第26話 「ジョエル」

 ススがまだ空気中に漂っていて、ジョエルは込み上げてくる咳を抑えきれなかった。

 それにウィリアムが反応して手を止めたのがわかる。スプーンが皿に擦れる音が途切れたからだ。彼の皿には、ミックスベジタブルを解凍したものが入れてある。細かくカットされているので、彼も咳をするたびに頻繁に落としていた。

 ジョエルが黙って食事を再開すると、ウィリアムはまた音を立て始めた。




「ジョエル」


 食事を終えてから放心状態で椅子に座っていたジョエルは、力なく顔を上げた。ウィリアムがフードを被っている。二人きりにもかかわらず室内でそうする時は、何か後ろめたいことがある時だ。


「なんですか」


 ウィリアムはフードの紐を引っ張りながら、何度か口をパクパクさせ、こう言った。


「ごめんなさい、昨日、パンとかダメにしちゃって。次はもうしないから」

「次はありません」


 反射的に答えていた。ウィリアムの肩が跳ねる。彼は紐から手を離して裾を掴んだ。


「はい……」

「あなたはどれだけ食材を無駄にすれば気が済むのですか。言いましたよね、『何もするな』と。どうして私を困らせることばかりするのですか。いい加減にしてください。私があなたに厳しくするのは、あなたの為でもあるのです。そんなことではこの先やっていけませんよ。私はあなたの為に言っているのです。わかっていますか?」


 捲し立てるうちに、自分が弟に対してかなり腹を立てていることがわかってきた。目の前が真っ赤になっていき、熱のようなものが体の内側から湧き上がる。全身が燃えているようだった。


 ウィリアムを見たくないと思う自分がいる。


 いけない、駄目だ、止めろ、と理性が叱責する。

 自分がウィリアムを嫌ってしまったら、他に誰が彼を愛してくれるのだ。


 そう思いながらも、口は止まらなかった。


「わかっているのなら、何故同じことを繰り返すのでしょうねぇ。理解に苦しみます。まったく進歩しませんね。あなたは私の弟なんです。もっと自覚を持って行動しなさい。はい、復唱してみましょう。『私はジョエルの弟に生まれて良かった』、ほら、言ってごらんなさい」


 自分でも、どうしてそんなことを命令したのかがわからない。悲しみと怒りのようなものが、そう口にさせた。ウィリアムは相当苦しんでいるのだろうと、ジョエルは思った。


 だが、


「はい、俺……私はジョエルの弟に生まれてよかったです」


 ウィリアムがそう言った時、頭の中で何かが弾けた。強いアルコールを含んだ時のようなめまいがジョエルを襲った。

 ウィリアムにしがみつく。


「ジョエル?」


 心配そうな声に顔を上げる。今までの苛立ちが嘘のように消え去り、ウィリアムに対して急激な愛おしさを覚えた。今なら噛みつかれても許してしまいそうだ。口元が緩み、笑みが作られていく。


「そうですよね。私も嬉しいです。さぁ、一緒に喜び合いましょう。おめでとうございます、ウィリアム。私たちは家族です。素晴らしいことですね。とっても幸せですね。兄弟、仲が良いことは。はい、もう一度。言い直して」

「あ、ありがとう、ジョエル……。わ、私たち兄弟は、とても仲が良くて、とっても幸せだよ!」


 ビクビクしていたウィリアムが、口角を引き上げて歯を見せた。ぎこちない笑顔だったが、それでも嬉しかった。両手を握ると、彼は首を傾げつつ握り返した。


 ジョエルは、自分の中の感情が何であるかわかった。これは紛れもなく、『愛情』である。


 ――そうだ、彼は私の大切な、可哀想な弟なのだから、優しく接しなければならないだろう?


 ふっと微笑んで、ジョエルは握った手に力を込めた。


「よく言えました。これからも仲良くしていきましょう。さぁ、次は、ハグをしましょうか。恥ずかしがることはないです。大丈夫です、怖がることは何もありません。弟とのスキンシップなんて当たり前のことじゃないですか。はい、ぎゅーっと抱きしめて。いい子ですね。何故震えているのですか? おや、顔が赤いですね。ははっ、照れているのですか? 可愛いところがあるじゃありませんか。そうだ。ほら、笑ってください、笑顔でお願いします。カメラ目線で、ピースサインを。はい、チーズ! 良く撮れました。後でクラウドサービスにもアップしましょう。記念すべき瞬間ですからね。どうかしました?」


 腕の中のウィリアムが、ふるふると縮こまっているのに気付いて、ジョエルは心配になる。


「ううん、なんでもない」

「そうですか。それならばいいのです。ふふ、弟はやっぱり可愛いものですね。この可愛さを他の誰かに伝えたくなる気持ちもよく分かります。皆さんに見せびらかしたくなってきました。そうだ、今度パーティでも開きましょう。皆を集めて盛大に祝うのです。もちろん主役はウィリアム、あなたですよ」

「う、うん! 俺頑張る!」


 ジョエルは体をはがすと、ウィリアムの顔を見つめた。


「ああ楽しみです。きっと楽しい時間になりますよ。想像しただけでワクワクしますねぇ。美味しい料理と、素敵な音楽。そして何より大切なのは、あなたの存在。弟がいるという幸福感は何物にも代え難いものがあります。さぁ、ウィリアム。兄である私に何か言うことがあるのではないでしょうか」


 肩に手を置きながら、ジョエルは微笑んだ。


 ウィリアムの顔には恐怖の色が浮かぶ。その目は、助けてくれと言っている。

 しかしジョエルは取り合わない。優しい声色で語りかけるだけだ。


 フードを被りこんだ弟に、ゆっくりとフードを脱ぐように促した。怯えた表情のウィリアムが、そろりと頭を出す。ジョエルはその頭を撫でてあげたくなったが我慢して言葉を続けた。


「早く言いなさい。私は気が短い方なので、あまり待たせないでください。あなたが何を考えているのか、私に教えてほしいのです。さぁ、ウィリアム。言ってごらんなさい?」

「ごめんなさい……っ、ごめんなさい……」

「謝られても困ってしまいますよ。どうして謝っているんですか? 悪いことをしていないのなら、堂々としていて下さい。さぁ、私の目をしっかり見て。逸らさないで。もっと近くに寄って。ほら、もっと近くへ。顔をもっと近付けて。そう、そのままジッとしていて。動かないで」

「うぅ……」


 彼の喉仏が上下して、くきゅ、と空気の音が鳴った。揺れるその瞳は光をため込んでいて、この世で一つだけの紅玉のように見えた。


「良い子ですね。綺麗な瞳をしているではありませんか。とても素敵だと思いますよ。もう一度言いましょうか。『私はジョエルの弟に生まれて良かった』はい、どうぞ。さぁ、もう一回。『私はジョエルの弟に生まれて良かった』はい、もう一度。頑張ってください。『私はジョエルの弟に生まれて良かった』『私はジョエルの弟に生まれて良かった』」


 ジョエルはウィリアムに何度も繰り返させた。高揚感とともに焦りのようなものが沸き上がり、満足感があるにもかかわらず、どうしてか心が削れていくようだ。


 ジョエルの弟に生まれて良かった。ほら、彼は私に感謝している。だから、お返しがしたかっただけなのだ。それをちょっと失敗しただけ。それだけなのだ。


「わ、わたしは、じょえるの、おとうとにうまれてよかった!」


 彼の顔がどんどん赤くなっていくように見えた。声もかすれて切羽詰まっている。恥ずかしそうだ。それでも弟であることを肯定してくれるウィリアムに、ジョエルは熱くなった目頭を押さえた。


「素晴らしい! 今日は最高の日です! ああ、本当に嬉しいです。感動で涙が出てしまいました。弟を褒めるというのはこんなにも幸せなことなんですね。はい、もう一度抱き合って喜び合いましょう。ぎゅーっと抱きしめましょう。さぁ、ウィリアム。おいで」

「やめてっ!」


 両手を広げたジョエルは、ウィリアムに思いっきり突き飛ばされた。


 背中をしたたかに打ち付けながら、頭が空っぽになる。茫然とウィリアムを見上げる。


 いま、ウィリアムは私を突き飛ばしたのか、と。


 目が合うと、慌てて駆け寄ってきて手を差し伸べてくる。


「ああっ、ごめん! 俺っ……!」


 謝られた瞬間、ジョエルは安心した。嫌われたわけではないのだ。


「いいえ、大丈夫ですよ。ふふふ、あなたが優しい子に育ってくれて兄はとても幸せ者です。それにしても、酷いじゃありませんか。いきなり突き飛ばすなんて。私、驚きすぎて心臓が止まるかと思いました。もう、そんな悪戯ばかりする子はこうですよ」

「ひゃっ!」


 ジョエルはウィリアムの脇腹をつんとつついた。たったそれだけのことなのに、ウィリアムは飛び跳ねるほど驚いている。


「ふふ、可愛い反応をするのですね。私、あなたが大好きですよ。愛しています。だから、ついからかいたくなってしまうのです」

「ひっ、うっ、うう……」


 声に合わせて、細い体躯が痙攣する。ヒーッと喉から引き裂くような声を洩らし、どうやらそれは嗚咽らしい。痣がある頬に、涙が流れていく。


「泣かないでください。どうか泣き止んでください。あなたの笑顔を見たくてやったことです」

「ごめんなさい……、ごめんなさい……」


 彼を見ていると、ジョエルの脳裏によぎるものがあった。虐められ泣くウィリアムだ。兄である自分にすがってくる、あの姿。痣があるから、泣くともっと痛々しくて見るに堪えないのだ。


「ああ、ウィリアム……ほら、笑ってください。あなたには笑っている顔が似合う。泣いていないで、もっと私に見せてください。ほら、ね?」


 しかし、痙攣は止まらず、はっきりとした。彼は喉をひっくひっくと鳴らし、苦し気な声を絞り出す。


「ごめんなさい、俺が悪かったから、ゆるして……」

「何を言っているのでしょう。あなたは何も悪くない。悪いのは全部あの男たちなのでしょう? そう、あいつらが悪い。ウィリアム、私は怒ってなどいませんよ。ただ、悲しんでいます。また、守れなかった。何もできなかった自分が情けなくて悔しいのです。ねえ、ウィリアム。あなたにはわかりますか? この気持ちが」

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

「謝っても駄目です。答えてください。私の質問に正直に答えるのです。さもないと、どうなるかわかっていますよね?」

「わかるよ……。ちゃんという、いうから……」

「良い子ですね。では、改めて聞きますよ? ウィリアム、あなたにはこの気持ちがわかりますか?」


 しゃくりあげながら、ぶるぶると唇を動かすウィリアム。きちんと言おうとしているらしく、嗚咽を飲み込みながら、沈黙が続いた。ジョエルは辛抱強く待つ。


「うん……わか、わかるか、らぁ……ごめんなざぃいい……」


 彼はいよいよ声を上げて泣き始めた。いい大人なのに、手の甲を瞼にぐりぐり押し付けて涙を拭っている。やはり彼は可哀想で、私にとってはかけがえのない可愛い弟なのだと、ジョエルは確信し、そっと抱きしめた。


「そうですか。それは良かったです。ところで、どうしてそんなに震えているのでしょう。寒いのですか」


 ジョエルは、到底無理のある“泣いていることに気付かないふり”をしてあげて、ヒーターのボタンを押し温度を上げた。部屋全体が暖かくなるほど温度を上げると、ようやく落ち着いたのか、ウィリアムの身体の力が抜けたようだった。


 しかし、まだ恐怖心はあるようで、目が合っただけでびくりと肩を大きく震わせて、まるでどこかが痛いかのように体をぎくしゃくさせている。ジョエルはゆっくりとした足どりでウィリアムに近づくと、さわりと頭を撫でながら安心させるように微笑みかけた。


「大丈夫ですよ、ウィリアム。私はここに居ますよ。どこにも行きませんよ」

「う、うん……」


 ウィリアムは袖で涙を拭う。ジョエルは後ろから包み込むような体勢になると、ぎゅうと抱きしめる。ウィリアムは大人しくジッとして俯いている。彼の涙を拭ってあげて、頭にキスをした。髪の匂いを嗅いで、首筋に顔を埋めると満足げな笑みを浮かべる。


 そう、私は弟を愛している。愛しているのだ。


「何があっても、誰がなんと言おうとも、あなたは私の弟ですから、決して見捨てたりはしません。あなたは被害者なのです。そう、あなたは何もしていない。何もできない弱い子どもなのです。可哀想なウィリアム。でも、大丈夫ですよ。私がついています。だから、もう泣く必要はないのです。兄である私が、あなたを守ってあげます」

「ジョエル……」

「ふふ、やっと名前を呼びましたね。ああ、嬉しいです。本当に嬉しい」


 ウィリアムは恐怖のあまり、無意識のうちに兄の名前を呼んだようだ。だが、名前を呼んだその行為自体が嬉しくて、ジョエルはさらに強く抱き締めると頬擦りをして喜んだ。その様子を見たウィリアムは再び涙を流したが、もはや抵抗する気力はないらしく、されるがままになっていた。





 夜、ジョエルは自分のベッドで寝ている弟に寄り添い、その髪を撫でていた。シルクのような感触が好きだった。何より、自分の色に染められていくようで気分がいいのだ。


 外では雷が瞬き、ジョエルはウィリアムが怖がらないように包み込んだ。すうすうと寝息を立てているが、鼻が詰まっているらしく息苦しそうにも見えた。


 スマホが通知を鳴らし、弟の髪を艶やかに照らす。何事かと思い、ジョエルは弟に背を向けてメッセージを開いた。ソフィーがオンラインになっている。


《予定ある?》


 クリスマスツリーのGIF付きのメッセージだ。


〈特にはありません〉

《一緒にクリパでもする?》


 彼女からこういう誘いがあるということは、もともとあった予定がおじゃんになったのだろう。しかし、パーティのような時間がかかるものであれば乗れない。今年こそは約束があるのだ。


〈申し訳ありません。弟と過ごします。〉

《二人きりで?》

〈はい。〉

《友達いないの?》

〈いませんよ。知り合いからは誘われましたが、断りました。〉


《ウィルは友達いるんでしょ》


 何と返すか一瞬考えた。


〈あれは友達ではありません。今年は私と一緒に過ごすと言っていました。〉

《そうなんだ》


 彼女はオフラインになった。


 クリスマスに弟と過ごすという約束をした。しかし、今日は彼を追い詰めてしまった。せっかくのイベントなのに、彼は息苦しい思いをしないだろうか。ジョエルの胸に漠然とした罪悪感が侵食してくる。去年のクリスマスのような形無しにはしたくない。すっと頭の中が冴えていく。兄として、可哀想な彼の緊張をほぐさなければいけないだろう。

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