第25話

「君は、会う度に代わって行くね」

「そう。変わって行く?どんなふうに」

新宿駅の東口が見えてきた。

「そうだね。だんだん女として魅力的になって行くような気がするよ」

朝美は一幸の腕を強くつかんだ。

「ほんと!だったら、わたし、喜こばなくっちゃね」

朝美は声を出して笑った。こんな自分を魅力的になって行くといった男をわらったのか。それとも今の自分を笑ったのか、朝美には分からなかった。

「送らせて、お願い」

ホテルを出た時にはもう雨が降っていた。強い降りではなかったが、止む気配はなかった。朝美は傘を持つ一幸の手を握った。

一幸は、だめだとはいわなかった。

「ごめんなさい」

朝美は小さな声でいった。

「駅までだ」

一幸は空を見上げたあと、時計に目をやった。まだ四時を過ぎたばかりである。土浦に着くころには暗くなっているだろう。その時間なら多分人目につくようなことはない。一幸は自分に言い聞かせた。


「ここへ入ろう」

土浦駅につくと、案の定すっかり暗くなっていた。駅は人でごっちゃ返していた。これだけの人がいれば、知っているひとに会っても目立つことはないだろう。ひと安心するが、一幸の心配性は厳しい表情を崩さなかった。

一幸は立ち止まったままの朝美の手を引っ張り、カフェに入った。

「どうしたの?」

「ここまでだ。ここまででいい」

朝美の目が冷たく光っている。その目は一幸を捉え、心の動きを読み取ろうとしていた。朝美はスプーンでミルクティのティカップをゆっくりと回していた。

「ごめんなさい。変なこといって」

朝美の目に感情的な動きはない。

「何が?あっ、いいんだ」

一幸は煙草を灰皿に強くもみ消した。

「家まで送りたいといったこと。それに、電話をしたこと」

「ああ・・・うまくごまかしておいたけど。もう家には電話をしないように」

一幸は微笑んだが、唇は震えていた。

「あれは、君のことを知らないんだ。誰にも知られたくないんだ」

「そうね。奥さん、私のこと、知らないのね。遊びなのね。それでもいいんだけどね」

朝美の目は一幸の心の動きを追っていた。

「分かっている。あなたは遊びが出来るひとじゃないことを」

一幸は自分の気持ちを見透かされている気分だった。一幸は頷いた。

「自分かってなことを言うようだけど、君を離したくないんだ」

朝美はミルクティを飲み干した。

「勘違いしないでくれ。君を弄んでいるつもりはない」

朝美はカップをガラスのテーブルに置いた。カチッという音が響いた。

「じゃ、私と同じに暮らして。一週間の内、一日だけでもいいの!」

一幸の男としては細い唇が大きく震えた。

「き、きみはまだ学生じゃないか。その返事は君が卒業するまで待ってくれ」

「いっぱいいるわよ。私の友達でも」

一時間ばかりカフェにいた。時間が経つにつれて、黙っている時間の方が多くなった。

「今日は、ここまでにしょ」

一幸の方が逃げ道のない沈黙に耐えられなかった。彼は立ち上がるとカフェを出た。朝美は一幸の腕をつかんだ。

「だめだ」

一幸は怒った。彼は、はっとして周りを気にした。彼の声は結構響いたが、誰も彼の声に足を止める人はいなかった。

外に出た。また雨が降り出していた。駅前のアスフアルトは雨でにぶく光っていた。こんな日は家路を急ぐ人は多い。一幸もその一人には違いなかった。

佐野一幸の自宅までは駅から歩いて十五分くらいである。

一幸は後ろを振り向くのが怖かった。あれだけいったのだから多分ついて来ていないはずだと思う。しかし、

(もしも・・・そんなことはない)

と一幸は言い聞かせた。だか、一幸は思い切って後ろを振り返った。

「うっ!」

一幸は胸に鋭くとがった針が突き刺さる痛みをかんじ、顔を歪め、心臓のあたりを手で押さえた。

若い女が十メートルくらい後ろを歩いてきていたのである。

「誰・・・?」

彼が動揺しているのか、はっきりと見えない。しかも、女は傘も持っていなかった。雨をまつたく気にしていない。

一幸は足を止めた。というより、それ以上動くことが出来なかったといった方が正しいかもしれない。近づいてくる女の輪郭が鮮明になってきた。雨に濡れた髪は鈍い光りの街頭に光っていた。雨のしずくが髪の毛から、彼女の体の中に吸い込まれているように見えた。

一幸は目をこすった。

若い女は朝美ではなかった。一幸はほっと安堵した。

(あいつだって私の気持ちはわかっているはずだ)

一幸は自分を納得させようとする。だから、もう家に電話を掛けて来ないはずだと何度も自分に言い聞かせたが、不安は拭いきれない。

若い女は一幸を不審な目でじっと見て警戒心の幕を張り、その視線から逃れようと道路の端に寄った。

一幸は自分の顔が強張っているのに気づき笑おうとした。しかし、彼の顔は若い女に襲い掛かる獰猛な男の表情に変化していた。

若い女は走って逃げて行った。そして、見えなくなると、一幸はゆっくりと歩き始めた。彼はほっとした気分になれない。家はもうすぐである。一幸の体は雨でぴしょ濡れだった。それまで自分の持っていた傘をどうしたのか、彼には記憶がなかった。もう雨を避け走る気もなかった。もっと大事なことがある。家に着いた時には別の顔になっていなければならない。圭子という名の妻がいる。良子、洋一・・・いい子供たちだ。子供たちに余計な苦労を背負わす気はなかった。

瞬間、このまま何処かに行ってしまおうかと考えた。

(何処へ・・・?)

私にはあの家以外に行く所などない。私はそんなに不幸ではない。みんな、幸せのはずだ。誰も不幸な者はいない。ただ・・・私は・・・みんな、私がやったことだ。朝美という名の女と知り合い、あんな関係になった。自分が全てを壊してしまいそうな気がした。脳裏から朝美のいった言葉が離れなかった。

家の明かりが見えた。目に映る明かりの色は、みんな同じだった。それなのに、これから行こうとしている家の明かり色は、ほかの明かりとははっきりと区別出来た。日によっては赤になったり緑になったりしていた。

今、その明かりの色は濁った灰色に見えた。

一幸は立ち止まったままだった。

「どうかしたの?」

と、圭子は聞くだろうか。一幸は自分の顔を両手でさわった。冷たく、長い間雨にさらされていた石のようだった。両方の頬を二三度強くたたき、もんだ。体の中から吐息がもれた。

やはり今の私を見て、おかしいと思うだろう。一幸はそう想像するだけで、体が強張り歩き出せなかった。

一幸は駅の方に戻ろうとした。体の動きが重かった。気持ちを込め、体を返した時、一幸は視界に入った光景に激しい衝撃を受けた。一瞬ぐらつき、膝が崩れてしまいそうな錯覚に陥ってしまった。

「馬鹿な!」

頭が真二つにわれてしまいそうだった。二人の女が一幸に向かって歩いて来ていた。

二人とも知っている。

「あなた、びしょ濡れじゃないの。今日の朝、あれほど傘を持って行ってと言ったのに。まぁ仕方がないわね。傘、駅前のコンビニで買わなかったの?」

圭子は買い物の帰りのようだ。時計を見ると、もう七時半を回っていた。この時間、圭子は良く買い物に出かける。良子を連れて行くことが多い。

だが、今日は違った。

一幸は圭子の問い掛けに答える心の余裕はなかった。彼の目は圭子の傘に入る女に奪われている。

圭子の持つ傘に、若い女がスーパーのレジ袋を持ち入っていた。女は傘を上げた。

八並朝美だった。

「今日は早いのね」

一幸が家に帰るのは、いつもではないが十時を超えていることが多い。

「ああ・・・今日は仕事が早く片付いたんでね」

これだけの言葉をやっとしゃべった。

「まだ食事の準備は出来ていませんからね。いつも帰ってくる時間まで待ってて下さいね。そうね、久し振りにみんなで食べられますね」

一幸は出来るだけ朝美を見ないようにしていた。朝美の肌を突き刺すような鋭い視線を強く感じていた。

(どうしてだ。どうして圭子と朝美が一緒にいるんだ)

朝美の反応はない。一幸は堪らず朝美を睨み返した。

やっと目があった。

朝美の目は初めて会った男を見るようだった。

「あなた、風をひいてしまうわ。傘に入って」

圭子の言葉にすぐに朝美が反応した。彼女は持っている傘を一幸に差し出した。

一幸はその傘を受け取ろうと手を差し出した。

それを見て、圭子は夫に懐疑な視線を送り、自分の傘に入るようにうながした。一幸はゆっくり差し出した手を引いた。

「あなた、早く入って」

朝美は一幸に笑顔をつくり、自分の傘を開き、圭子の傘から出た。

「私、今日は帰ります」

というと、朝美は傘を開いた。

「あら、いいじゃないの。良子が喜ぶと思うわ。あなた、朝美さんと駅前のスーパーで会ったものだから誘ったのよ」

「また来た時に立ち寄らしていただきます」

朝美は一幸をちらっと見た後、駅の方に歩き始めた。

「仕方がないわね。今日は雨も降っているし、こんな日は気分も乗らないから、また今度にしましょ。良子が会いたがっていたから。必ずね」

「有難う御座います」

一幸は一言も口を出すことが出来なかった。私の知らない所で何かが起こっていた。いや何かが進んでいた。一幸の体が熱くなり自分がどのような精神状態なのか良く分からなかった。朝美は私と別れた後駅前のスーパーに行ったのだろう。そこに圭子がいることを知っていたのか。だが、なぜ朝美は圭子を知っているのか。どうやら良子も知っているようだが。 一幸は歩いていく女の後姿を呆然と見送っていた。

「あなた」

圭子は一幸にハンカチを渡した。

「拭いて」

一幸はハンカチを受け取ったが、雨に濡れた顔を拭こうとはしなかった。

「早く家に入りましょ」

なぜだ、と一幸は思った。だが、彼は言葉には出さなかった。今その言葉を出せば、頭の中が間違いなく混乱してしまうことが分かったから。家に入る前に後ろを振り返ったが、朝美はもちろんいなかつた。一瞬ほっとした。

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