第24話

この頃、朝美は京子と会う機会が少なくなっていた。大学の講義も余り出席していないようだった。彼女が何をしているのか、朝美は少しも気にはならなかったのだが。一幸と会う約束をした日、彼女は寮に帰ってくる京子と顔を合わした。

「久し振り。どうしていたの?」

朝美の方から声を掛けた。京子は明るい気質の女の子だったが、時よりどことなく暗い雰囲気の漂う感じを、朝美は気にしていた。ところが、その日の京子は朝美が感じている暗さが消えていた。

「本当に久し振り。元気」

京子は朝美の全身を頭の先から足の元まで見て、

「元気だよ。何処へ行っていたというほどのものではないけど、彼と一緒にいたの、ずっと」

と嬉しそうに、にこっ、と笑った。

「彼?」

朝美は首をひねった。

京子に彼氏がいるのは聞いて知っていた。そして、その彼氏とは別れたことも知っていた。

そんな朝美の疑問に答え、

「新しい彼?」

と自慢げにいった。こんな陽気な京子を、彼女は初めて見た。

「そうなの」

と彼女は頷いた。

朝美は、今の京子を少しも羨ましいと思わない。京子の男がいくつなのか知らない。

今の朝美には一幸がいた。一幸は四十三歳である。父の修より五歳若い。朝美の気持ちは、若い、老けているは関係ない。彼女の思惑が今の朝美を動かしているだけだった。

朝美はその一幸と関係を持った。彼女は、今、一幸に会おうしている自分を考えた。

(私・・・あの人、好きなの?)

朝美の脳裏を、一幸に抱かれている自分の心持ちがよぎった。彼女の体が激しく震え、立っていることが出来なくなった。彼女はうずくまり嗚咽を上げた。だが、声が出なかった。それが余計に彼女に苦しさを感じさせた。

どれ位いかして彼女は立ち上がった。誰も彼女に声を掛ける人も近寄ってくる人もいなかった。朝美はそのことに少しの不満も寂しさも感じなかった。

朝美は歩き出した。心地よい風が、朝美の体を覆った。彼女は大きく胸を広げ、深呼吸を三回した。風が、朝美の体の中を吹き抜けた。気持ちよかった。体が浮き上がるような快感があった。

だが、次の瞬間、朝美は胸を押さえた。

息苦しさが起こった。

「何?」

それはほんの一瞬だった。

朝美は考えた。

(以前・・・)

ずっと遠い昔、味わった痛みのある息苦しさのような気がした。何かが彼女を押し潰そうとしていた。それに、これほどではないが、少し前、こんな気持ちになったような記憶が彼女にはあった。

(少し前・・・いや、もっと・・・昔!)

朝美はもう一度立ち止まり、空を見上げた。

そこには確かに空があった。東京の空である。明らかに彼女の住む本里の空とは違っていた。決定的な違いは、人と空の間には遮蔽物があるかないか、だった。

朝美は口をゆがめた。胸を抱き締めた。

(こんな感じ・・・何時だったんだろう?)

朝美はもう一度大きく深呼吸をした。そして、目をつぶった。

何かが見えた。

(何だろう?)

こう思った時、見えた何かは消えた。けっして心地よい何かでなく、二度と見たくない黒い・・・が、その中に、真っ白い・・・大きな何かかが?

 白でもなく、黒でもない、そうかといって灰色ではない大きな塊りのようなものだった。それでも、朝美はもう一度見たくなった。だから、もう一度大きく深呼吸をした。今度はなぜか気持ちよかった。だから、彼女の望むものは見ることが出来なかった。

空はすつかり暗くなり、何かが光輝いていた。あれは何だろう。

(星・・・星だわ)

ここは・・・ここにもあったんだ。朝美は自分の周りを見回した。

みんな、前を向いて歩いていた。


八並朝美は振り返り、机の上の時計を見た。午前七時八分だった。空はすっかり暗くなっていた。

さっき京子の部屋をのぞいた時には、彼女はいなかった。また今日も新しい彼氏と会っているのかもしれない。この寮にも門限はあった。京子に言わせると、ここにいる人、またいた人は、一度は、いいや何度も門限を破っている。その中には自分の人生を狂わした人もいたと聞いている。男にか、それとも女にか・・・また強引に退学していった人もいたに違いない。私には関係ない・・・強引に自分を納得させてしまう。

京子が今日寮に帰ってくるのかどうか、朝美は知らない。そんなことは誰も聞かない。

朝美も一幸と会っている時は遅くなることがあった。それどころか帰らない時も何回かあった。東京の生活はあっちの本里とは比べ物にならないくらい変化があり、面白いところでもあった。刺激的でたえず体が興奮状態にあった。時には、彼女は自分では自覚のない行動を起こすことも彼女にはあった。

以前、

佐野一幸との関係があって二十日くらいした十月の雨の日、朝美は二十八歳の男と数時間過ごしたことがあった。その男は貞雄といった。自分から名乗ってきた。朝美は自分の名前を言わなかった。貞雄はしつっこく聞いてきたが、

「私の名前を聞いてどうするの?」

と聞き返した。

「だって、今度会った時、なんて呼んだらいいのか分からないからさ」

男は朝美の体を見つめながら、真面目な顔で聞いてきた。

「だめよ。今日だけ」

彼女はこう言うと、貞雄を睨み返した。

朝美はホテルで貞雄に抱かれた。電車の中で話しかけられた男に、なぜ抱かれた?朝美はその問いに答えることが出来なかった。抱かれながら朝美は何度も一幸に抱かれた時のことを思い浮かべた。どっちも愛情はなかった。違ったのは、なぜか分からなかったが、一幸の背後にはいつも灰色の服に身をおおった誰かがいた。

(誰なの?)

問うても、返事はない。

朝美は苛いて、上に乗っている男をはねのけた。

「何をするんだ」

と、男は怒鳴った。

朝美は男を睨み付けると、急いで服を着てホテルから飛び出した。強い吐き気が襲って来たが、胃から食べたものを吐き出さずにすんだ。夜の新宿を歩きながら、彼女は深い不潔感に襲われた。何度も何度も両手で服の上から体をこすった。こんな女だったのか、と何度も自問した。何の答えも得られるはずがない。朝美はその日ひたすら歩き続けた。

突然、朝美は立ち止まり、声を出して笑いだした。その笑い声は自分の耳にもはっきりと聞こえた。

「こんな女なのかもしれない。こんな女もいていい」

朝美はゆっくりと駅に向かって歩き出した。

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