第31話 「おはよ……」
ウィリアムはベッドに入るとすぐに眠ってしまったようで、気が付くと朝になっていた。ベッドから這い出して下に下りると、ジョエルがすでに起きていた。寝癖もそのままにコーヒーを溶かしている。
「おはよ……」
「おはようございます。昨日はよく眠れましたか?」
「うん、それなりに」
水のお湯割りを飲むと、背後でジョエルが冷蔵庫を開ける音がした。
「今日はこれをいただきましょう」
昨日のケーキの残りだ。
「朝からきつくない?」
「大丈夫ですよ。私もいただきますから」
ウィリアムはワークトップに置かれたそれを開けて、崩れたケーキを見つめた。残骸、という感じがして食欲が引いていく。
ジョエルは続けて鍋を取り出して、パンプキンスープの残りを温め始めた。
「昨日のローストチキンある?」
「まだありますよ。そちらも温めましょうか」
「うん。美味しかった」
鍋を掻き回しているジョエルの代わりに、冷蔵庫を開けた。チキンは、白く固まった油と一緒に中央にあった。
上の段の奥に、白い箱が見えた。ジャムやハチミツの瓶のさらに奥。赤と緑のリボンが巻かれている。シールが貼られている、消費期限が昨日、『ザッハトルテ』――
「ウィル、郵便の受け取りをお願いします」
「え、来たの?」
「そのようです」
ウィリアムはチキンだけ取り出すと、玄関へ向かった。細かい雪が、チラリチラリと落ちてくる。シュガーパウダーのように雪が積もったポストには、年末セールのチラシのほかに、ジョエル宛てに世界中のペンパルからクリスマスカードが送られてきている。国際郵便は学校の授業で一度だけ書いたことがある。返事は返ってきたが、どう返したらいいかわからなくてジョエルに相談した。彼は協力してくれたが、いつのまにか彼のペンパルになってしまった。自分はうまく話せないから、それでいいと思った。
見ていると一枚だけ、兄弟宛てになっているものがあった。児童養護施設ラストからだ。毎年恒例。ウィリアムはそれを貰うと、嬉しさより苦しさを覚えた。兄弟で育てられたのに、ジョエルに頼り切って生活を送っているのが申し訳なかった。何度か挨拶へ行っているジョエルとは違って、自分は育て親の顔すら曖昧なのだ。
ジョエル宛のカードにケーキが描かれていた。
ケーキ。
どうしてケーキがもう一つあるのか。
ウィリアムの脳内は蛆が沸いたような不快感で埋め尽くされていく。
ザッハトルテ、それはウィリアムが昨日諦めた高級なチョコレートケーキ。
どうしてそれがあるのか、昨日テーブルに出されなかったのか、どうして今は冷蔵庫の奥に隠すように置かれているのか。
はぁ、とウィリアムの薄く開かれた口から漏れた息が白んだ。空気なのに嫌な味がする。ため息にしては少なかった。
「そうだよな」
ジョエルはこういう奴だった。
ウィリアムはポストを閉じると、郵便物を抱えて中へ戻った。
テーブルに置くと、ふらりと部屋へ向かう。
「ウィル?」
ドアノブに手をかけたところで声をかけられた。振り返ると、心配そうな顔があった。
「どうしました? 具合でも悪いですか?」
「いや、ただちょっと……頭痛くて」
ウィリアムはこめかみを押さえながら、苦笑いをする。
「風邪でしょうか……。熱はなさそうですね」
ジョエルの手が伸びてきて額に触れる。冷たい。
「部屋で横になりなさい。私は朝食を作りますので、あとで持ってきますね」
促されるまま階段をのっそり上り、半ば投げやりにベッドに倒れこむと仰向けになる。
「たまにはゆっくり休みなさい」と、毛布をかけてくれた。
「ごめん」と言うと、「いいんですよ、これくらい」と微笑まれる。それから朝食を持ってくると、サイドテーブルに置いて枕元に座った。
「早く良くなってくださいね」
ジョエルはウィリアムの前髪を撫ぜた。不意に口の中にすりおろしリンゴの味がよみがえった。自分が風邪をひくと、彼が枕元で食べさせてくれたのだ。
「では、私は少し出てきます」
「え、バイト?」
「そうなのです」
ジョエルが部屋を出て行った途端に部屋が広くなったような気がした。身支度する音、下で玄関が開く音、鍵をかける音。ウィリアムはスープを飲みながら、それらを聞いていた。テーブルにはケーキももちろん置いてあった。体調を考慮してか小さく切ってある。ウィリアムはベタベタになったクリームが染み込んだスポンジをもそもそと胃へ押し込み、枕をベッドボードに立てかけて、背中から寄り掛かった。
天井を見上げ、瞼を閉じて深呼吸をした。甘ったるく脂っぽい匂いがすると、途端に吐き気がこみ上げてきた。
「うっ……」
口を押えてトイレに向かう。嘔吐くような音が響く。胃の中のものはもう空っぽなのに、それでも何か出ようとしている感覚があって、何度も繰り返してしまう。喉がヒリヒリとした痛みを訴え、鼻水が垂れる。涙も出てきた。
結局何も出なくなってから便器の前に座り込んだ。指先が冷たくなり身体中の力が抜けていた。頭の中で何かが暴れているかのようだ。痛いし熱い。心臓の音だけがうるさい。耳鳴りまでしてきた。
しばらく意識を失ったように便器に突っ伏していると、いつの間にか昼近くになっていた。トイレの窓からの日差しが変わっている。
「あー……」
ウィリアムは立ち上がり、口をゆすいでキッチンへ向かった。食欲は無いが、胃が空っぽなせいで腹が減っていた。飲み物を求めて冷蔵庫を開ける。自分が買ってきたケーキの箱は無い。本当に食べたらしい。
そして、上の段を見上げたが、リボンが巻かれた白い箱は消えていた。ジョエルが持って行ったのだろう。最初から無かったのかもしれない、とも思いたかったが昨夜の彼の様子を考えると、やはりあったのだと思うのが自然だ。バイト先で分けるのかもしれない。
結局何も食べずに部屋へ戻った。窓から見下ろすと雪は止んでいて、道はどろどろになっていた。ベッドに横になって目を閉じると、また頭痛に襲われた。
そのままうとうとしていたようで、目が覚めた時には窓の外が暗くなっていた。夕食の時間だろうかと時計を見ると十七時を指している。どうりで暗いはずだと思いながら起き上がった。ふっと息をつく。頭が重かった。
足取り重く階段を下ると、リビングから明かりが漏れていた。ソファに座っているジョエルの姿があった。こちらに気付く顔色は真っ青だ。
「大丈夫?」
「え、ぇ……」
弱々しい笑みを浮かべている。明らかに無理をしている表情だ。薬を飲むかと訊いたら、もう飲んでいるらしい。良いチョコレートの高そうな匂いがする。
「寝たら?」
「いえ、夕食を作らないと……」
「いいよ。腹減ってねーから」
「そうですか……」
ジョエルは自室に向かう。ウィリアムは彼の後ろ姿をジッと見つめていた。ここ数日でさらに痩せ細ってしまった背中だった。
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