第12話

朝美はその夜なかなか眠ることが出来なかった。

父修三と母由紀子、兄健次と姉春美、そして朝美、みんなそんなに大きな憎しみや憎悪、睨み合いもなく生活してきた。

(ひょっとして、これまでにも一幸の家族のような一見幸せそうな姿を見たことがあったのかも知れない。でも)

と朝美は思う。東京へ出て来て一人で生活をするようになって間がない。家族と離れ二か月が経っていた。改めて考える気もなかったが、自分が育った家族を自分なりにどういう家族関係だったのか感じ始めているのかも知れない。

もっとも今、健次は津市のアパートで暮らしているし、春美もすでに家を出ていなかった。そして、朝美は東京で一人暮らしをしていた。後で調べた処によると、良子は十五歳で、洋一は十二歳だった。朝美が強く意識したのは一幸ではなく、この姉弟だった。

朝美の脳裏に突然あの年頃の自分の姿がよぎったのである。三重県の大台町の自分の家から紀勢本線の栃原駅まで自転車で行き、桜の木の下に自転車を鍵も掛けずに置いて行く。桜の木は相当年輪が経っていた。朝美が桜の木を意識してから十数年経っていたが、その間少しの変化も見せていなかった。

その栃原駅から松阪方面へ十分くらいで相可駅に着く。そこから高校生の足で十五分くらいに県立相可高校がある。健次は四つ歳が離れていたから、朝美が高校に入学した時にはもう卒業していなかったが、春美はその年三年だった。

朝美はなぜかいつも目を背けたくなるような自分の姿に激しい嫌悪感を抱いていた。それが何なのか意識出来なかったが、黒い闇の中に鈍い光りのようなものが、彼女には見えていた。

(何?)

彼女は自分に問うた。だが、何も答えは出ないし、誰も答えてはくれなかった。この彼女の体にまとわりついたものは、いつも気にはなっていた。また、突然、黒い闇の中に、鈍い光が彼女に襲い掛かって来た。

朝美はあの頃ほど自分が純粋だった時期はないと思っている。世の中の慣習、常識を何も知らない、世間知らずという意味である。何かが、たぶん黒い闇の中の鈍い光りが彼女の心の成長を止めていたようだった。人を嫌うという感情を持っていても憎悪するという激しい心の動きが芽生えていることにずっと気付かないでいた。軽蔑する憎しみを知らなかった。多分、彼女はそのような感情の動きを抱き、その相手に表したのだが、彼女はその頃意識して自分の感情をもてあそぶことはなかった。

朝美は自分が純粋で穢れのない人間だとは思っていなかった。だが、彼女の字大里の友達とか高校の級友が、そんな彼女を面白がって見ているのに気づいていた。

(気のせい・・・)

背筋に冷気が走った。

朝美はその友達を睨んだ。彼女のどうしろという望みはない。まして、死ねというような願望もない。ただ、ただ苛立ちだけが増し、頭の中が熱くなって来る。

(飛び降りろ!)

その時、友達は校舎の二階から飛び降りたのだった。幸い、大した怪我はしなかった。

その友達というのは、朝美と同じ在所ではなかったが、中学が同じになり知り会った。彼、東隆文が右の席で朝美が左の席だった。彼女が自信を持って友達と言える存在ではなかったが、友達の部類に入った。

朝美が朝教室に入ると、隆文はもう来ていた。もちろん、最初からぺちゃくちゃ話していたのではない。顔を見合すだけからお早うの挨拶になり、いろいろはなすようになった。朝美はその内この男の子は私をどう思っているのか気になった。そういう年頃だったのだが、朝美は隆文という男の子が好きだったわけではない。自分より早く学校に来ている男の子が気になっただけである。

朝美は隆文の心の中を覗きたいという欲求に駆られた。このころになると、彼女はどうすればいいのか知っていた。彼女は隆文を睨み、意識を集中した。意識を集中するとはいかにもそれらしい言葉だが、彼女は思う。この子は何を考えているの、知りたいと体中に力が入る。すると、すぐに答えは朝美に返って来た。

言葉はなかった。ただ、私を嫌っている、と確信した。そうすると、もう後戻りはしない。好きではない男の子に嫌われてもいい。でも、何かお仕置きをしたい。

何とかしたい、いじめてやりたいと彼女は渇望した。彼女は理解し難い焦りを抱いた。何をし、どう感情を処理したらいいのか分からなかった。そうだ。この窓から落としてやろうとにこりと笑って、願った。そして、いつもの通りの結末となったのだった。

朝美は泣いた。

(なぜ・・・)

と彼女は首をひねった。彼女は涙の意味が分からなかった。泣くという行為は知っていた。実際彼女は何度も泣いた。彼女は自分の頬をつたう涙に不思議な感覚を持った。自分のそうあって欲しいと願ったことが達成されたのだから、喜んでいいはずなのに。彼女の心は暗く濁っていた。

「何なの?」。

朝美は手で触ったその水のような感覚に覚えがあったが、彼女ははっきりとその感覚の記憶は甦らなかった。

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