第24話 「あっ……ああっ、ウィルッ、んぐ、クソっ……!」

 口の中がねばついている。


「あっ……ああっ、ウィルッ、んぐ、クソっ……!」


 ジョエルは起き上がった途端、弟の行動を想像して呻いた。腰にできた水ぶくれが潰れて、シーツにくっついてしまっていた。

 指に唾液をまとわせて、時間をかけてはがす。

 傍に置いてあった服を着て、人気のするリビングにぎくしゃくと向かった。


 ――ガタッ


 浴室から音がした。ジョエルの気配を察知したウィリアムが隠れたのだろう。

 空気も床も冷たく張りつめている、ヒーターのスイッチを入れたが給油ランプが光る。ウィリアムも点けようとしたが、灯油の入れ方がわからなかったのだろう。とはいえ、ジョエルにも汲みに行ける気力はない。


 食卓にチーズが乗ったベーグルがある。これから温めようとしたのだろうか。ウィリアムなら焦がしただろうから、ギリギリセーフだ。疲れているが椅子に座ることができないので、立ったままいただくことにする。

 冷えていて、美味しく感じるまでしばらく噛んでいる必要があった。腹に冷たいものを入れたくないが、白湯でごまかす。


 時計を見た。本来ならもう大学に着いているはずの時間帯だ。


 ふと見ると、ウィリアムが廊下のほうから顔を出していた。ジョエルと視線が合うと、また引っ込んだ。


 一瞬見えた頬が腫れていた。された仕打ちに比べればそれくらい当然だと思う半面、どこか心が痛む。


 食べ終えて、顔を洗いに彼のほうへ向かう。対面すると、彼はぎくりとして動けないようだった。そんな態度になるのなら、最初からやらなければいいのに。


 逃げていくすれ違いざま、


「ちゃんと食えよ」


 視線も合わせず言われた。呆れて物も言えない。謝罪の一つでもするのかと思いきや、そんなことを言われては。

 顔を洗ったが、それだけでは足りない気がする。全身のどこもかしこもがベタついている錯覚。ウィリアムが昨日引き摺ってくれたので、ある程度の汚れは落ちているのだろうが。

 シャワーが温まるのを待ち、全身で浴びた。立っているだけで具合が悪くなり、たびたび壁に寄り掛かる。傷がついた部分に慎重に石鹸を擦りつけた。いつのまにか力が入りすぎて、全身が真っ赤になっていた。何度も放心してしまい、浴室から出たのは二時間以上経ってからだった。


 ヘンリクの助手に欠席の連絡を入れ、再びベッドに横になった。うつ伏せで。薬を塗ろうかと思ったが、一旦寝てしまうと起き上がることすら億劫だ。今日は回復に専念したほうが良いことは分かっているが、何もしないというのも落ち着かない。枕を支えにして読書をすることにした。


 息苦しくなって体を起こすと、ウィリアムと視線が合った。扉からこちらを覗いていたようだ。いつからそこにいたのだろう。

 だが彼はすぐに引っ込んでしまった。

 ジョエルは熱い息をふっと漏らすと、視線をページに戻す。


「な……じょ、ジョエル、なぁ」


 返事として、視線だけを合わせる。


「な、何か食べる?」


 そう言われて、日差しが先ほどより明るいことに気が付いた。もう昼らしい。


「そうですね」

「何食べる? 買ってくるけど」


 とんでもないことを言いだす。彼に任せたら何を買ってくるかわからない。時間がかかってしまうかもしれない。


「冷蔵庫にパンがありますから、それを」

「あ、う……うん。どれくらいあっためたらいい?」

「そのままでいいです」

「え、冷たいよ」

「はい、それで、いいですから」


 気圧されたように、ウィリアムは大人しく下りた。


 程なくして、パンとオレンジジュースのコップを持ってくる。その間に体を起こしていたジョエルは机を指さした。


「そこへ置いてください」


「うん」とウィリアムは言われたとおりにする。

 パンを手に取るが、彼はまだそこにいた。


「何ですか?」

「何でも……ない」


 逃げるように下りて行った。


 食べ終えたジョエルは、しばらくして階段を上ってくる足音で目が覚めた。いつの間にか寝てしまっていたらしい。


「あ……ジョエル、あの……学校から連絡があった」

「いつですか」

「ジョエルが寝てる時……でも、何て言ってたか、忘れた」


 メモを取るという基本的なこともできないのか。

 ジョエルは眼球が痛くなるほど、弟から視線を逸らす。


「誰からですか」

「男の人かな。おじさんっぽい」

「わかりました。ご報告ありがとうございます」


 ヘンリクに折り返す。体調に気を遣って、試験の申し込みの詳細を訊かれた。


 電話を切るとまだウィリアムが見ていた。


「大丈夫だった……?」

「ええ」


 ホッとしたように見える。

 シャワーを浴びるかと訊かれ、そんな時間かと時計を見た。「はい」と、浴室へ向かう。水がすぐに温まったので脱いでいると、薬を忘れたことに気が付く。


 ウィリアムがまだこちらを見ていた。何なのだろう。


「薬を持ってきていただけますか?」


 話しかけると、ビクッと首をすくめつつ、


「薬?」

「救急箱に入ってますよ」

「わかった!」


 浴室に入ると、箱を落とす音が聞こえた。「うわあ」とウィリアムの悲鳴。また、ガムテープで固めないといけないだろうか。


 ――「ジョエル! 持ってきた!」

「洗濯機の……いえ、床に置いておいてください」

 ――「うん」


 まだ、待っている気配がした。


「もう大丈夫ですよ」


 小さく、「わかった」と聞こえた。



 シャワーを浴び終えて部屋へ戻ろうと階段を踏むと、ウィリアムが下りてきた。目が合うと彼は固まったが、ジョエルは横をすり抜ける。


 部屋へ戻ると、しわくちゃだったベッドがきれいに整えられていた。ウィリアムがメイクしてくれたらしい。苛立ちと温かさのようなものが自分を満たす。彼なりに、昨夜のことは悪かったと考えているらしい。


 肛門に薬を塗り背中にはハイドロを貼ると、電気を消して横になる。眠くはなかったが、夕食を食べる気もない。


 目を閉じていると、彼の静かな足音が上ってくる。ジョエルが寝ているように配慮をしている足取り。部屋の前で止まる。だが、再び一階へ静かに下りるのが聞こえた。





 翌朝、ジョエルは朝食を断り水を求めた。数日間休みを取ることにしたとは言え、もちろん勉強で手は抜けない。

 ドーナツ型のクッションを敷いて机に向かう。問題を解いていけば多少の現実逃避になるかと思いきや、だんだんと下半身がむずむずしてきた。不快感が喉元まで一気にせり上がる。


 ジョエルは口元を押さえて立ち上がった。階段の途中で限界を迎えその場で座り込み、シャツの裾を鼻に押し当てる。咽喉からぬるい液体が逆流してくる。シャツに胃液がしみ込んでいく。吐いている最中にも、頭は冷静に今日の予定を考えていた。


 この分では昼食も無理かもしれない。ウィリアムに伝えるべきかと思ったが、いないようだ。


 吐いたせいで酸欠になりかけながら、洗面所によろよろ向かう。手から水をこぼしてしまいながら口をゆすいで鏡を見ると、顔色は青白く唇も紫だ。その場に座り込んだ。




「ジョエル?」


 肩を揺さぶられる感覚で覚醒する。気を失っていたらしい。ウィリアムの声がする。


「どうしたんだよ、救急車呼ぼうか」

「結構です……」


 ジョエルは唇を噛んだ。


「何で……具合悪いんだよな。なあ、熱あるんじゃ?」


 額に触れようと視界を覆ってきた手を、ジョエルは反射的に払い退けた。汚れた服を籠に入れ、ウィリアムを見ずに階段をさっさと駆け上がる。自室のドアを開けると、ふわりと料理の温かい匂いがする。後ろからウィリアムが上がってきた。


「えっと、その、サンドイッチ買ったんだけど」


 机の上にはパン屋のロゴが入った紙袋があった。だが、今は気分がすぐれない。


「いりません」

「えっ……でも、朝ご飯食べなかったし、だから」

「結構です」

「でも、食べないと」

「食欲がないんです」

「あ……うん」


 ウィリアムはそれ以上何も言わなくなった。黙々と片付けをして、そそくさと出て行った。


 ジョエルは再びベッドに潜り込む。自分のためだけに用意された食べ物を見るのは気分が悪い。弟の顔を見るたびに暴言を吐きそうになるのを抑え込んでいた。



 午後になっても、体調は良くならなかった。赤い薄陽が差し込む頃、ウィリアムがノックをした。


「ジョエル……あの、薬とか、あと……お腹空かない?」

「いいえ」

「そう……じゃあ、置いとく」


 彼が部屋から出て行くと、ジョエルは起き上がった。机には昼のサンドイッチがのっている。隣にオレンジジュースも薬もあった。


 ベッドを出ると、リビングへ行く。

 ソファに寝転がると、ウィリアムが隣に立った。


「調子、良くなった?」


 首を横に振ると、彼は服の裾を握ったり離したり、引き攣った笑みを浮かべた。


「何かしてほしいことあったら……」


 ジョエルは眉根を寄せた。

 ウィリアムの目が潤む。


「ごめん、なんでもな」

「ありますよ」


 ジョエルはため息をつくと、棚を指さした。


「薬を塗ってくれませんか」


 ウィリアムはそっと救急箱を取り出すと、うつ伏せになったジョエルの横にしゃがみ込む。腫れ上がった患部に軟膏をたっぷりと塗りつけ、ハイドロで固定した。


「ありがとうございます」


 彼は何も言わず、こちらの顔色を窺っていた。

 ジョエルは立ち上がり、またベッドに戻った。背を向けていると。彼が顔色を窺いつつ、ベッドの縁に沿うのがわかる。


「まだ痛む?」

「一人にしてください」


 振り返らずに言った。

 唾を飲み込んだウィリアムはしばらく迷っていたが、ジョエルは枕元のライトをつけて本を読み始めると、やがて立ち上がった。


「あの、ジョエル」


 遠慮がちに声をかけられたが、返事はしない。


「おやすみ……」


 弟が部屋を出て行くと、ジョエルは目を閉じて、寝ることにした。

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