第23話

「孫・・・孫か」

修はカレンダーに目をやった。春美が帰って行って二日が経っていた。赤い丸をした日は動いていない。いずれその日は来る。由紀子は健次か出来た時のことを思い出していた。初めての子供で、二十三歳の時だった。

「赤ちゃん、出来たらしいの」

修は真剣な顔で由紀子を見つめていた。修はしばらく動ごうとはしなかった。喜怒哀楽の表情をうまく表すことの出来ない人だった。この人の場合、笑っている顔が喜んでいるとは限らない。

「嬉しい?」

「嬉しいさ」

「本当?」

「本当だよ」

由紀子は修の反応にまだ疑心暗鬼だった。

「じゃ、抱いて」

由紀子は彼を受け入れる準備をした。彼女は修の動きを待った。

修にはたじろいがあった。

が・・・

由紀子はそれを見抜いていた。修は無言のまま由紀子を抱いた。

由紀子は修が嬉しくないはずがないと思った。今の修の本心が知りたかった。由紀子はその時の修の体に言葉に出来ない喜びを感じた。

修は良く働いた。由紀子は正直そう思っている。性格的に他人と協調して働くことに問題があった。由紀子はそのことをよく承知していた。一緒になってからも何度か仕事をかわった。八並家代々の山を守らなければならないのは、この家に生まれた宿命のようなもの。家族を持ち、何が何でも生活を支えなければならないこと。そして、ここ本里が人の目を気にして生きていかなければならない苦しみ・・・等、精神的に苦しい時もあったようだった。私に愚痴でもいい、それ程苦しいなら相談でもすればいいのにと由紀子は思うことがあった。全てを捨て去ることだって出来たはず。そうしなかったところに、修の弱さがあったのかもしれない。


東京に来て一年目の冬、八並朝美は一人の生活を十分楽しんでいた。昔の人が歩んだ歴史を見るのは嫌いではなかったから、榊原京子とは良く小旅行をした。日光、仙台・・・それに東京都内を気ままに回った。特に仙台には一人で何回となく行った。それは、彼女の頭の中には佐野一幸の姿がちらついていたからでもある。何度か、ここで降りようかと迷ったことがあった。

「ふう、まだね、じっくりと」

と、彼女は自分に言い聞かせた。

「良く行くね、あっちの方、興味あるんだ」

「うん、ちょっとね」

朝美は京子に素っ気なく答えるだけだった。

榊原京子は時々首をひねる。いつもと変わりない朝美だったが、何かを考えているというより、目に見えない何かに対して、掴みどころのない憎しみを抱いて睨んでいる澱んだ目の輝きが、京子には見て取れた。京子は朝美がどう答えるのか分かっていたが、堪らず、つい朝美を問い詰めるように聞いてしまう。

それに京子にはもうひとつ気になることがあった。彼女がそれに直面したのは一回きりなんだが、去年の大晦日、彼女は朝美の部屋で朝まで一緒だった。朝までずっと起きている約束も気もなかった。だから、眠たくなったら何時寝ても良かった。

最初にうつらうつらやり始めたのは朝美だった。京子は、そろそろ限界か・・・と思い、私もちょっと寝ようかなと思った。

だけど、彼女はなかなか眠れなかった。朝美はだんだん深い眠りの中に入り始めているように見えた。彼女はそんな朝美を見ながらビールを飲みだした。もうちょっと起きている気になったのである。

朝美が寝てしまって、一時間以上は経っていたと思う。

(おっ、何?)

京子は朝美の変化に気付いた。朝美の顔色が赤くなったり白くなったり青くなったり激しく変化し始めた。それは、朝美を心配するというより、言い知れない怖さがあった。前々から朝美という子に、不可解な行動に首をひねり、その雰囲気に不可思議さを感じていたから。

榊原京子は堪らず声をかけ目を覚まさせようとした。だが、彼女がそうする前に、

「うっ、う・・・」

と、朝美は唸り声をあげ苦しみ出した。

「誰?誰?来ないで。それ以上傍に来るとまた・・・」

朝美の言葉は鮮明だった。京子にもはっきりと認識出来、普段しゃべっている言葉と少しの違いもなかった。ただ苦しんでいること以外は。

「朝美、どうしたの?」

京子は朝美の体をゆすると、朝美はすぐ目を覚ました。

「何、どうしたの?」

京子は驚いている朝美を冷静な目で観察した。朝美にただならぬ奇怪な雰囲気が漂っていたのだ。京子にはそう見えたのだった。

「だって・・・」

と、京子は言いかけたが、それ以上はいう言葉を見失ってしまった。

 京子は気味悪くなり、

 「部屋に帰って、寝る」

 と言って、朝美と別れた。


四月になり、新しい学年度になると、朝美は自分の心や体にある程度余裕が出て来た。彼女にはなぜ自分が人の考えていることを感じることが出来るのか、よく理解出来ていなかった。でも、 その力は間違いなく確かなものであったと自分に言い聞かせていた。この力に対する自信の表れでもあるからなのだろう、彼女は一幸を自分の思うように自由に弄ぶ自信がついてきていた。一幸に対してどんなに残酷な仕打ちも、今の朝美の心に喜びと満足を与える。彼女は身体を、ぶるっ、と震わせ、

「ほっ」

と、苦々しい笑みを浮かべる。


十日前、佐野一幸と会った朝美は、

「ねぇ、家の前まで送って行っていい?」

と、一幸の目を覗き込み、悪戯っぽく微笑み言った。

「だめだ。馬鹿なことを言うな。圭子がいる。君には、どういうことか分かるか。それに、誰が見ているか分からないんだぞ」

と、一幸は怒った。

「あら、人がどう言おうと関係ないんじゃない」

朝美の悪戯っぽい笑いは消えない。

一幸は朝美のこの笑みに体が震えた。

妻に知られてもいいと言ったような記憶がある。しかし、私が本気でそんな馬鹿なことを言うはずがない。言ったとすれば、その場の雰囲気がそう言わせたのだろう。もしも圭子が知ったらと想像すると、恐ろしい気がする。

だが、朝美はその恐ろしいことを考えていた。完全犯罪を企てる気はなかった。最後は佐野一幸の家族の崩壊である。なぜ自分がそれを望み実行するのか、それは朝美自身にも分からなかった。しかし、その気持ちに、彼女の戸惑いも疑問は一滴のもなかった。

朝美はそれを楽しんでいた。その時その時自分の思うままに動き、すぐに夢想を走らせ、自分が動くと、周りが面白いように動く。毎日を気ままに感情の赴くままに、朝美は動き回っていた。

その日は、朝美は一幸の言う通り別れた。

一時間後、朝美は一幸の家に電話した。まだ一幸が帰っていないのは知っていた。

電話に出たのは圭子だった。初めて聞く女の声だったが、すぐに圭子だと分かった。

朝美は少し喉に力を入れた。

「あのぅ・・・見えますか?いえ、いいんですよ。また、お電話します」

朝美は、

「誰・・・」

と聞かれたが、何も答えなかった。圭子は妙な電話があったことを言うだろうか?彼女にはどっちでもよかった。今日、一日で終わる行動ではなかったのだから。

次への始まりだった。

その日から一か月の間、朝美は数日の間隔を置いて、一幸の家に電話した。圭子は自分の声をどう感じ、苛立ち始めているか、一幸に話したのか、話さなかったのか、朝美にはどっちでも良かった。話したなら、一幸の心はどう乱れ、怒りの波が起こり始めているのか、朝美には想像するしかなかった。ただ、まだ一幸から連絡がないのは、圭子は一幸に話してないということだった。

教授の声が急に聞こえなくなった。彼女はノートを取るのをやめた。

彼女は窓の外に目を移した。さらにその向こうのどんよりとした雲に、彼女は引き込まれていった。

東京で迎える二回目の夏がそこまで来ていた。卒業したら帰れという父修との約束は、いつも彼女の頭の中にあった。だが、実際その時になってどうするのか、朝美自身はっきりしないままの気持ちが続いていた。

七月に入ると、一幸から携帯に連絡が入った。もう我慢の限界だったのだろう。あれから、朝美は一幸には連絡していなかった。

(多分・・・)

と、彼女は想像した。圭子が話したのなら、家に掛かってきている電話の女は私だと思っているはずである。久し振りに一幸の声を聞いた彼女は、にんやりした。この感情のこもらない笑いに、彼女自身びっくりした。

「元気?別にこれといって用はないんだけどね」

一幸は相手の声の反応に神経をとがらせているようだった。朝美は、

「うふっ!」

と、笑った。

「何がおかしい?」

「なにもかもよ。ねえ、どうしたのよ。変よ」

一幸は自分でも動揺しているのが良く分かった。

「私?もちろん、元気だ」

互いに相手の心の内を探り合っていた。朝美は一幸の出方を待った。もともとこっちから仕掛けたことだったのだから。

「私に何か頼みたいことがあるんじゃないかと思ってね」

「頼みたいこと?」

一幸に返事をするのに、朝美は少し間を置いた。

「ないわよ」

朝美は素っ気なく答えた。

「そう・・・家に電話した?」

「家に・・・あなたの?」

「・・・」

一幸は、そうだといったつもりだったが、電話の声に乗らなかった。

「したわよ」

朝美は一分ほどしていった。一幸の苛ついているのが、彼女にはよく感じ取れた。

「じゃ、用事があるんだ」

「あなたの声が聴きたかったの。ただ、そけだけ」

すくに一幸の返事はなかった。朝美は一幸の次の言葉を待った。

「携帯で良かったんじゃないの」

「家でくつろいでいる時のあなたの声が聴きたかったの」

一幸の返事はすぐに返って来た。

「もう家へは電話をしてきてはだめだ。いいね」

一幸は怒っている。朝美はそう思った。

「どうして?」

「家族がいる」

朝美は声を出して笑いたい気分だった。今の瞬間の何がそんな気分にさせるのか、彼女には分からなかった。ただ、今は時々自分を追いかけてくる灰色・・・いや真っ黒い何かの生き物は出てきそうもなかったのだ。何も気にするものはなかったし、怖がるものもなかった。

朝美はもう少しこの遊びを続けたかったのだが、

「分かったわ。ごめんなさい」

と、あっさりと謝った。

「会おうか?」

「いいわ」

「これからは?今渋谷に出て来ているんだ」

「だめ!」

朝美は声に力を込めた。一幸がどんな気持ちで電話をしてきたのか、朝美には手に取るように感じ取れた。

「そうか。じゃ、週末、金曜日は?」

「いいわ」

朝美は寮のベッドに寝ころび、白い天井を見つめて、この先どうすると考えてみた。

(ふふっ・・・)

この先の計画を立てようとすると、面白いように組み立てて行くことが出来た。一幸や彼の家族が慌てふためいている。

「はは・・・ははは」

そんな自分を、彼女は声を上げ、笑った。この物語の終着場所はっきりと頭の中にあった。その場所以外は考えられなかった。しかし、その場所は・・・となると、彼女は戸惑いを覚えてしまう。

「何処?」

(真っ黒い・・・いや違うわ。誰かがいる・・・白くて大きい・・・何!)

朝美の脳裏に、小さい頃目にした白くて大きなウサギが現れた。

「誰かに似ていた・・・」

のだが、彼女ははっきり思い出せなかった。

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