第28話 「寒いからね」
ジョエルは大学で溜まっていた課題を片付けると、まだ痛む体に鞭打ち、バイト先のスーパーに向かっていた。手にはホットジンジャーの紙コップがある。国際資格の合格証書の再発行をヘンリク教授に頼みに行った際に、彼に「寒いからね」と奢ってもらったのだ。飲んでいると舌がピリピリして、心の底から温まるような気がした。
スーパーに着くとごみ箱にコップを捨て、制服に着替えた。フードテナーを抱えて店内を歩き回る。野菜売り場に着くと、レタスの陳列を始めた。一つ一つが瑞々しく輝いている。
バイトの間、様々な客に話しかけられたりした。皆知り合いばかりで中には顔すら覚えていない人もいるが、誰も彼も良い人ばかりだ。自分がここまでがんばっていることの証のように思えて、ジョエルはテキパキと働いた。
ジョエルは最後に精肉コーナーへ向かった。
見覚えのある人物が二人――ウィリアムと、顔の良い男だ。全身が硬直し足が動かせなくなる。様子を見るに、大人数用の肉を買いたいようだ。
ウィリアムは相手に「え、サム」と呼び掛けて、
――「それ全部買うのかよ? 多すぎるって」
――「だって絶対アレク“足りない”って言うよ〜。っていうかアレク一人でペロッといきそうじゃない?」
――「確かに……でも、さっきの店でもたくさん買ったしこれでよくね?」
――「じゃぁ、これくらいかなっ!」
そのような会話をしながら、レジへと進んでいった。ウィリアムは会計を済ませると、サムに何か言って店を出ていった。サムは笑顔で手を振っていた。
その後ろ姿を呆然と眺めていると、彼と目が合った。彼は表情を失い、その場で固まる。加害者であるはずの相手のその反応は、ジョエルの嗜虐心を呼び起こすのには充分だった。
ジョエルは手汗を拭ってテナーを抱えなおすと笑顔で近づく。相手は硬直して、逃げるタイミングを失ったように見えた。
「どうも、先日は」
「ど、どうもお兄さん。こんなところで働かれてるんですね」
「ええ、たまにお世話になっています」
彼はジョエルに応えたものの、視線はきょろきょろとおぼつかない。貼り付いたような笑顔を見て、ジョエルは目を細めた。
「いつも弟と仲良くしてくださっているようで、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。ウィルはとても可愛いです」
可愛い、という言い方にやや引っかかるジョエル。彼もハッとしたように見える。曖昧に開いたその唇を指でなぞったが、結局は何も言わなかった。
弟の売春相手がこの人だろうと思う反面、仲良くしてくれる存在はありがたいとも思った。
「何か、パーティでもされるのですか?」
「え……あぁ、肉。そうなんです、クリパやるんです」
「今日なのですね」
「ええ、都合がいいんです」
二人は笑顔だった。しかし、間には緊張の糸が張り巡らされている。
「あ、お兄さんも参加されますか? この後やるんですよ。六時か七時くらいから」
正気だろうか。
「いいえ、私は遠慮いたします」
「そ、そうですよね~」
ジョエルはまだバイトがあるので断ったのだが、サムがどう受け取ったかはわからない。
「それでは私は、これで」
ジョエルが一歩踏み出すと、ビクッと退くサム。
「あ、仕事中ですもんねぇ。お引止めしてしまってごめんなさい」
「サム、さん、あんな弟ですが、これからもよろしくお願いいたします」
そう言った時、急にサムの表情が変わった。落ち着かなかった手がこわばり、唖然と口を開き、目を見開くと、眉間にしわを寄せる。
「そういう言い方は、やめてくださいよ。家族なんでしょう?」
彼はそう言った。
意味が分からず、ジョエルは言葉を失う。彼はあっと声も出さずに眉間を緩めたが、鋭い視線は変わらない。彼は何度か口を開きかけ、「失礼します」と吐き捨てると、ウィリアムと同じ方向に走り去ってしまった。
「ジョエル、どうした?」
同僚から声をかけられ、ようやくジョエルは動き出した。ずいぶんと突っ立っていたらしく、膝が痛い。控室に戻り、さっきのことを忘れて仕事に専念した。それから数時間後、タイムカードを押し、帰路に就いた。
スマホに通知が来ていた。ウィリアムからのメッセージだ。
《今日は泊まる》
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