第32話 「この家、出ようと思う」

 翌朝、兄弟の朝食の席でウィリアムはついに切り出した。


「この家、出ようと思う」


 ジョエルは口に何も入っていなければ「え?」と言っていそうな顔をして、欠けたトーストを皿に置いた。その動作を、ウィリアムはまばたきもせずに見ていた。二人しかいないのに、何十人もの観客の前で劇をしているようだ。今の自分の話し方は良かっただろうか、表情は良かっただろうかと考えてしまう。

 ジョエルは口内のものを飲み下すと、


「いつ?」

「らっ、来週」

「ずいぶんと急ですね。どこにですか?」

「大学の近く」

「そうなのですね」


 ウィリアムは息を呑みながらドキドキしていた。てっきり開口一番に反対されると思っていたので、面を食らってしまったのだ。観客から拍手が聞こえてきそうだ。


 しかし、


「私の大学からは遠くなりますね。転居申請を出さないと」

「は?」

「あと、役所にも出さないといけませんよね。荷物をまとめておかないと……この家の元からの家具も多いですし二人合わせてもトラックを呼ぶほどではないと思いますが、知り合いに頼めば――」

「いや、ちょっと待って」


 話が噛み合っていないような気がする。嫌な予感がして歯が震えた。


「俺は一人で暮らすよ。ジョエルは今まで通りここで暮らして」


 今度はジョエルが面を食らった顔になる。


「何故ですか?」

「いや、なぜって言われても……」


 ジョエルは不思議そうに首を傾げる。その瞬間にウィリアムは、頭で何度もリハーサルして推敲しまくった説得文がすっかり消え去ってしまったのがわかった。


「もしかして、あなた一人で暮らせるとでも思っているのですか?」

「えっと」

「あなたは家事全般まともにできないでしょう? 一人暮らしなんてできるわけありません」

「それは……」


 確かにそうだと思う。実際、二人暮らしを始めてから家事は何から何までジョエルにやってもらっていた。


「私がついて行ってあげなければ、あなたは生活できませんよ」

「いや、俺のことなんか放っておいていいから」

「どうしてそんなことを言うのです」


 ウィリアムは一瞬躊躇した。これを言うと、自分の堕落しきった生活を認めることになる。でも、いつまでもおんぶにだっこではいけないのだ。


「だって、ジョエルが大変だろ。今まで散々世話してきたんだし……」

「あなたが気にすることではありません」

「でも……」

「それに、あなたの面倒も見られないほど私はまだ落ちぶれていません」

「そういう訳じゃなくて……」


 ウィリアムは頭を掻きむしる。すると、ジョエルは静かに言った。


「あなたが心配なのです」


 真剣に見つめる瞳に、心の底から自分の身を案じてくれていることが伝わってきた。


「私たちは兄弟ではありませんか。一緒に暮らした方が良いです」


 ジョエルが言うことは正しいかもしれない。それでも、どうしても踏み切れない何かがあるのだ。


 ウィリアムは首を振って髪を掻き上げ、「とにかく、」と言葉を発した途端、


「大学の近くとはどこですか?」


 言葉を被せられ、ウィリアムの肺は張りつめて、しゅんと空気が抜ける。嘘でも、大学の寮に入る、と言えばよかった。


「ごめん、言いたくない」

「教えてください」

「言いたくな……」

「教えなさい」


 有無を言わさぬ口調だった。だんだんと自分の中での決意が揺らぎそうだ。ウィリアムは急かされているように言葉を吐く。


「だって、言ったら来るだろ」

「当たり前です」

「嫌だよ、言わない」

「何を子どもみたいなことを言っているのですか。早く教えなさい」


 その言葉で、何かが打ち砕かれた気がした。結局、根負けしたウィリアムは、渋々話し出した。


「実は、まだ行ったことがなくて……友達から紹介されてさ」

「友達? まさかあの輩のことを言っているのですか? あんなのは友達とは言えません」

「なっ……なんでそんなこと言うんだよ!」


 思わず声を荒げてしまう。ジョエルはその反応に眉根を寄せた。


「本当のことでしょう。一体どういうつもりで近づいてきたのか知りませんが、信用しない方がいいです」

「あんたには関係ないだろ!」


 ドンッ!


 テーブルを叩きつけると向こうにずれた、滑った皿にグラスが倒れ、広がっていくジュースがジョエルの服へ垂れていく。


 ジョエルは自分を見つめたまま続ける。


「関係あります。あの輩が私に何をしたか、忘れたわけではありませんよね」


 耳から音が遠ざかる




 ……――最初に戻ってきたのは、荒い自分の呼吸、こめかみに血が流れる音。景色の彩度がワントーン下がっていた。ジョエルは静かに待っていた。


 あの時、自分がもっとちゃんとしていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。後悔してもしきれなかった。頭が落ち首が垂れて背中が丸まっていく。


「……わかってるよ……」


 ウィリアムは力なく呟く。ジョエルは小さくため息をついた。


「とにかく、私は行きますからね」


 カッとウィリアムは顔を上げた。


「だから、ダメだって!」

「駄目なわけがありますか。家事だけではありませんよ。服を買うのだってゴミを出すのだってバスの乗り換えだって、あなた一人ではできないでしょう」

「いいよ! 全部自分でやるから!」

「どうやって?」

「それは……」

「いい加減にしなさい。大人しく私の世話になりなさい」


 強い語調だった。反論の余地などない。自分のすべてを否定されている。兄が持っている鍵でしか出入りできない檻に、四方八方を囲まれていくようだ。


「やぇ……っ」


 急激な吐き気を覚えた。


「ウィル? どうしました?」


 ジョエルは驚いたように目を丸くする。

 ウィリアムは両手で口を覆いながら首を横に振る。しかし、ジョエルは「大丈夫じゃないですね」と背中を摩ってきた。


「すみません。強く言い過ぎましたね」


 ウィリアムの目に涙が滲んだ。それを拭おうともせず、ただ必死に首を振る。その様子にジョエルは眉尻を下げて、頭を撫でてくる。


「泣かないでください」

「ぅ……ぐ、う」

「ウィル」


 ジョエルはウィリアムの背に手を回して抱きしめると、優しく撫ぜた。


「大丈夫ですよ。落ち着いて」


 限界だった。ウィリアムは押しのけ、シンクに駆け込んだ。嘔吐する彼の背中を、追いかけてきた手が摩る。


「ほら、泣かないでください。わかりました、今度の週末、一緒について行ってあげましょう」


 何を勘違いしたのか。ウィリアムは返事をせずに、蛇口をひねって口をゆすぎ、顔を洗った。タオルを差し出してくるジョエルを無視して、冷蔵庫を開けるとミネラルウォーターを取り出して一気に飲み干す。


「もう落ち着いたみたいですね」


 ジョエルは安心した様子だったが、ウィリアムは黙って彼を睨みつけた。


「なんです? その目は」


 返事をしなかった。


「まったく、本当に世話が焼けますね」


 ジョエルは呆れた顔で言った。


「いいですか、あなたは一人では何もできないのですから」

「うるさい……」

「最後まで聞きなさい。ですから、私がついて行ってあげなければ、あなたは服すら」

「う……うぅううううううううう!」


 ウィリアムは呻きながら、両手でジョエルの胸ぐらを掴み壁に押し付けた。握りしめられた拳に、服の奥の薄い皮膚越しにあばら骨がゴリゴリ触れる。ジョエルは目を見開いてウィリアムを見た。


「な、なにするん……ですか」


 言葉が途切れる。彼は明らかに動揺していた。頭が沸騰するほど熱かった。


「おっ、俺は、長袖がいいなんて……っ言ってない!」


 怒りなのか悲しみなのかわからない感情に支配されていた。ウィリアムの頭には無数の杭が打ち付けられていた。


「大学行きたいって……っ言ってないッ! 家事、やってって言ってない! 旅行、いやって、言ってないぃいいい!」


 喉奥から叫び声が上がる。それが次第に嗚咽に変わるまで時間はかからなかった。


「……なんでだよぉおおお」


 ぼろりと大粒の雫が落ちていく。情けないほど涙腺が崩壊してしまったようだった。


 頭が痛すぎてジョエルの胸に額を押し付けた。崩れ落ちるようにしゃがみ込んで泣きじゃくる。彼がどんな表情をしているのかも見ずに泣き続けた。自分が悪いことぐらい全部わかっている。全部悪いことも理解した上でなお許せない自分を抑えられなくなっていた。


(こんなの八つ当たりだ)


 自分は悪くないと正当化したいのだ。こんな風に誰かを傷つけることしかできないことにも腹立たしかった。



 ジョエルは無言のまま立ち尽くしていた。見限られたのかもしれない。そう思うと怖かった。だけど泣くことしかできなかった。


「ウィル」


 名前を呼ばれて肩がぬくもりで包まれる。大きな手に抱き寄せられていることに気付く。


「ごめんなさい」


 震える声で謝罪の言葉を口にしたのはどちらだろう。

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