第39話
一度修が目を開けた時があったが、その時由紀子が何度呼びかけても一言も答えてはくれなかった。苦しそうな目ではなく、夢を見ているような目を開けていて、修は心地よさそうに表情をしていた。その後二時間くらいは気を失っているような状態だった。そして、今、修は再び目を開けた。
修は焦点の定まった目で、由紀子を見ていた。
「お父さん」
由紀子は声を掛けたが、やはり返事はない。だけど、そり目はしつかりと由紀子を見ていた。
由紀子は医者から、生命が助かったのは運が良かったと思いますと言われても、不安でならなかった。今自分の目を見てくれた時、この人は生きているという実感を味わった。生命力が感じられた。
由紀子の名を呼ばなかったが、
「あぁ!」
という溜息を吐き、ここしばらく見たことがなかった修の安らぎの表情に、由紀子はほっとした。そして、彼女は照れ臭そうに微笑んだ。
(この人は、こんな時でも私の名を呼ばなかった。名前を呼ばれて記憶二度ばかりしかないかな?)
「ちょっと電話をして来ます」
と言うと、由紀子は病室を出た。病室を出る時、振り返り修を見たがその表情に変化はなく病室の白い天井を見ていた。
(もう・・・いい。大丈夫だ)
みどりの電話前に来ると、由紀子を待合室の時計を見た。午前六時五十分だった。こんな時間に掛けていいんだろうか。迷惑ではないのか。彼女は受話器を取るのを躊躇した。だけど、彼女は受話器を取った。そうせずにはいられなかったのである。
昭平の父、毅一が出た。
春美は義母涼子と昭平に付き添われ病院に行ったという。今度こそ本当に生まれると思うということだった。半月遅れている。いくらなんでももうそろそろだろうと、由紀子は健次を生んだ時のことを思い浮かべ、思った。
「何か?」
と言うので、由紀子はこんな時に言っていいものかどうか迷ったが、事情だけは説明をした。
どうやら春美が二度目の強い陣痛を起こした時、こっちに電話をしたようだった。
「それで家の方に電話をしても、誰も出なかったんですね。でも、命が助かって良かった」
と、毅一はいった。
この後由紀子は病院に電話をし、涼子を呼び出した。
「命が助かったのだから、春美に知らせるのは今すぐでなくていいと思います。子供が生まれ、春美が落ち着いてから知らせて下さい。主人のことがありますから行けませんが、宜しくお願いします」
由紀子はこう言った。自分が以外に落ち着いているのに驚いた。修の命が助かったからなのだろう。
「分かりました。良かったですね。春美さん、さっき分娩室に入りました。生まれたら、お知らせします」
受話器を置くと、由紀子はほっとした。春美は何事もなく元気な子供を産んでくれるような気がした。そうあって欲しいと思った。あの人の命が助かったんだから、きっと・・・と彼女は体が踊り出しそうな喜びを感じていた。
由紀子は自分の体に微かな痛みを感じた。遠い昔味わった痛みだった。
「良かった」
と、由紀子はもう一度呟いた。
由紀子は病室に戻った。修は意識を完全に取り戻していた。
修は由紀子を確認すると、
「ウサギは?」
と言った。由紀子は、
「分かっています。ちゃんと餌をやっておきますよ」
と修に耳元でささやいた。
「あんなにたくさんいたのが、もうになりましたね」
由紀子は微笑んだ。修が自分の笑顔に応えるとは思わなかったが、彼女はそれを期待した。
「四羽・・・」
修はこういうと黙ってしまった。
健次は電話をして、一時間くらいして病院に来た。千佳子も一緒だった。
病室で、
「親父は・・・」
と言ったきり黙り、後は修を見つめていた。修はまた眠りについていた。
千佳子は少し離れた所に立っていた。手を前で組み、顔を下に向けていた。時々何かを言いたそうに顔を上げた。
由紀子は千佳子の傍に行った。
「来てくれたのね」
「はい」
千佳子は小さな声で答えた。
「有難う」
「大丈夫?」
千佳子はお腹を両手で押さえた。
「はい」
と、千賀子は頷いた。
由紀子は心からそう言った。健次が同じに来いと言ったのか、千佳子が自分から行くと言ったのか、分からない。気になるが、由紀子から聞いて真相を明らかにするようなことではない。驚くことは、同じに行くことを健次か許したことである。半ば堂々と同じに来たのは、俺たちは結婚するぞという意思表示なのだろうか?
由紀子は今余りあれこれ考えたくなかった。
健次は病室の窓の外を見ていた。まだ夜の闇の暗さは残っていたが、その闇は消えはじめ、空は明るくなりはじめていた。朝の太陽はまだ病院の窓からは見えなかった。冬の陽光は、眼に眩しい。しかし、ほっとするような安堵与える輝きは、東の空から輝きはじめていた。
修はまだ眠っていた。痛々しい白い包帯さえ無ければ、家でいる寝顔とそれほど違わない。
(ように・・・)
由紀子には見えた。四十七歳。この人にあてはまるとは思わないが、働き盛りである。たまたま事故に合い、動けないでいる。命は助かったが、この人は本当に歩けるようになるのだろうか?今見る包帯に巻かれた姿は余りに痛々しかった。由紀子にはその包帯が取れた姿を見るまでは不安であり、心細くなってしまう。
こんな気持ちからなのかもしれないが、健次の何とたくましく見えることか。由紀子の見る健次はまだ子供である。今その子供の中に、それを感じた。
「命が助かって良かったですね」
千佳子が声を掛けてきた。
「本当に」
由紀子は千佳子を見つめ、笑みを浮かべた。千佳子と目が合った。すぐに千佳子の方から逸らした。
その日の夕方、由紀子は朝美を寮で捕えた。
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