第40話

「何処へ行っていたの?昨夜から探していたのよ」

由紀子は語気を強めて言った。これまで、朝美に対してこんなに感情をもろに出したことはなかった。由紀子は怒ってはいけない。心を落ち着かせ冷静に話さなければいけない。彼女は自分の感情と対話していた。このままでは自分は泣いてしまうと思った。

朝美の声は聞こえて来なかった。

「もう、いいわよ。朝美、よく聞くのよ。お父さんが交通事故に合ったのよ」

「交通事故?」

「そう、交通事故よ。運良く命は助かったけど、もう歩けなくなるかもしれないのよ」

医者はそんなことは言っていない。由紀子は素直に今の自分の不安な気持ちをぶっつけた。そのまま朝美に伝わって欲しかった。

「聞いてるの?」

返事がないので、由紀子は苛立った。

「聞いてる」

「歩けなくなるってことが、どういうことか分かる?あなたに仕送りが出来なくなるのよ」

朝美は受話器をぎゅっと握り締めた。何を言ったらいいのか、すぐには思い浮かばなかった。

「あの人、みんなあなたのために働いていたのよ。あなたが東京に行くの、本当は反対していたのよ。だけど、行ったからには必ず卒業させてやるって言っていたわ。いずれは苦労するに違いないが、苦労なんて急いでする必要もないだろうって。あなたも分かっていると思うけど、必要以上のお金を送っていた。お父さんを見ていて、最近疲れているのがよく分かった。無理していないって言ったけど、お父さん何も言わなかった。自分でも無理をしているのが分かっていたのかもしれない。なぜ・・・だか、分かる?お父さん、あなたを一番可愛がっていたからよ。お母さん、そのことよく知っていた。ねえ、あなた、朝美も分かっているはずよ」

由紀子は言葉を切った。はぁはぁと息づかいが激しい。何に苛立ち何を興奮しているんだ。受話器を持つ手が汗で濡れている。

(あの子、分かったのかしら?何回、分かったと言ったの。馬鹿みたい)

朝美は言い返して来ない。これまでも私ばかりしゃべって、あの子はちょっとしか話さない。でも、今日は違う何かを感じているはずである。だって、あの子の父親が事故に合い、ひょっとして歩けなくなるかもしれないのよ。

「お父さん、まだ眠っている。二度目に目を開けた時には完全に意識を取り戻していた。とにかく命は助かったよう。一度帰っておいでよ。帰って来て、お父さんを喜ばしてよ。お願いだから」

「分かった。帰るかどうか、良く考えて見るよ」

「何も考えることなんてないじゃないの」

「私にもいろいろ都合があるから。私、これから友達に会うの。切るわよ」

「待って。帰るのよ。お父さんが待っているから」

電話は切れていた。最後はいつもと同じだった。

由紀子は泣いていた。健次の時のような嬉しい涙ではない。でも、悲しくはない。理解出来ない涙だった。

由紀子はこう感じた。朝美はあんな子なんだ。小さいころから少しも変わっていない。今、たまたま東京と三重県という距離に離れているから変わったように感じるが、親の心を顧みない子ではない。自分の心の中を見られるのが恥ずかしいのだ。どんな境遇に立たされても負けない頑張り屋さんなのだ。修そっくり。そっくりなんだ。彼女は自分でこう納得させた。

由紀子は自分の考えたことを信じた。この時、新しい涙はまた由紀子の頬を一筋流れた。


榊原京子はまだ居酒屋のアルバイトから帰って来ていなかった。今年は平日の夕方の三時間もバイトの時間に充てていた。大学生最後の冬休みも休み期間中働く気でいた。まだ就職は決まっていなかったが、その気は内容だった。

「いいの。まず来年の正月にはハワイに行く」

という計画を立てていた。朝美も誘われた。

「朝美も、どう・・・?」

と誘われたが、

「考えてみる」

と、はっきりと行くとは返事していない。

京子はやっと家業のミカン園の仕事をする決心が付いたようだった。

毎月郵便局の通帳に振り込まれてくる金を全部使っているわけではなかった。生活を切り詰める気もなかったが、贅沢をする気もなかった。毎月、いくらか残った。この三年と九か月で十万以上の金額になっている。

朝美は窓を開け、顔を出した。あの匂いを感じたかった。鼻に神経を集中した。

(何処なの?どっちの方向なの?)

空気を胸いっぱい吸った。

しかし、あの匂いは感じ取れなかった。

(お父さん・・・)

朝美は心の中で叫んだ。帰ろう。約束だから。瞬間の快感だった。

だが、それはすぐに乱れ破壊された。朝美の心を乱したのは、佐野一幸の存在だった。

その存在が、朝美を修の所へすぐに帰さなかった。

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