第22話

二人が新婚旅行から帰り、本里の家に挨拶に来た時には朝美は東京の大学に合学していた。妊娠していたから新婚旅行は別の機会にしたら、という意見があったが、春美は行くと決断した。一旦決めたら、必ず・・・自分が間違っていても行動する春美だった。一度決めたらなかなか折れない春美だから、新婚旅行に行った。由紀子は見守るしかなかった。何が悪かったのか、春美は流産してしまう。しかし挫けることを知らない春美は、三年後妊娠することになる。

「七月だったわね」

由紀子は湯飲み茶わんに緑茶を淹れた。

「何が?あっ、子供ね。そうよ」

春美はお茶を自分の前に持ってきたが、飲まなかった。両手で湯飲み茶わんを覆い、寒そうな素振りをして肩を震わした。

「暑いから大変だよ。健次が八月だったから」

「昭平のお母さんも言っていたわ」

春美が口をはさんだ。昭平が春美を見て、にこりと笑った。

由紀子はその時の美幸の思いを想像したが、多分自分と同じ気持ちなんだろうと思った。

「こっちに来るんだろう?」

由紀子は修を見た。目頭がぴくりと動いたような気がした。

「分からない」

春美はあっさりと答えた。

朝美は一言も話さない修ばかり気にしていた。

(この人は・・・)

と、朝美は父の心の中を読んだ。

(なぜ、この人は素直に喜べないの?自分の今の気持ちを言えばいいじゃないの)

朝美にはこの人が何を言いたいのか分からなかった。いつもと違い、修の心の中が読めなかった。だけど、この人がこのごく普通の状況を喜んでいないのは確かであった。

「わたし・・・どうしたのかしら!間違っているのかな?」

朝美は首を振る。

(あっ)

朝美は叫びそうになった。修の目が昭平の向いたのである。彼の目はすぐに憎しみが帯びてきた。春美が、分からないと答えた時だった。

(待って、待ってよ、絶対に動いては駄目よ)

彼女は心の中で叫び続けた。

(殺す。誰を?まさか・・・どうやって)

朝美は動揺し、畳六畳の部屋の戸は開けっ放しになっていて、キッチンがよく見える。彼女はきょろきょろと見回した。だけど、殺傷能力のあるものは修の近くにはなかった。

「おいでよ。向こう様も良くやって下さると思うけど、こっちの方が、気が休まるよ」

「うん」と、春美は戸惑いながら返事をした。そして、しばらく考え込んだ後、

「まだ先のことだから」

と言葉を濁した。

「お父さん、喜ぶよ」

由紀子は夫を見た。そう言った由紀子も、どんな反応をするのか興味を示していた。修のことだから、はっきりと表情には表さないだろうけど、外孫だとしても初孫なのだから嬉しいに違いない。

「居間のカレンダー、見てごらん」

「カレンダー?何なの?」

春美は振り向いた。修と昭平が飲んでいた。修は、酒は余り好きではなかったし、昭平もたまにしか飲まなかった。二人とも黙っていた。帰り車を運転しなくてはならないから、昭平は飲んでいなかったが、修が飲み干すと黙って酒を注いでいた。

「ここからじゃ見えないから。お酒が切れたらしいから持って行って」

春美は鍋から熱くなった銚子を三本、盆の上に乗せた。

「お父さん、そんなに飲んで大丈夫?」

修の口数は少なかったが、快い気分のようだった。春美は近くに来て、良く分かった。

「大丈夫だよ。大丈夫だよ」

修は笑った。好んで飲む性格ではなかった。気分が乗っている時だけ飲むことを、春美は良く知っていた。

春美は立ち上がって、壁に貼ってある日本の山々のポスター型カレンダーを見た。

「今日は泊まっていきなさい。いいんだろう、昭平君」

「分かりました。分かりました」

昭平はこう言うと、立っている春美を見上げた。

春美は、だめという目をして首を二三度降った。泊まる気はなかった。すぐ帰るつもりだった。

「おい、泊まっていくそうだ」

修は台所にいる由紀子に叫んだ。珍しく張りのある声が響いた。余程嬉しんだろう。

春美はもう一度カレンダーを見て、台所に行った。

「止まっていってくれるの?」

由紀子もそうしてほしいと思っていた。

「帰るつもり。昭平のお母さんにもそう言ってきたから。それに着替えも持って来ていないから」

春美は修の方を振り向き、聞こえるように言った。

由紀子は窓に目をやった。裏の畑が暗くなり始めていた。白ネギが由紀子の目に入った。卵にネギのきざんだものと砂糖を混ぜた卵焼きが春美は好きだったことを思い出した。由紀子はそのことを口に出そうかと思ったが、躊躇なく言葉に出さなかった。

由紀子はそうしなかった自分に悲しくなった。もっとしつっこく泊まっていくように言えば言えた。姓も変わり、出て行った娘だった。

「赤い丸がしてあったわ」

春美は椅子に座り、父を見た。そこには、いつもと変わりない父がいた。いつの間にか歳をとった彼女の父がいた。そう見えたのだ。

「向こうのお母さんが知らせてくれた時、すぐにお父さんに話したんだよ。口には出さなかったけど、喜んでいたよ。私には良く分かった」

由紀子は修を見て、微笑んだ。

「お父さんが丸をしたのね」

「多分ね」

「多分?」

「朝起きて、カレンダーを見ると、赤い丸がしてあったんだよ。お父さんがしたのかって、そんな馬鹿なことは聞かなかったよ」

春美はその時の修の姿を思い浮かべた。彼女は少し首をひねった。将来のこととかどんな男が好きなのか、修とはそういう話はしたことがなかったので、彼女はそんなことをする気持ちが理解出来なかった。少し間をおいて、

(そうなのかな?)

と思うと、胸の痛みが和らいだ。

赤い丸のことは、朝美も気付いていたが、修がつけたものとは知らなかった。由紀子に聞いても、それねぇ、と言うだけで、はっきりとした答えは返って来なかった。

修は昭平をなかなか離さなかった。時間が進むにつれて、修が一方的に話し続けた。気持ち良くしゃべっているようだった。朝美にもそう見えた。昭平は、帰りますとは、なかなか言えないようだった。

「遅くなるから、かえりましょ」

春美は強引に昭平の手を引っ張った。

「真っ暗だよ。やっぱり泊まっていったら」

由紀子は修に聞こえるように言った。


居間の明かりが庭を明るくし、白いクラウンを一層白く輝かせていた。

「また、来るわ」

春美は先に車に乗った。昭平がすまなそうな顔をして、由紀子に頭を下げた。彼の目は修を探したが、いなかった。

「気をつけて行くんだよ」

「大丈夫よ」

ドァを閉めると、春美は窓を開けた。そして、由紀子に、

「お父さん、あんなに飲んで大丈夫かしら?」

と、また言った。

「大丈夫だよ。気持ち良く飲んでいたから」

この時、由紀子には、この時の春美の表情が今まで見たことがないような優しさが見て取れた。瞬間、彼女の回想は過去に戻った。

「違うわ」

春美がいった。何が違うのか・・・由紀子には分からなかったけど、もっと小さい頃、もっと昔かもしれないけど、優しい修を何度も見たことがあるような気がした。そのようなことが・・・彼女の回想は鮮明にならなかった。

「孫が出来るんですね」

修は昭平と春美を見送った後居間に戻ると、修が二階から降りて来た。

「行ったか!」

由紀子は頷いた。彼女は修と向かい合って座っていた。由紀子は修の前に座り、飲んだお茶の色に気持ちを和ませ、じっくり味わった後、

「ふふっ!」

と、笑った。

春美の腹はそんなに目立っていなかったが、マタニティドレスを着ている春美を見て、由紀子は春美がおなかの中にいる時の心地よさを思い出し、実感していた。

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