第33話 「隣よろしいですか、オスカーさん?」

「隣よろしいですか、オスカーさん?」


 ジョエルは校内の端のベンチに腰かけているオスカーに声をかけた。


「お前頭おかしいの?」


 オスカーは見上げながらデニッシュをむしゃむしゃと齧っていた。

 失礼ですね、と視線を送りながらジョエルは手に持ったホッとジンジャーを一口含んだ。風が緩く流れて、真上に溶けていた湯気が横に逸れていく。冬の空は青く晴れているが、どこか色あせているような独特の色味をしている。空気は生ぬるいが、ずっと陽光を浴びていると暑くてたまらない。

 喉でコクンと音を立てて、


「弟の住居を用立ててくださりありがとうございます」

「そのことか。まあ、余ってたからよ」

「家賃も少々下げてくださったそうで、兄としてお礼を申し上げます」

「かったりぃな。はっきり言えよ」


 オスカーがベンチの真ん中でどっかりと腰かけて動かないため、ジョエルは必然的に立っていた。


「あなたが私にしたことを学校に告知することもできますが、弟に止めるように言われているので、保留中、ということですかね」

「ブラコン」

「そうですよ」


 彼は顔をしかめてデニッシュを齧る。ジョエルは微笑んだまま動かなかった。


「お前のメンタルはバケモンかよ。あんなに怯えてたくせに」

「あれは私に原因があると思っていま――」

「ちょっとは弟のせいにしろっての」


 声を大きく言う彼に苦笑しながら、「確かに」と話を続ける。


「あなたの言う通りかもしれませんね」


 ジョエルは目を伏せた。甘やかした結果が、この間の大喧嘩だ。

 再び瞼を上げると、オスカーが怪訝そうな視線を向けていた。


「弟とは仲良くやっているみたいでよかったです」

「俺を脅した奴がよく言うぜ」

「私は脅していません。事実を述べただけでしょう」

「どのみち同じだろうが」


 残りのデニッシュを押し込み、そっぽを向くオスカー。無理に一口で済ませたようで、目を閉じて口を押えていた。ジョエルはそれを楽しげに見下ろしていたが、ふと思い出したかのようにポケットに手を入れた。そして一枚の写真を取り出す。


「これをご覧ください」


 差し出された写真を受け取って、オスカーはまじまじと見つめる。それは先日撮った、二人並んだジョエルとウィリアムの写真である。


「これがなんだよ」


 ジョエルはくすりと笑う。


「可愛いでしょう」

「うざ」

「そんなことを言わず。結構いい出来だと思いますけどね」

「どこが」

「この笑顔」


 写真の中で、ジョエルの隣にいるウィリアムは屈託のない無邪気な顔で笑っていて、まるで夏の景色を切り取ったかのような爽やかなものだった。


「馬鹿じゃねぇの……」


 オスカーはぶっきらぼうに吐き捨てたが、写真を持つ手つきは優しかった。


「それでは、また何かありましたらよろしくお願いします」

「二度と来んなって言っても来るんだろ」

「もちろん」


 ジョエルは写真を受け取り、角が折れないよう丁寧にしまう。


「ちなみに、明日も明後日もここにいる予定なので、いつでも遊びに来てください」

「行くわきゃねえだろうが」


 ジョエルは肩を揺らして笑いながら「残念ですね」と言った。


 その時、オスカーの視線がジョエルの後ろへ向けられる。振り返ると、大男が立っていた。ピリリと突き刺すような視線。ジョエルは穏やかな笑顔を向けた。


「どうも、アレクさん」


 アレクは「っす」と返す。


「おいアレク、煙草は」


 彼は黙って煙草の箱をオスカーへ投げ渡した。


「校内禁煙ですよ」

「わぁーってるよ、じゃあなブラコン」


 オスカーは立ち上がり、ジョエルにぶつかりながらその場を離れた。

 くしゃりと音がしたと思うと、頭に軽い衝撃。地面に転がったのは丸められたデニッシュの袋だった。ジョエルが拾おうとすると、大きな手が伸びてきてブロックされる。アレクの手だった。煙草が強く香り、見上げると青い瞳がジョエルをジッと見降ろしていた。彼はそれを拾うと、すぐにオスカーの後を追う。この匂いを嗅ぐと、腰が痛む。


 ジョエルは見えなくなるまで彼らを視線で追っていたが、ごみは無事にゴミ箱へ捨てられていた。





 午後の講義を受けながら、ジョエルは気が逸れていた。弟が出ていくまでのことを思い出していた。


 グロリアの言葉を思い出して、その後ウィリアムとはしっかり話し合った。そして彼は結局、大学を中退することとなった。そもそも出席日数が足らず、留年が確定していたことはその時に知った。


 あの大喧嘩の後、彼は吹っ切れたようだ。開き直った、とも言える。学校も行かずバイトも決まらずふらふらしている弟を、どうやって支えようかとジョエルは考えていた。


 ある日、ウィリアムはあの三人とともに家に帰ってきた。手には段ボールがある。彼はいつのまにか新居へ入居届を出してきて、その足で段ボールを買い、荷造りを始めたのだ。ジョエルも手伝おうとしたが、それは拒否された。

 楽しそうに準備をしている彼らを見ていると、本当に弟が出て行ってしまうのだと、急にはっきりと自覚した。喪失感が、俊敏な獣のようにジョエルの胸元に咬みついた。血が出てしまう前に、ジョエルはさりげなく貴重品を持ち出して、彼らが準備を終えるまで、自室でジッと毛布にくるまっていた。


 頭の中で、今までの写真が燃えていくイメージが流れた、彼の笑顔が飲まれて、灰になって白い空へ飛んでいく、高く高く……


 気が付けば昼近くになっていて、音が止んでいた。リビングに出ると、ウィリアムが一人、テレビを見ながらピザを齧っていた。段ボール箱はすっかり運び出されていた。


「ああ、おはよ。これ、ジョエルの分」


 と、マルゲリータが二切れ入ったボックスをこちらへ寄越した。


「荷造りは終えたのですか?」

「うん、あと少しはここにいるから。そうそう、ジョエルが寝てたから、ちょっと冷えてる。温めて」


 淡々と話す彼が、どこか別人に見えた。ジョエルは温められていくピザを眺めながら、ふと彼のほうを振り向く。


「引っ越し祝い、何がほしいですか?」

「別にいらない」

「そういうわけにもいきませんよ」


 すると、ウィリアムは背を向けたまま言った。


「何もいらないから、ジョエルの好きに使って」


 一瞬、呼吸を忘れていた。何を言っているのか理解できなくて、少しの間頭の中で解き崩していた。


「……あなた、肌は」

「俺のことはいいからさ。俺、この肌好きだし」


 ウィリアムは自分の手を撫でた。

 以前の口論で、彼は自分が思ったより己の肌が好きなことはわかっていた。けれど、まさか治療費をそのまま好きにしろと言われるとは思わなかった。


「そんなことのために」


 ウィリアムは振り向いて、必死な顔で訴える。


「そんなことじゃない。あんたが俺のことで苦労してるのは、嫌だから」


 その瞬間、心にぽっかりと穴が開いた。チンと音がしてレンジのほうを向くと、温まったピザを取り出す。


「わかりました」


 ジョエルは短く答えた。ウィリアムは「じゃ、ごちそーさま」と言って立ち上がり、鼻歌を歌いながら軽やかに二階へ上がっていった。ガチャリと扉が閉まるのを確認すると、その場にゆっくりと座り込んだ。開いた心の穴に、熱いものが流れ込んでくる。床の模様がぼやけて、ほたほたと涙が落ちた。自分が何故泣いているのかよくわからなかった。すぐそこにはキッチンタオルや布巾、ポケットにはハンカチがあるのに、動揺してしまって袖で拭う。不意に自分の姿が、あの時自分の足元にうずくまって泣いていた弟と重なる気がした。泣きはらす彼の顔は、いじめられて泣いていた時の顔にそっくりだった。ジョエルはあの時、初めて気が付いたのだ。ウィリアムを虐めていたのは、他でもない自分であるということに。


 それから少し経って、ウィリアムが「写真を撮ろう」と言い出した。覚えていたのか、とジョエルは意外に思った。もしかしたら、眠っていた自分を起こしに来た際に、抱きしめていたアルバムを見たのかもしれない。


 自撮りの構えをするウィリアムの横に、ジョエルは立った。シャッター音がすると、彼との絆が深まったように思えた。撮った写真を二人で眺める。


「いい顔ですね」

「あんたもな」


 数日経って、ゲリラ的に彼は家を出て行った。荷物の時と同じく、あの三人が急に押しかけてきたのだ。彼は颯爽とバッグ一つを持って、「じゃあまた」と彼らの車で去って行った。計画的なものだったらしい。自分を襲ったあの三人は、ウィリアムに対しては良い輩なのかもしれない。取り残されたジョエルはそう考え始めていた。


 今の自分は、ウィリアムの大学費用と治療費を払う必要がない。自分に使える金が増えた。そのことに肩の力が抜けつつ、体の中心にはぽっかりと穴が開いていた。





 一日の講義が終わると、ジョエルは大学の外へ出かけた。ソフィーが誘ってきたのだ。彼女は校門で待っていた。今度はピンク色のツインテールになってロリィタを着ている。


「来た来た、おっつージョエル」

「お久しぶりです。どちらへ参りましょうか」

「そこそこー」


 店に入ると、ジョエルはカフェオレ、ソフィーはホットケーキを注文した。そのロリィタは初めて着るらしく、袖のフリルを邪魔そうに握っている。美味しそうに頬張り、口についた生クリームと蜂蜜を舌先で舐めている。


「甘そうですね」

「めっちゃ甘い」


 ふとこちらを見て、「あ~ん」とパンケーキを一口分刺したフォークを差し出してきた。口に含むと見た目通りに甘かった。

 ナプキンで拭っていると、ソフィーはフォークを持て余したまま呟いた。


「やっぱジョエルはそんなんだね」

「どういうことですか」

「ウィルは食べてくれなかったからさ」

「ウィルともやったのですね……」

「そうそうこの間ね。……あ、見て、ウィルの朝食」


 彼女はスマホの画面を見せてきた。焦げたトーストの写真が載っている。ただそれだけなのに、その投稿には数千件のいいねが押されている。


「相変わらずドジってんね」


 彼は昔から得意だった写真をネットに上げ始めた。フォロワーが日に日に増えていく様子を見て、ジョエルは自分のことのように嬉しく、同時に変な輩に絡まれているのではと不安にもなった。別居を始めてから、まだ会いに行ってはいない。だが、スマホを見るとその日に食べたものや行った場所を特定されない程度にアップしているので、ジョエルは安心できた。


「ウィルは自由になったし、あとはジョエルが子離れするだけだね」

「……は?」


 返事に間が空いてしまった。彼女は何を思ってそんなこと言ったのかがわからない。自分を構成する要素と何が結びつくのか、咄嗟に思いつくことができない。


「怖い顔しないの」


 ソフィーにまたパンケーキを差し出されて、口を塞がれる。咀嚼していると、思い出すものがあった。風邪を引いた自分にすりおろしリンゴを食べさせてくれるグロリアの姿。ウィリアムが風邪をひいた時、自分も同じように彼に食べさせた。

 パンケーキを飲みながら、そうかもしれない、とジョエルは考えた。子離れ。自分が彼にやっていたことは、兄というより親に近い行動だった。だが、ウィリアムにとって最悪な親だったに違いない。


 ソフィーと別れるとメッセージを送る。


〈今夜、一緒に夕食でもいかがですか?〉


 数分経って返事が来た。


《いいけど どこで》

〈あなたの家はダメですよね。〉

《当たり前 前もやった このやり取り》

〈そうですね。駅前のカフェはいかがですか?〉

《いいよ》

〈ありがとうございます。〉


 そこで会話が終わった。

 ジョエルにとってみれば数週間ぶりの弟との夕食である。残りの講義中は何を食べようか、何を話そうかということで頭がいっぱいだった。

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