください!」
まだやっている。
断られた事を認識出来ていないばかりか、目の前で女性が死んだ事すら分かっていないようだ。彼の告白する様子を他の人間が見ていないとは思わないが、どうやら俺以外はこの状況に対しておかしなものという理解が出来ていないらしい。
見ていられなくなって、窓から校庭へ飛び込む。虚空に向かって思いの丈を綴る友達の肩を思い切り突き飛ばした。
「おい!」
「うわッ!」
焦点が俺に合う。気が狂った訳ではなさそうで、稔彦は訳もなく突き飛ばした俺を睨みつけていた。
「邪魔すんなよ!」
「邪魔って……良く見ろよ。お前が呼んだ人をさ」
「え?」
間違っても俺の気のせいという可能性はない。今も女性はバラバラだ。あまりにも綺麗に分解されているものだから、切断面にはめ込めばまた動き出すのではないかという錯覚さえ覚える。ああ、俺がイマイチ驚けないのはあまりにも非現実的な死を遂げたからだ。或はそれが死体と思えないからだ。
それくらい美しく、死んでいる。一切の出血もなしに、損壊もなく。
「…………あれ? 俺の気のせい?」
「―――は?」
死体と稔彦とを交互に三度見した。錯覚ではない。錯覚であってはならない。しかし彼は性質の悪い嘘を吐く人間でもない。
―――何だこれ、何が起きてるんだ。
本能が警鐘を鳴らしている。
これ以上、これに踏み込んではいけない。これ以上、目を向けてはいけない。これ以上、気づいてはいけない。呼びだした筈の女性が居なくなって困惑する友人をよそに、俺は身体を震わせてその場に蹲った。
「お、おい。大丈夫か?」
「…………大丈夫だ。だい、じょうぶ、だ」
「―――呼び出したんだけどなあー。つっても不親切な奴ってお前くらいだし。何で来ないんだろ」
おかしい。道理が合わない。だって道理が通じない。他人には親切にしないといけないのに断るのも良く分からなくて、いや俺だって断るけどそれは俺だけの特権であった筈で何せ俺はロクデナシでそれを全員が承知で俺以外の全ては疑いようのない善人であって。
「……はあ。まーしょーがねーか。おい、気分が悪いなら保健室行くか? あ、でも授業終わったんだっけ。でもお前を助けると思えば全然―――」
手を差し伸べる友人が、気持ち悪い。
俺を助けると思って。それは禁じ手だ。この世界の人間は誰しもが誰かの救世主になりたがる。告白に成功と失敗があるのは今までそれを使わなかった誠実な奴ばかりだったからだ。掟破りの言葉を使ってまで付き合おうとした辺り、本当に惚れこんでいたのだろうとは思う。
「助けるんじゃねえ! 俺は助けなんか要らない!」
引っ張ろうとしてくれた友人の手を払い、頭を抱える。
「俺の事を助けようとするなって昔からずっと言ってきただろ!? 親切なんか要らない……要らないから、お前は早くどっかに行けよ。告白……失敗したんだから」
「……ほんと、ロクデナシなのなお前。死ねばいいのに」
悪辣な言い訳でも聞くかのような侮蔑を吐き捨てて、稔彦は校庭から去っていった。心の底から出したかのような口ぶりは、しかし、それでも赤い糸が動かしていた。それはいい。そんなの分かっていた。この世界の全ての人間は何かの操り人形で、あらゆる行動が予定調和に終わる。そんなのはずっと前から決まっていた事じゃないか。
だから問題は、この女なのだ。
俺の日常を壊した。クソみたいな世界なりに、ここは平和だったというのに。俺が混乱しているのはこの女のせいだ。この女のせいでなければならない。この女が悪い。耳鳴りのように響く頭痛が意識を鋭敏化させ、この現実を過剰に受け止める。
女は眠るように―――いや、糸の切れた操り人形のように死んでいた。そもそもがおかしい話だった。稔彦が禁じ手を使ったなら失敗の二文字はあり得ないのに、それは失敗した。何故失敗するだろうと分かった? 糸が繋がっていないからだ。
そもそもこの女には、糸が一本も繋がっていないのに。
「………………お前。何なんだよ」
糸に繋がっていない人間なんて、気持ち悪い。それは正常ではない。眼球の奥が焼けていく。タールを流し込まれたようだ。この現実は知らない。受け止めたくない。理解したくない。それでもこの目は熱さで見開いて、女の死に顔をじっと見つめている。
女と視線が繋がった。
「……ちょっと、何見てるの?」
「う、うわああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
まだ学校は終わっていないが、理性の天井を突き破られては冷静に行動しようもない。俺は何もかもを置き去りにしたまま、学校の裏門から外へと飛び出した。
この世界は、闇の組織によって全て操られている。
陰謀なんてなくても関係ない。運命の赤い糸に、人類は支配されている。外に出て通行人を見れば、俺の認識がどれだけ正しいかを理解させられる。
「は、はは。ははは…………!」
ファストフード店に入る女子高生も、買い物帰りの主婦も、外回りのサラリーマンも、それが予定通りの行動であると言わんばかりに糸を揺らして動いている。
「見ろ、俺が正しいじゃないか……!」
独り言は、虚空に浮かぶ。
「おかしいのはあの女だ!」
俺はおかしくなんかない。ただ舞台の裏側が少し見えているだけ。
「俺は正常なんだ…………!」
糸で操られているのが、当たり前なんだ。
そう考えないと、おかしくなってしまう。糸で操られていない人間がおかしいという傲慢は、正気では耐えられない。親切をしなかった俺とあの女だけが正常という予感は、認めてしまえば十年あまりの日常を否定する事になる。
「……………………」
例外が、俺だけなら良かったのに。糸の繋がっていない存在が俺だけなら、目を背けていられたのに。俺がおかしいという結論で、納得出来たのに。
「…………」
『狂気の夢』から覚めた俺を慰めるかのような雨が降り出した。確か、そういう予報だったっけ。荷物は全て学校に置いてきたままなので傘など持ち合わせていない。今更、自分が歩道の上で寝転がっているという事に気が付いた。周囲は奇異の視線を向けるばかりだ。
それはちょっとした心の慰めになる。俺を異常として捉えてくれるなら、それは優しさ。この世界には善人ばかりだから、その行動も当然と言える。何の気休めにもならないが取り敢えず立ち上がって、誰の邪魔にもならなそうな噴水の縁に腰を下ろした。
「…………助け…………」
それは言えない。求める事もしない。誰かを助ける為なら何をしても良いと思う善人が噎せ返るほど嫌いだ。簡単に救いを求めてしまうような善人が嫌いだ。善人なら全てが許される世界が嫌いだ。
そんな奴等ばっかりだから、俺には助けなんて必要ない。
「こんな所に居た。私、すっごく探したんですけど」
聞き覚えしかないその声には、何故か親愛の情の様なものが感じられた。顔を上げると、そこに立っていたのは稔彦が呼びだした女性―――楠絵マキナが立っていた。先程見かけた時と大差ない恰好で、俺の前に立っている。
相変わらず、糸は繋がっていない。
「……………………な、何で」
この豪雨の中でも一際輝きを増した絢爛な金髪と、灰の混じった銀色の目。コートの上からでもハッキリと分かる胸のふくらみは緩やかで、その曲線美に思わず目を奪われる。そう言いたい所だが、それどころではない。異常な俺にとって同じ異常を抱えた女は、それだけで許しがたい異物だった。
「…………な、何で生きてんだよお前!」
「え? キカイだから」
女―――マキナはそう言って耳にかかる髪を整える。キカイ? 機械? 何を言っているのかよく分からないが、とにかくこの人物は危険だ。離れた方が良い。
「や、やめろ。来るな! 俺をたす……いや、来るな! 来るなバケモノ!」
堰を切った様に狼狽し、後ろも振り返らずに後退する。マキナはムッと分かりやすく口を尖らせると、俺が逃げる倍以上の速度で距離を詰めてきた。
「そういう言い方って、どうなの? 私は貴方の忘れ物を届けに来ただけなのに」
「…………へ、え? 忘れ…………」
そんな義理もなければ面識もない。そもそもマキナは鞄なんぞ持っていない。じろじろと全体をねめ回して警戒を強めると、彼女も露骨に不機嫌そうな顔をした。
「ふーん。そんな顔するんだ。じゃあもういい! 貴方の手首、返してあげないから!」
てくッ―――。
慌てて両腕を見ると、俺の左手首が切断されていた。僅かな痛みもなければ予兆も無かったが、代わりに女と違って俺は出血し、その出血を結んだワイシャツで何とか抑えている状況だった事だ。
「あ、お。ちょ―――か、返せよ!」
「知らなーい!」
ぷいっとそっぽを向いたと思えば、マキナという女性は遥か遠くの路地を曲がる所だった。
「ま、待って! 待ってくれ!」
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