第六話 天使が抱いた白い夢
「そろそろ行きましょうか。」
「そうですね。」
アンがすっかり落ち着きを取り戻したところで、屋敷の探索を再開する。
いつの間にか、全ての部屋の鍵が開き、出入り自由になった屋敷内。しかし同時に手がかりとなるものはひとつも出てこなかった。何の収穫もないまま、再び客室へと戻り椅子に腰かけたリチェルカとアン。
すると急激な睡魔がリチェルカを襲い、なすすべもなく眠りに落ちたのだった。
***
何も見えない。ただ・・・声、そう、何処からか誰かの声が聞こえる。
――― 男のくせに泣くんじゃない。
――― 男が菓子作りなど、何を考えている。お前には家督を継ぐという自覚が足りん。
――― こんなこともできないのか!? この家の跡取りがこんな出来損ないと知れたらもう終わりだ。
――― あなたはお父様の言うとおりに生きるの。そうすれば必ず幸せになれるわ。
――― お父様の為に生きる、それがあなたの為なのよ。
――― お父様が事故に・・・これからはあなたが、この家を支えるのよ?
――― 父親の指示がないと何もできないだなんて・・・なさけない。
――― あの子が事故にあえばよかったのにね
――― 本当に、何一つまともにできないのね。あなたは。
――― つまらない男。金さえなければあんたなんかと付き合ってないわよ
・・・大丈夫・・・あんな奴らに興味なんて持たない。期待もしない。幸せなんてこの世にはない。そんなもの、僕は求めない・・・だから、大丈夫だ。
***
「ねぇ、泣いているの? だったらお空を見ると良いわ。ほら、あの雲なんて、ふわふわでなんだか美味しそう。私はね、お空が大好き。ずっとそこにあるのに、一瞬として同じでは留まらないのよ。ふふふっ・・・これは、パパの受け売りだけどね。どう? 大人っぽかった? はやく大人になりたいなぁ。」
赤いドレスの少女が、そう言って楽し気にステップを踏みながら走り去っていく。
気づくとリチェルカは、色とりどりの花が咲き誇る庭に開かれたカフェの机につっぷしていた。紅茶の香りと、菓子の甘い香りが漂う庭を見ながら、そこに集う人々は大人も子どもも晴れ晴れした笑顔で話しを弾ませている。空はどこまでも青く透き通り、小鳥たちが楽しそうに歌を歌う。木陰では猫が欠伸をしながら丸くなっていた。
「娘が失礼したようだね。」
初老の男がそう言って、リチェルカの隣に腰を下ろす。それにリチェルカが答えないでいると、男はおもむろに口を開いた。
「あの子は私の宝だ。あの子の為ならば何だってした。善悪など考えず、何だってできた。だが、私はあの子の最期から逃げ出してしまった・・・。」
「・・・。」
「あの子を生き長らえさせることは、私のエゴだと気づいてしまってね・・・途端に怖くなってしまったんだ。全てをかけて守り抜いたものが、社会にとっては何の価値もないものであるということが・・・終わりが近づくにつれて、その後に待ち受ける贖罪の日々が、私は恐ろしかった。終わらせたくなかった・・・」
男を中心に、周囲が暗転していく。人々の笑い声も、紅茶の香りも、子どもたちの懸想も、全てが無に飲み込まれていき、リチェルカと男だけがそこに残る。
「さて、今ならば君を、この悪夢から連れ出してやれるが、どうする?」
「・・・悪夢? ・・・僕にとっては、あなたの言う現実の方がよっぽど悪夢ですよ。」
「・・・そうか。何故、同じ世界に生きているというのに、人はだれ一人として同じものを同じ感覚では見られはしないのだろうね。なのに、分かった気になって・・・。あの子の真の望みは、なんだったのだろう。君ならばあるいは、見つけられるかもしれない。」
「生憎ですが、僕は僕の探し物を見つける事で手一杯ですよ。・・・ただ、僕の探し物には、彼女が必要不可欠なようです。」
リチェルカの言葉に、男の顔が少しだけほほ笑んだ。
「で、あるならば。私が手を出すのは野暮というもの。君の選択を、二人が辿る結末を、高みの見物とさせてもらおう。」
男の身体が、静かに闇に溶けていく。残されたリチェルカの手には日記の一頁が握られていた。
〇×年 12月 12日
今日はアンジェリナとお茶会をした。お庭に友人を招いてお茶会をするのが夢だったから、それが叶ってすごく幸せ。身体はどんどん動かなくなるけど、パパとアンジェリナが私のお願いを叶えてくれるから全然辛くないわ。・・・っていうのはちょっと嘘。お薬が効かなくってきちゃったみたい。痛みが全然無くならない。最近のパパは研究室でお仕事ばっかり。アンジェリナもそれを手伝っているみたい。呼んでも来ない日が増えて、寂しい。痛いよ・・・。
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