第30話 《今から帰る》
ジョエルのスマホにウィリアムからメッセージが届いた。
《今から帰る》
文面を見てジョエルは苦笑する。
以前はこちらから呼びかけても返事すらくれなかったのに、取り返しのつかないことをしてからは随時送ってくるようになるとは。
あの時のことを思い出せば腹立たしい気持ちにもなるが、不思議と今は落ち着いている。
ジョエルは夕食に向けての料理を作っていた。大学の知り合い何名かからパーティへの誘いを受けたが、「先約があるので」と断った。久々に弟と過ごせるイベントだ。腕によりをかけて作らないといけない。ウィリアムが喜ぶ様子を思い浮かべた。
――『そういう言い方は、やめてくださいよ。家族なんでしょう?』
不意にサムが言った言葉がよみがえってきた。ジョエルは一瞬手の動きを鈍らせたが、すぐに再開する。
サムが、何故そんなことを言う必要があったのかがわからない。そもそも、自分はサムのことをほとんど知らないのだ。彼が何故、(推測だが)弟に体を売らせていたかも、何故自分を犯したのかもよくわかっていない。
ただ一つ言えることは、彼はウィリアムと仲が良いということだけだ。そしておそらく、自分とは違う人種なのだということ。それがわかっただけでも収穫かもしれない。
だからといって、サムやほかの二人に対する嫌悪感が完全に消えたわけではない。むしろ、余計にわだかまるものを感じてしまう。あんな不良どもに屈服させられてしまった。しかも何もできないと思っていたウィリアムの手管によって。ジョエルのプライドはずたずただった。だが、そんなことを表面に出していれば弱みに付け込まれてしまうだけだ。気丈に振る舞わなくてはいけない。気にしなければいつか本当に気にならなくなってしまうものだ。ジョエルは昔からそうやって苦難を乗り越えてきた。物事から目を逸らすのは直視しているのと同じ、とも言うが、自分にはこれが合っている。
「犬に噛まれたようなものですよ」
ジョエルは独り言ち、テーブルの上に料理を並べた。パンプキンスープ、サラダ、ローストチキンが二人分、シンメトリーに整列する。デザートは最後まで冷蔵庫に入れておこう。
ジョエルはそれらにラップをかけ、何をするでもなくソファの上で横になりながら、ぼんやりと考えていた。
すると、いつの間にか眠ってしまっていたらしく、物音で目を覚ました。いそいそと時計を見ると、十九時過ぎである。玄関のほうで音がしたので、ジョエルは起き上がった。
「おかえりなさい」
寝ぼけ眼で呟けば、ドアノブに後ろ手をかけたまま固まっているウィリアムがいた。
「ただいま……寝てた?」
「いいえ。大丈夫……」
彼は大きなビニール袋を持っていた。それを床に置くと、コートを脱いで椅子にかける。タオルで弟の頭に残った雪を落としながらジョエルは訊いた。
「それは何ですか?」
ウィリアムは脱力してうざったそうにしながらも、おとなしく兄の世話を受けていた。
「ケーキ」
「パーティのお土産ですか?」
手に触れている彼の頭がギクリとした。何故パーティのことを知っているのかと。でも気を取り直したように、
「違うって……プレゼント」
「私たちの誕生日はまだ先ですよ」
「わかってるよ!……あのなぁ!」
「冗談ですよ」
ふっと笑うと、ウィリアムはやりきれないようなため息をついた。袋から取り出し両手でしっかり運ぶと、冷蔵庫の前で立ち止まり「開けて」と言う。その様子が可愛く見える。
ジョエルはそれを遮り、
「テーブルに置きましょう」
「でも、溶けるかも」
「大丈夫ですよ」
ウィリアムの手から奪い取るようにして受け取り、中身を取り出していく。リボンのついた紙の箱を開けると、チョコレートケーキが入っていた。薄茶色のクリームに頭が埋まりかけているサンタクロースのメレンゲドール。クリスマスツリーの砂糖菓子は完全に倒木している。
「ごめん、ちょっと揺れちまった」
「味は変わりませんから。いただきましょう」
二人は夕食を食べ始めた。ウィリアムは、パンプキンスープをこぼしたり、サラダのクルトンを落としたり、ローストチキンの油で服を汚したりと、どこか上の空だ。料理が少しずつ減っていく。
やがて、二人ともケーキに手を出す。ジョエルは、ケーキ用にと新しいフォークを差し出しながら、その時初めて彼が足を椅子にのせていないことに気付いた。
「サンタクロースとクリスマスツリー、どちらにします?」
「え、ううん……ジョエルが選んで」
「ではこちらにします」
ジョエルは自分のほうにクリスマスツリーを運び、サンタクロースをウィリアムの元へ向かわせた。フォークを沈ませると、じゅぶっと鳴った。ぱさぱさのスポンジに染み込んだチョコレートのクリームは死ぬほど脂っこく甘ったるい。クリスマスツリーは硬く、舌を噛みそうになり、端を少しずつ舐めて甘みを探る。
「……おいしいですね」
「よかった」
「でも、お腹がいっぱいですね」
「俺も。……残りは明日食べる」
「そうしましょうか。あ、私がやりますよ」
ジョエルは、二人してほとんど減っていない食べかけのケーキを箱に入れ、冷蔵庫へしまった。皿を重ねているウィリアムの口にチョコレートが付いていた。ジョエルがそれを拭うと、彼は顔を逸らした。照れているのかと思いきや、そうでもないようだ。
ウィリアムは立ち上がると食器を持ってシンクへ向かった。ジョエルはぼんやりとその様子を眺めていたが、
「待って下さい」
「ん?」
ウィリアムは振り返りながら怪訝そうに見つめてくる。
「一緒に洗います」
ウィリアムは目を見開いた後、言った。
「ありがと……」
並んで食器を洗う。皿の大半はジョエルのほうに積み重なり、ウィリアムはフォークだけを延々とスポンジで擦っていた。
会話はなかった。水音や食器の触れ合う音だけの空間は、ジョエルにとって嫌いではなかった。しかし、ウィリアムはそうではないらしく、やがて沈黙に耐えきれなくなった。
「体調どう?」
「悪くありません」
「そうじゃなくてさ……」
ウィリアムの手は止まっていた。ジョエルも手を止めて彼の顔を見る。ヒーターの音だけがしていて、二人が静寂だということを際立たせているようだ。
「その、ごめん」
「え?」
「いや……」
彼が何を言おうとしているのかはとっくにわかっている。しかしそれは、ごめん、の一言で済ませられるものではない。それは彼自身もジョエルも、わかっていた。
だが、ここは兄として許さないといけない。
「あぁ、いいんです」
「よくないだろ?」
急に大声で言われてしまい、ジョエルは肩をすくめた。静かな室内に反響して家全体にびりびりと響き渡った。まるで皿が割れたような衝撃がジョエルの体に染み渡っていた。
「だってもう終わったことですし……。それに、あなたにも色々あったのでしょう。仕方ありません」
「仕方なくなんかないだろ!」
今度は怒鳴られた。だが、その声には悲痛のようなものが混じっている。
「俺はあんたを傷つけたんだよ! なのに謝らないなんておかしいだろ?」
傷つけた自覚はあるんですね……。
ジョエルはウィリアムの目をジッと見て、ニコッと口角を上げ、
「とにかく、気にしないでください。私なら平気ですから」
努めて明るく言ってみたが、効果はないようだった。神妙な顔で見つめてくるウィリアムに、内心戸惑ってしまう。いっそいつものように「うるせぇ」と吐き捨てて荒々しく部屋へ逃げ込んでほしい。そうしてくれた方がジョエルも安心できるのだ。
沈黙が続く中、先に動いたのはウィリアムだった。
「ごめん」
もう一度そう言うと、手から滴る泡を服で拭いながら、静かに部屋へと行ってしまう。ジョエルは追いかけようとしたが、足がその場から動かなかった。突っ立っていてもしょうがないと思い、また皿洗いの続きを始めた。
しばらくして戻ってきたウィリアムは、少しの間うろうろしてからジョエルの横に座った。ソファが沈み込み、読んでいた本から顔を上げたジョエルは、弟を見つめた。落ち込んで思い詰めている。罪悪感に苛まれていながら、どうしたらいいのかわからないのだろう。
――『私はお前を許さない』
心のどこかで、そう訴える自分の言葉が聞こえた。そうかもしれない。けれど、今の自分にはこれくらいしかできない。
ジョエルはぱたんと本を閉じる。
「いい加減にしませんか?」
ウィリアムは顔を上げた。
「こういうことばかりしていても、前に進めないと思うのですが」
「でも……」
「今更何を言うつもりですか?……そもそも、どうしてこんなことになったのかわかりますよね?」
ウィリアムは何も言わなかった。ただ黙って俯いているだけだ。
「この話は終わりましょう」
立ち上がると、腕を引っ張られて止められてしまった。見下ろすと、不安げに見上げてくる目が合った。
「嫌いになった?」
震える声で尋ねてくる。
その姿はとても憐憫だ。加害者のくせに、どうしてそうやって被害者ぶった振る舞いをするのだろうか。
ジョエルは首を振ると、「なるわけがないじゃないですか」と言って頭を撫でた。
「私たちはずっと一緒なのです。そんなことあるはずがないでしょう」
「でも、怒ってるじゃん……」
「怒ってはいませんよ。ちょっと疲れてるだけです」
「本当に……?」
「しつこいですよ」
はーっと長く深い息をついて隣に座り直す。
「別に怒っていないので、元気を出してください」
よしよしと背中を摩ってやる。すると、ようやく安心したのか、ウィリアムは心細い目に涙を浮かべ始めた。
「うぅ……っ」
そのままポロリと一粒こぼれると、後は早かった。次から次にあふれてきて止まらなくなる。鼻水まで垂れてきたのを見て、ジョエルはポケットからハンカチを渡した。
嗚咽で揺れる弟の体を抱きしめたくなるが、ジョエルの中にある反抗心が彼の腕を脱力させていた。
一時間近く、泣き止んだりまた泣き出したりを繰り返していたが、やがて涙が枯れたのか落ち着いてくると、彼は恥ずかしくなったらしくこちらを見ようとしない。ジョエルはそれを覗き込むようにして言った。
「まだ何かありますか?」
返事はない。
「ないんですね?」
「うん」
「では、そろそろ寝ましょうか」
立ち上がって歩き出すと、また後ろから袖を掴まれた。
「あのさ……」
「はい?」
ジョエルは静かに待った。ウィリアムの視線と口元を見ていたがやがて、「何でもない。寝よう」と手を離される。
ぬくもりが去っていく。
「おやすみなさい、ウィル」
「おやすみ。ジョエル」
ジョエルとウィリアムは、互いを気遣うようにそろりそろりと階段を上った。部屋に入る直前、彼のほうを見ると目が合った。元気がない。彼は、悪いことをしてしまった子どものように、バタンと部屋へ逃げ込んだ。
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