第13話

朝美は三重県の県立相可高校に入学した。自宅から近い高校だった。その日に、彼女の知らない女の同級生に、

「あの人があなたのお姉さん?」

と、聞かれた。

朝美は頷いた。彼女はあれが私のお姉さんよとは自分から言わなかった。学校の廊下ですれ違っても滅多に言葉を交わすことはなかった。

朝美は、春美に心の中を見せたことがなかった。彼女はなぜか男の子を好きになったことがなかった。だから、そういうことで悩まなかったので春美に相談することはなかったが、たとえそのようなことがあったとしても春美に話すことはないと朝美は自覚していた。朝の食事が終わり、栃原駅まで同じに行くことはあった。だけど、何を話すでもない、ただ黙って歩いた。五歩も六歩も姉との距離を感じていた。いつ頃からなのか、彼女には記憶はないが、ずっと小さいころからだった。だから、当然喧嘩もしたことがなかった。

兄健次との関係も同じようなものだった。朝美が十二歳の時風呂から出た時、健次に裸を見られたことがあった。一瞬目があった。気まずい感覚はその瞬間だけだった。彼女はバスタオルで体を隠すこともなかった。

静かな家族だった。人が生活をしているのだから、病気もするし多少の罵り合いもある。感情が乱れ狂うようなことはなかった。風が吹いても波の立たない関係だった。朝美は、自分は一人という自覚をしなくても、時間が自然と彼女の体の中に根付かせてしまった。自分の家族は不幸せではない。しかし、幸せな家族でもない。朝美がなぜ一幸の家族を見て、幸せな家族だと直感し壊そうと考えたのか、しかもすぐに実行に移したのか。退屈な大学生活を紛らすためだったのか。朝美自身大学を卒業して故郷へ帰る時になっても、はっきりと言葉に出来ないでいる。

その夜、朝美はなかなか眠れなかった。

(私にもあんなことがあったのだろうか)

朝美は一生懸命思い出そうとした。彼女は四人が新宿を楽しそうにあるく姿を思い浮かべた。

(あった)

と彼女は強く思った。

(私の家族だって同じ人間の家族だ。あったに違いない。ただ、今ははっきりと思い出せ ないだけなんだ)

こう思ったにもかかわらず、朝美の心の中には制御出来ない小さな嵐が吹き荒れていた。

あの家族の幸せを壊す手段として、彼らの父親である一幸に、朝美は照準を向けた。なぜ一幸なのか、朝美が東京を離れる時になっても、気付いてはいない。それまでは快い憎悪に似た感情を持って、彼女自身楽しみながら一幸との怪しい恋をする。


あの日から八日後、朝美は国道沿いのバス停に一人で立っていた。午後六時を過ぎていた。少し前から帰宅を急ぐ車の量が多くなってきていた。雨が少し前から降ってきていたが、傘を差すほどの降りではなかった。

朝美は傘を持っていなかった。彼女の短い髪はしっとりと濡れ、帰宅を急ぐ車のライト当たり光っていた。雨は止む気配はなかった。服が濡れていたが、彼女は全く気にしていないようだった。彼女の目はしっかりと東京方面から流れて来る車を見て、確信のある輝きを呈していた。

「来る。あの男は、間違いなくもうじき来る」

朝美はこう何度も呟き、目を凝らしていた。

朝美は自分の調べた内容に自信があった。彼は、一幸は普段は電車で会社に行くが、金曜日だけはこの道を使い通勤する。彼女は、あることを確信していた。

(あの男は必ず私に気付き、あの男の車は私の前に止まる)

あの時の目は、私に気付いていた。私を覚えているはず、と朝美は確信する。そして、雨に濡れている私を車に乗せようとするはず。今日、今まで何回となく乗りませんかと言ってきた男はいたが、彼女は全く相手にしなかった。

朝美は首をぷいと横に向けた。私が待っているのはこの男ではない。早く行って。彼女は言葉をアスファルトに毒付いた。

すぐに朝美の気持ちを気付いたのか、車はキィッと音を立てて行った。彼女は下を向いてまま、すねた素振りをした。

そんな朝美の動きが止まった。車のライトが自分を当たり、彼女は顔を上げるのを少し躊躇した。だが、ライトの光に釣られ、彼女は顔を上げた。ライトの光が彼女の目を襲い、一瞬体がふら付いた。

その眩しさの中に、朝美は車の中に一人の男の姿を確認した。

車のドァが開き、見覚えのある男が出て来た。

一幸だった。目があった瞬間は厳しい顔つきだったが、確かにこの女だと確認すると、彼女の唇に微かに笑みが浮かべた。

「君は・・・確か」

一幸の声は少し上ずっているように、朝美には聞こえた。

朝美は堅い表情のまま、一幸をじっと見つめた。彼女は微かに頷いた。

一幸は朝美に近寄って来た。

「君・・・雨が降っているよ。何処まで行くの?途中までなら乗せていくよ」

朝美は、乗ると頷きもしなかった。だが、朝美は一幸が乗ってきた車に向かって歩き出した。

一幸は助手席のドァを開けた。

朝美は雨に濡れ鈍く光っているスカートを気にしながら、座席に座った。濡れたスカートは室内灯の明かりになやましく光った。

通り過ぎていく車から見れば、待っていた若い女を、中年の車に乗ったんだなと見えたことだろう。だが、二人の関係は、これから始まるのである。

「何処まででいいのかな?」

一幸は聞いた。優しい声だった。

「土浦駅まで」

朝美は下を向いたまま答えた。

「土浦駅・・・?」

(ここから土浦までのバスはない。この子は、どういうつもり・・・なのか?)

一幸の脳裏に二週間ほど前の情景が浮かんだ。ギァを入れる前に、一幸は朝美を見た。雨に濡れた短い紙が、少女をより幼く見せていた。

 「君は・・・いや、私はそのあたりまで行くからちょうどいい。乗って行くといいよ」

「有難う御座います」

「君は・・・」

一幸はやはり以前のことが気になっていた。だが、どう聞いていいのか分からなかった。だから、「仕事の帰りですか?」と言った。

「違います。私、大学生です」

一幸の表情が強張った。この時彼の思い浮かべたのは妻圭子だった。今日の朝もゴミ出しのことで口論となり、気分を壊したまま家を出たことが頭を過った。その圭子のいる家に一幸は帰ろうとしていた。

「君は大学生なのか」

朝美は頷き、一黒い瞳だけが幸を艶かしく悩ましい目で見つめた。彼女はそう振舞ったつもりだった。しかしまだ幼い彼女の目は二三回ぶるるっと震えた。

(いけない)

と彼女は自分の幼さに気付き、恥ずかしからか体を極度に緊張させてしまった。次の瞬間、彼女の目がにぶく光った。ぎこちないながらも、物語は、朝美の描いた筋書通り動き始めた。そんな彼女を見て、男が嬉しそうな表情をしていたからである。

佐野一幸はこの少女を覚えていたのだ。だからこそ彼は車を止め、朝美に声を掛けたのである。以前、君を見かけたことがあるんだけど…一幸は何度も聞こうとした。だが、聞くことはなかった。聞けば・・・この少女に二度と会うことはないと思ったからである。

「寒い!」

朝美は両腕で自分の体を縮め、抱いた。

一幸はアクセルを緩めた。朝夕にはまだひんやりとした冷気が残る季節だった。

「服・・・」一幸は服が雨に濡れた少女の体を見つめ、深い深呼吸をした。「服、大分と濡れたね」

この時一幸にどうするという考えがあったわけではない。少女の寒いという言葉が気になり、車を走らせていると、小さなモーテルが目に入った。

一幸は助手席の少女を見た。

(これで何度目だ)

朝美は一幸の視線を感じたのか、振り向いた。

目があった。

少女は拒絶していなかつた。一幸は車を躊躇なく小さなモーテルに入れた。

朝美の物語はさらに進んだ。

八並朝美は一幸に抱かれた。彼女には初めてのことであった。そのことに一幸は最初驚いたが、後でそんな朝美を嬉しそうに強く抱き締めた。朝美は男のその行為の意味が分からなかったし、深く考える気もなかつた。

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