第27話 「おはようございます、ウィル」
懐かしい匂いがした。
曖昧なあくびを漏らしながら、ウィリアムは目覚めた。うつ伏せから起き上がると、柔らかい毛布が背中からとろけて落ちていく。ここは……ジョエルのベッドだ。
昨日は兄の部屋に連れられて、同じベッドで眠りについた。その証拠に、ウィリアムの隣には誰かが寝ていた空間があり、ぬくもりがまだ残っている。
ウィリアムは身震いした。あたたかいのに、胸が痛むほどの寒気が襲ったのだ。
チン、とリビングから聞こえる。
嫌だという気持ちがあったが、ベッドから抜け出して手探りで一歩ずつ下りていくと、朝食を作るジョエルの背中が見えた。
変に慎重に足を下ろしたせいで、生あたたかい階段がミシッと音を立てた。
ジョエルが振り返る。
「おはようございます、ウィル」
「おは、よ……」
“ウィリアム”ではなく、“ウィル”であることに安心した。
部屋に引き返すわけにもいかず、ウィリアムは席に着いた。顔を洗おうかとも思ったが、もしジョエルが洗面台までついてきたら怖いと思ったのだ。
コトン、と目の前に置かれた皿に、ウィリアムの目は輝きだした。
「え、これっ……!」
「そうです、あなたの大好きなオムライスですよ」
出来立ての温かい卵の黄色い斜面を、ケチャップが溶けて滑っていく。酸味のある香りに、急激に空腹感が増していく。
施設にいた頃、日本食のレシピ本を見ながら作ってくれて、それから好きになった。
ジョエルもオムライスだった。心なしか、彼のほうは卵が薄い気がする。こっちに多く分けてくれたのだろう。でも今は罪悪感よりも食欲のほうが勝っている。
「めしあがれ」
ウィリアムはスプーンを掴んだ。カツンカツンと、皿にぶつかる音が響いた。久しぶりにジョエルが手作りしてくれたということだけで前のめりになる。口の中にまだある傷にケチャップが染みたけど、ものすごく空腹だった。
皿に残ったライスの粒を掻き集める段階になって、ようやくウィリアムは顔を上げた。ジョエルも食べ進めていたが、視線を向けられたことに気付いて顔を上げている。
急に、目が熱くなって、胸がキュッとする。
「おいしかった……」
ありがとう、とまで言おうとしたけれど、なぜだか口の中で消えてしまって、顔を背けてしまう。
ジョエルに怒られるかもしれなかった。でも、彼は笑いをこぼした。
「よかった。ありがとうございます」
優しい声を聞いて、また泣きそうになってしまう。どうしてだろう。優しい兄に戻っていたこともあるだろうが、後ろめたさも無く本気で彼に感謝したからだろう。大好物を作ってもらった、それだけのことなのに。普段の生活のことには素直に感謝できないのに。自分がとてつもなく我儘で醜いモノのように思えた。
ウィリアムは嗚咽を漏らし、堪え切れず椅子に座ったまま背中を丸めた。ジョエルの手が頭と背中を撫でてきた。
兄は、元に戻っているように見えた。でもそれは自分の思い込みであり錯覚なのではないか、本当はまだ怒っていて、いつかまた突き放されるのではないかと、短い呼吸が止まらない。ジョエルの手つきはとても優しくて温かい。以前の自分に対する態度に戻ったようだ。
でも違うんだと思い知らされたような心地になった。それがとても悲しくて、ウィリアムはさらに泣いた。
きっと自分は戻れないところにいる。
もう二度と。
「どうしました?」
ジョエルの声が降ってくる。
「ううん……なんでもない……ごめんなさい……」
この謝罪の言葉の意味さえもわからなくなってしまったけれど、言わずにはいられなかった。
ジョエルは何も聞かなかったように微笑んでくれた。
その笑顔を見て、ああやっぱりと思うと同時に、ひどく胸が締め付けられた。
――ごめん、ジョエル……。
「いってきますウィル」
今日は休講らしいのだけれど、数日休んだ分を取り返しに行きたいとのこと。ダッフルコートを着込み大学へ行くジョエルを見送ると、ウィリアムは部屋に戻った。ジョエルの部屋に。
再びベッドに入り込み、顔をうずめたり丸まったりした。ジョエルの匂いだ。大人になってからはベタベタくっつくわけにもいかず、かつ自分から避けていたから、いつの間にか忘れていた。
自分と一つしか違わないのに親の役割も果たす立派な兄。ずっとこのままでいたいと思いつつ、それに反発する意志が責め立ててくる。前から芽生えていたその意志は、ぬくもりの中で温められて急激に成長していった。
昨日のジョエルを思い出していた。今日にはすっかり消えていたけど、一瞬でも兄をあんな風にしてしまったのは自分のせいだ。
それから数十秒だけ堪能すると拳を握りしめ、ウィリアムはベッドから這い出た。
同じくダッフルコートを着て手袋をはめた彼は溜まり場に到着した。扉にはクリスマスリースがかかっており、自分を出迎えてくれているような、反対に拒まれているような、微妙な気持ちになる。開けると、リースの安物のベルがチリ、と小さく鳴り、暖かい空気がウィリアムを包み込んだ。ストーブの赤い光が揺れる。ラジオからはクリスマスソングが落ち着いて流れ、空気に溶け込んでいた。
ソファで寝ていたサムが音に頭を起こし、「ひゅっ」と声を漏らした。ウィリアムは口を開く。
「久しぶり……」
「久しぶり、ウィル!」
サムは赤い目を細め立ち上がって、高級そうな黒セーターに包まれた両手を広げかけたが、座りなおすとパンパンと隣に座ることを促した。背もたれには彼のファー付きのコートがかかっている。
ここまでの足は重かったが、着いてしまうと意外とあっけない。まだ体のすみずみがピリピリするが、時期に無くなるだろう。
おそらく、迎えてくれたのがサムだということが一つの要因であるに違いない。
「心配してたんだよ~お兄さんに監禁されてるんじゃないかって!」
「は、ちげえよ」
「じょ、冗談だよ」
これ食べる? と勧められたグミを摘まむ。気持ちよくなりながら、部屋の隅にある赤いものに目が行く。ポインセチアだ。訊くとアレクが持ってきたらしい。葉の柔らかい感触を確かめ、十二月だ、という意識が芽生えてくる。
ウィリアムは切り出した。
「あのさ、この」
「何?」
「あ、えと、この間のバイトのカフェのやつ」
サムは粉が付いた指を念入りにしゃぶりながら呆けた目をしたが、あっと声を上げ、
「ビュッフェの時に勧めたやつ? やるの?」
「そうそう!……それ受けようかなって」
「マジで? やったぁ! 待って、すぐにパパに電話するね!」
「うん、頼んだ」
サムは電話口で楽しそうに話し出した。そんな声を聞きながら、ウィリアムはまた人目にさらされるような気持ちになった。人見知りが治ればいいと思いつつ、そうなるのは到底先のことだろうと諦めていた。
サムはバイトとは関係ない話も大量にしつつ、採用の約束を取り決めてくれた。
「うん、お願いね〜! じゃあねパパ、愛してるぅ!」
彼は電話を切ると、ウィリアムにニカッと歯を見せた。
「行く時は俺に言ってくれれば電話で伝えておくからね」
「うん、ありがとう、サム」
「いいんだよ〜。それにしても、急だね」
「ああ……」
ウィリアムが黙り込むと、サムはそれ以上訊かずに微笑んでくれた。
「まあ、いつでも相談に乗るからさ」
ウィリアムは「ん」と小さく曖昧な返事をした。サムは立ち上がり、冷蔵庫に向かった。
「そうだ、あと一時間くらいしたら買い物行こうと思ってんだけど一緒にどぉ? 今日はセールがあるらしいから、色々安く買えると思うけど」
「行く」
「よし決まりィ」
サムはウィンクをしてみせた。ウィリアムは笑って返した。
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