第41話

残りの一年は淡々と過ぎて行った。

そして、新しい年が明け、東京での生活が残り一か月を切った。

卒業式の前日、八並朝美は圭子と会うことになった。彼女の気持ちとしてはもっと早くけりをつける気でいた。父修が事故に合ったと聞いて以来、怪我をした父の痛々しい姿がいつも彼女の脳にこびりついて離れなかった。圭子を呼び出し一幸の家族を崩壊させた所で、このモヤモヤしたすっきりしない気持ちを吹っ切るのに、何の解決にもならなかったのだが。

(分からない・・・これで、いいの?これで、良かったの?)

と朝美は首を振る。

朝美は必ず圭子から呼び出しが来る、という自信があった。

「必ず・・・来る」

その日が卒業式の先か後か分からなかったのだが、それまでは栃川町本里に帰る気はなかった。その決心にも迷いがあった。

「分かりました。今からですね」

「お待ちしています」

圭子の方から電話を掛けて来て、圭子の方から、

「ガチャ!」

と、厳しい音を立て、切った。わざわざ新宿まで出ているようだ。

時計を見た。午前十時を過ぎていた。圭子の姿を認めた時、朝美は隠しきれない嬉しさを感じた。

「来た・・・ついに!」

と、朝美は声を出して笑った。

圭子は会う場所を、あの《ガスト》を指定してきた。四年前のあの日、一幸の家族四人が昼食を取った《ガスト》である。彼らと少し離れたテーブルに朝美と京子が座っていた。

朝美から圭子の姿が良く見えた。圭子からも見えたかもしれない。しかし、朝美には目を合わした記憶はない。しかし、わざわざあのレストランを指定して来たということは、朝美の存在に気付いていたのかもしれない。

その日は朝から雨が降っていた。一幸と初めて関係を持ったのは雨の日だった。圭子の傘に入って、一幸の前に現れたのも、雨が降っていた。

《ガスト》に入ると、すぐに由紀子を見つけた。

(おそらく・・・あのテーブルに座っているだろう)

と、朝美は予測を立てていた。やはり、圭子は一人で、あの日のテーブルに座っていた。

朝美は圭子を見つけると笑みを作った。しかし、圭子は冷たい目で朝美を迎えた。

「今日は」

という朝美に、圭子は軽く会釈をした。怒り、憎しみという感情を、朝美は圭子の醸し出している雰囲気から感じ取った。朝美が土浦の家に遊びに行った時の優しさは全くなかった。

朝美は口を歪め、笑った。自分ではそう感じた。

「わざわざ来て頂いて、どうも。理由はもう分かっていると思いますけど・・・」

圭子はテーブルのくしゃくしゃになったおしぼりをつかみ、手を拭いた。

「失礼します」

と、朝美はいって、圭子と向かい合って座った。

《ガスト》の中はそれほど混んでいなかった。昼食にはまだ少し時間がある。圭子は朝美から目を逸らさなかった。

「やっと分かりましたよ、あなたの正体が・・・」

圭子は朝美を睨み、微笑んだ。

朝美は何も答えなかった。

「あなたが雨の日私の前に現れた時の声と、家に何度も電話を掛けて来た人、あなたのことですが、その声の抑揚が同じなんですね。でも、あなたの故郷の独特の訛りが、あなたの正体、同一人物だと教えてくれました。どうして、持つと早く気が付かなかったのか、私には自分の愚かさを残念に思います」

「私の故郷・・・?」

「えぇ、あなたの故郷・・・三重県!私は言語学の教授ではありませんから、あなたが何処の生まれか知りません。でも、会っている時のあなたの話しぶり、言葉の強弱、抑揚は電話を掛けて来た女の人とよく似ている・・・いいえまったく同じなのに気づいたんです」

圭子は朝美を凝視し、自分より一回り以上若い女の心を読み取ろうとしていた。だが、若い女の表情に大きな変化はなかった。ただ、故郷といった時、若い女の目に灰色・・・違うは、そうね、真っ黒の雲の塊りが走ったのを圭子は見逃さなかった。

「あなたが何をしたいのか良く分かりませんが、あなたが家に来るの、どうも変だとは感じていたんですよ。あんなにたびたび来るって、可笑しいですよね。そうそうここでしたね」

圭子は話題を変えた。こういうと、圭子はレストランの中を、背を伸ばし見回した。そして、続けてしゃべり続けた。

「何処かで見たことがある人だなって思っていました。あなたともう一人は、あなたの友達?は、どうでもいいことなんですけどね。あなた達は、そこ。私たちは、ここ・・・でしたね」 

圭子は朝美に同意を求めた。

朝美は頷いた。朝美も一度も圭子から目を逸らさなかった。目を逸らす理由は何もなかった。

「ふっ」

朝美は笑いをこらえた。

圭子は二三秒黙り、薄く笑みを作った。

「いよいよ本題に入りましょうか」

バックから一通の封筒とDVDを取り出し、テーブルの上に置いた。一週間前に、朝美が圭子に送り付けたものだった。彼女はその封筒に手を添え、朝美の方に滑らした。

「もっと早くあなたに会おうかと思ったんですけどね。ずっと考えていたんです。どうするのかってね。手紙だけなら信じなかったかも知りませんが、あなたは・・・すごく残酷なことをした・・・」

圭子は自分の苛立ちを弱めるような適当な言葉が見つからないもどかしさがあった。彼女は目の前の若い女を睨み付けるしかなかった。

圭子は封筒から一枚の写真を取り出した。それをテーブルの上に置いた。

「こんな写真、必要だったんですか?それに、そのDVD、見る必要がありませんから、お返しします。あなた、何が望みですか?」

朝美は写真を見た。

三回目か四回目に会った時、朝美が自動シャッターを使って撮った写真だった。初め、一幸は反対したが、朝美が面白いからといって撮った写真だった。カメラが気になって気分が乗らなかった一幸だったが、いつの間にか写真を撮られていることなどをわすれ、朝美の体を求め始めた。

「お返しします」

圭子の目は湖一面に張った氷のように靄っていた。その靄の奥は怒りで興奮しているに違いない。もし東京の新宿のような人の多い場所で会っていなかったなら、殺されていたかもしれない、と朝美は思った。圭子がここを選んだのは、私は最初からあなたのことを知っていましたという意思表示だった。朝美は圭子の気持ちをそう読んでいた。

「ふ、ふっ」

朝美は人を見下すような不敵な笑いした。

圭子は驚いた目付きをした。さらに、朝美の動きにもっと驚かされることになる。

朝美はその写真をつかみ、二つに破った。

「どういうつもり?」

圭子は立ち上がろうとした。が、かろうじて座ったままの姿勢を保った。

「どういうつもりもありません。こういうつもりです」

朝美は二つになった写真を圭子の前に投げ、立ち上がった。

「まだ話は終わっていません」

圭子も立ち上がった。こんな小娘にこの場を仕切られているのに、圭子は我慢ならなかった。

「何なの、あなたは?」

朝美は圭子を無視した。

「終わりました。もう終わったんです。そのDVD、一幸さんへのプレゼントです」

朝美は軽く頭を下げ、急いでレストランから出た。

圭子は若い女の後を追うことが出来なかった。体中の力が抜け、その場に立っていられなくなり、よろけるように椅子に座り込んだ。

「終わった?何が終わったの?まだ終わってなんかいるものですか・・・」

 怒りのような憎しみのようなもやもやとした感情が、圭子にはまだあった。少し前はあの女に対してであると圭子は自分の心に言い聞かせた。ところが、今はそうではないかも知れないと感じている。

「誰に!」

何のために朝美を呼び出したのか、圭子には分からなかった。会って、

「どうしようと考えていたんだろう?」

昨夜、冷静に考えたつもりだった。感情的に処理をしてはいけない。そう自分に言い聞かせた。

なのに・・・

「なぜ、もっと怒りをあの子にぶつけなかったのか?何を恐れた?」

今、圭子の耳には何も聞こえなかった。それまでは店内に流れている音楽も、少し前までは二つ先のテーブルで話をしている若い男女の声も聞こえていたのに。

圭子は朝美を許す気はなかった。

これ以上追い掛けて行く気もなかつた。

彼女は自分の心の傷口を広げる気もなかった。

「傷口・・・私の傷口・・・誰が傷をつけたの?あの人しかいない。若い女に見下された憎しみを、夫一幸に移した

(もうあの子には会わない)

圭子は朝美を呼び出す気はない。たとえもう一度呼び出しても、彼女はおいそれとやって来ないような気がした。

(あの子は、私の考えていることが分かるんだ)

私の気のせい?と思ったりもした。でも、私の心は見透かされているという気持ちは消えなかった。今もそう。結局、みんな彼女の思うように踊らされた感じだった。

圭子は夫一幸のことを改めて考えた。その後、洋一、良子の姿が浮かんできた。みんな、あの子の思い通りに操られた。圭子は両手でつかんでいたものを口にした。アイスコーヒーだった。苦みが口に充満し、氷が解け冷え切ったアイスコーヒーが頭の中に突き刺さって来た。

「あの子たちに父親は必要だろうか?私という母は必要だろうか?」

圭子は否定も肯定もしなかった。次に、

「私に一幸という夫は必要だろうか?」

と問うた。

圭子は頭を右に左に強く振った。さっき頭の中に冷えたアイスコーヒーが一気に冷めた。

今、いやこの先、私はあの人を必要としない。朝美という女の子にはもう会うことはない。しかし、一幸とは嫌が上でも一度どころか何度も顔を会わさなければならない。

圭子は、体の中にまたあの感情が湧いて来るのが分かった。

私の怒りは、もともと一幸にぶつけるものだったんだろう。あの人とはこれまで何度も感情の衝突があった。顔を合わすのが嫌で何回が実家に帰った。洋一は覚えていないだろうが、良子の心には微かに残っているかもしれない。

結局、自分の方から戻った。考えれば、左右を分厚いレンガの壁で囲まれた道を歩いて来たような気がした。その壁をいつでも自分の意志でぶち破り、別の道を歩いていくことが出来るのに、何もしない。私もあの人もそう。この先、私がこれまでのようにしていれば、私の家族に変化はないだろう。それが私の望み・・・あの人はそれを望むだろうか。

「もう、終わり」

あの子は、終わりましたと言った。あの子の言う通りだ。ちょうどいい時かもしれない。

一度か二度、

「分かれましょ」

と言ったことがあった。

「子供たちはどうする?」

一幸は真顔でこう言った。圭子は一幸を睨んだ。睨むしかない。この人は何を言っているの。問題なのは私たちのことなのよ。と彼女は言いたかった。圭子は顔を背け、黙ってしまった。愛というものがなくなっても、男と女は、同じに生活は出来る。他の人にはどう見えたか分からないが、とっくに一幸との間に愛というやっかいなものは無くなっていた。

「あの子は私の家族を幸せに見えたのか?」

しかし、そのようなものはとっくになかったのだ。あの子は、それを改めて私に認めさせた。あの子が私たちの家族をばらばらにしたのではなく、元々そうだったのである。

あの子は、なぜ私たちの家族の前に現れたんだろう?何が目的だったのか?天使・・・どんよりとした黒い色の服を着た天使!

圭子はこう考えた自分を笑った。

圭子は《ガスト》を出だ。レジで金を払っている時、続けて二組の家族が続けて入って行った。最初に入って行った家族の中に良子と歳が同じくらいの少女がいた。圭子は気にも留めなかった。

外に出ると、雨は小降りになっていた。傘が必要ないくらいの降りだったが、肌寒かった。

(何で、こんな日にわざわざ新宿まで出て来たのか?)

圭子はぼそぼそと嫌いな人参を吐き出すように言った。

「えぇい!」

と、彼女は大きな声を出し、傘を差さずに歩き出した。

あの人は、この前と同じことを言うかもしれない。そうしたら、私は・・・何も言わないの?いや、ひょっとしていうかもしれない。もう終わったんですと。

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