第14話

八並朝美が母由紀子の秘密を知ったのは、彼女が十六歳の時だった。それが由紀子にとって秘密であったのかどうか、朝美には分からない。その当時、そう思っただけのことである。

朝美が学校から帰ると、家には誰もいなかった。六月の梅雨真っ只中、蒸し暑い日だったように思う。軽トラがなかったから、松阪に買い物に行ったのかも知れないと思った。春美は部活でまだ帰って来ていなかった。

いつもではないが、その日は腹が空いていた。そんな時はいつも取る行動は食器棚の上から二段目にある茶菓子で入れに手を探り入れた。何も入っていなかった。

仕方がないから、由紀子が帰ってくるまで余り動かずにいよう、と思った。動くと腹が余計に減るかである。この年頃とにかく腹が減ることが多かった。由紀子が何時帰って来るのか分からなかったが、待つしかなかった。

でも、ふっと彼女は思い出した。夜七時過ぎて帰って来たこともあった。朝美は自分の財布を持ち、軽く振って見た。コインの音がカシャと音がした。とてもパン一つも買える金が入っているとは思えなかった。彼女の目は、居間の七段の箪笥に自然と向いた。

「仕方ないか・・・」

朝美は自分に言い聞かせ、納得させた。事後承諾になるが由紀子の財布から金を借りることにした。彼女がこういうことをするのは三度目である。最初に大目に見てもらうと、全く罪悪感なんて無くなってしまっていた。それなら、なぜもっと度々やらないのか、というと、小遣いをまあ十分もらっていたこともあるが、それよりも父修の存在が大きかった。

さっき朝美は居間の七段の箪笥に目が向き、

「こっちから拝借するか・・・」

と、悪いことを思いついたが、由紀子の大事な財布は修と由紀子が寝ている寝室の五段の箪笥の一番上に入っているのは知っていた。多分場所は変えていないはずである。しかし、

「あっちに手をつけるのは・・・」

さすがに、まずいと思った。

それならと思い、こっちはどうだ。

由紀子がいつも持ち歩く財布は、居間の七段の箪笥にあるのも、朝美は知っていた。そこで、服を掻き分け探したが、なかった。

(やはり持って行ったのかな?)

と、彼女は思った。

朝美はちょっと考え、仕方がないから由紀子が帰るまで待とうかと諦めかけたが、一応全部の箪笥を開けてみることにした。なぜその日に限って、あのようにしつっこく探したのか分からない。金のことではないが、それまでにも箪笥の中をひっくり返すことは、子供の好奇心からあったような気がする。

下から三段目の引き出しの中に入っている冬服の中に、こげ茶に色の変色した古い一通の封筒を見つけた。いつもなら気にすることのない手紙だが、肝心の金が見つからずちょっといらいらしていた。

退屈を紛らすのに、格好ものが見つかったという感じだった。早田由紀子様の宛先になっていた。由紀子の旧姓だった。住所も由紀子の実家になっていた。

箪笥の上の置時計に目がいった。帰って来てから、まだそんなに時間は経っていなかった。朝美は封筒の中から便箋を取り出した。二枚だった。ボールペンの黒い字が変色し滲んで、紙にこびり付いていた。


突然こんな手紙を出して、ごめんよ。

この手紙が君以外の人の目に触れないことを望みます。

君が結婚をし、今は早田の姓でないことは良く分かっています。でも、僕にとっては、あなたが今なお、あの時の由紀子さんなのです。未練がましい男と思って見えるかもしれません。あなたの優しさに心を震わし、気の強さに僕の心はおどおどしたことを、今なお僕の記憶の中に鮮明に残っています。

もう五年経ちました。早過ぎます。時間が止まっていいものなら、いや戻って欲しいのです。時間を戻すのが不可能なら、腕時計を壊してでも時間を止めたいと思っています。

あの日・・・あの日です。出来るならまたあの日に戻りたい。あの一日は夢ではなかった。現実の出来事でした。僕の体が良く覚えています。由紀子さんだって僕と同じ気持ちなのではありませんか!

夢・・・まさか由紀子さんは夢と思っているのでは・・・。

いやだ。僕はいやだ。

あの日は現実の喜び、快感でした。これからもずっと現実の喜びで あって欲しい。


一枚目はこれだけだった。全く理解し難い内容だった。心に思い付くまま書いたような内容だと朝美は思った。ただ、二人に愛情があったかどうかは別にして、関係があったと朝美は思った。

二枚目には、

会いたいよ

と大きく紫のマジックで書いてあるだけだった。


封筒の消印から、朝美はこの手紙の来た時の由紀子の年齢を計算した。二十三歳だった。由紀子は二十四歳に修と結婚した。朝美は由紀子からそう聞いていた。

古い封筒はまた元の所に戻しておいた。

朝美は言い表せぬ不安を感じ、男を知らない彼女の未熟な胸が高鳴り、その場に座り込んでしまった。手紙の言う、あの日に何があったのかは分からない。想像するしかない。由紀子はその日夕方六時過ぎに帰って来た。朝美は母由紀子に何度も見、何処の誰とも知らない女を見る目を向けていた。

「何?」

由紀子は不審な目を向けてくる娘に、怪訝な言葉を放った。

「な、何でもない」

朝美はこう言い返し、目を逸らした。

「変な子ね。どうしたの?」

由紀子は朝美に次の言葉を要求したが、朝美は逃げるように自分の部屋に戻った。

今もあの手紙は、箪笥の下から三段目の引き出しの中にあるのかどうか知らない。ひょっとして別の場所に移してしまったのか、それとも燃やしてしまったのか・・・朝美は今もずっとあの場所にあるような気がした。

封筒には書いてなかったが、二枚目の便箋の最後には男の住所と名前が書いてあった。名前ははっきりと覚えているが詳しい住所は忘れた。あのころは、その男の住所は知っていたはず。それなのに、彼女には訪ねて行った記憶がない。

どうして訪ねて行かなかったんだろう。今になって、朝美は不思議に思う。訪ねて行った所で、高校生の彼女には何も聞くことは出来なかったような気がする。せめてどのような男か見ておくべきだったと朝美は悔やむ。

その男、想像するに母由紀子と関係を持った秋村日出男という男は、朝美の夢想の中でかってに形作られていった。高校の二年三年が同じクラスで、席が隣りだったという誰でも思い付きそうな出会いだった。そして、二人の恋は始まった。と、由紀子はそう想像した。しかし、二人の間に恋が存在したという証拠など何もなかった。少年に存在しても、少女にも恋心が生まれるとは限らない。

少年は朝早く学校に来た。なぜ少年が朝早く学校に来るのか、朝美は想像することが出来なかった。

由紀子も朝起きるのが早かった。由紀子はみんなが朝乗る列車より、ひと列車はやく学校に行くことが多い。自分が一番だと思い教室の前の戸を開けると、少年がいた。

初め、少年の方から、

「お早う、早いね」

と言った後、彼は照れながら慣れない笑顔を見せた。

由紀子も少年を見つめながら微笑んだ。彼女は席が隣なりだったから少年の名前は知っていた。しかし、彼女はその少年に全然興味を持たなかったので気にしなかった。その後、一言の会話もなかった。

その内、少しずつだが少年と由紀子の会話は日々多くなっていった。

八並朝美はいつものように朝早く学校に行った。いつの間にか、胸をときめかすようになっていた。教室の前の前の戸を開けると、教室には誰もいなかった。彼女はがっかりした。

朝美は気を取り直して、次に来るクラスメートを待った。だが、彼女の脳裏にある秋村日出男は来なかった。

激しく愛し合う大人の関係ではなく、ただお互いの存在が気になるだけの淡い恋だったように思う。彼女が恋をしたのは朝一番に教室に来る秋村日出男ではなかった。話すことが多く、いつの間にか気になる存在になっていた。そのクラスメートといる時は気持ちのいい時間を過ごした。淡い恋の相手が朝美の気持ちを知っていたのか、分からない。ただ、小さな仕種で自分の気持ちを伝えていた。

(多分・・・)

と、朝美は思う。

秋村日出男は初めての本当の恋に苦しんだ。朝教室の前の戸を開けた時由紀子がいないと胸が破裂するような痛みを覚えた。この悪戯な悪魔はいつでも日出男の心に忍び込んできた。そして、由紀子が現れると、彼の体の中を暴れ回った。

由紀子は日出男の気持ちを分かっていた。由紀子だってその苦しさを感じていたに違いない、と朝美は思う。会っている時は快い苦しみだったに違いない。目の前にいないと寂しい。夕べテレビを見過ぎて起きるのが遅くなり、列車に乗り遅れそうになる。列車に乗り遅れたら日出男との朝の会話が出来なくなると思うと、今日一日がどんなにつまらないものになるか、想像すると由紀子は自転車を思いっきり飛ばした。映画になるような上品な恋の会話、やり取りではない。まだ男と女の本当の姿を知らない男の子と女の子のお話だった。

「今度の日曜日、その・・・何処かにいかない?」

日出男はか細い声で言った。教室の中はひんやりとしていて寒かった。新しい年は明けていた。だけど、由紀子はその日少しも寒いと感じなかった。多分、それは日出男も同じ気分だったに違いない。

由紀子は机に腕を組み、その上に顔を乗せ、窓の方を向けていた。彼女は動かなかった。

やっと誘ってくれたのである。彼の誘いにうまく応えられない。彼女はどう体で表現していいのか分からなかった。顔を上げ、声の主の方を見るのは恥ずかしかった。しかし、その内他のクラスメートがやって来る。このままじっとしているのはいけない。

由紀子は思い切って顔を上げ、日出男の方を向き、微笑んだ。言葉が出て来ない。由紀子 は少しして、

「何処へ・・・」

と、小さな声で言った。

日出男の答えは、しばらく返って来なかった。

「・・・映画・・・」

由紀子は頭を動かし、日出男から目を逸らした。

この時は、これ以上話は進まなかった。由紀子は日出男に目を向けることはなかった。

二限目の現代国語の時間、始まってすぐ日出男は由紀子に一枚の紙片を渡した。


日曜日、多気駅、九時

 

と、書いてあった。

日出男は由紀子を見ていた。

由紀子は日出男の方を見ずに、少し頷いた。

三日後の日曜日、多気駅のホームには雪が積もっていた。前日の午後から降った雪は深夜にやんだが、冬の弱弱しい朝日にはそう簡単に溶けて消えることはなかったようだ。

その日の由紀子と日出男を想像しながら、朝美の夢想は二人のぎこちない姿を追いながら楽しんだ。彼女はベッドで体を横に向け、寮の白い壁が目に入った。あの男、一幸の姿が浮かんできた。彼女はふっと微笑んだ。

日出男の気持ちが高ぶり、どことなく焦っているような表情が顔に浮かんでいた。彼女には、日出男が何かを話しかけようとしているように見えた。彼女は時々誘いかけるような素振りを日出男を見た。

「あの・・・」

言いよどむ日出男の言葉を、彼女は止めた。

「もう、いいわよ」

由紀子は目に入った自販機に走ろうとする日出男に声を掛けた。

日出男は驚き、由紀子を見つめた。彼は目を逸らし気恥ずかしそうな顔色をした。

由紀子は優しい笑顔を見せた。


「歩きましょ。それより、映画を見る」

松阪駅で降りた。日曜日だが、それ程人通りは多くない。

由紀子は日出男の前を歩き始めた。午後になり雪は解け、道には水溜りが出来ていた。水が跳ねあがり歩き難かった。由紀子は水の溜まっていない所を探し右に左に跳び楽しそうに歩いていた。

朝美は何度も由紀子を自分に置き換えた。不思議なことに少しの違和感も持たなかった。

由紀子は抱かれた。多分・・・その数日後だと朝美の夢想は走った。いつの日か、そう期待していたのかも知れない。そう・・・由紀子は期待していた。

「お母さんは、お父さんとどうして一緒になったの?」

朝美は十五歳の時こう聞いたことがあった。

由紀子の玉ねぎを切る包丁は止まった。今晩はどうやらハヤシライスのようだ。を少しして 由紀子は振り向き自分の娘を睨んだ。そして、

「好きだったからよ」

と答えた。彼女はまた玉ねぎを切り始めた。当然予測出来た答えだった。

「そうね。ごめん。当たり前のことを聞いて。好きだったからこそ一緒になったんだよね」

朝美は謝ったが、由紀子から目を離さなかった。由紀子の包丁がこつこつとまな板に当たり、不規則な音を立て続けた。好きだったからよ、と答えた由紀子の言葉が、今も朝美の脳裏に残っている。

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