第22話 「ジョエル〜! 待たせたわね」

 弟が売春に手を出しているのかもしれない。

 電車に揺られながら、ジョエルは窓を見ていた。白い空に灰色の雲が覆っている。ところどころにクリスマスの飾りが瞬く街並みや、暗く沈み込んだ山々が横切ったが、ジョエルの焦点はどこにも定まっていない。

 胸の中を何かが圧迫しているようで、息がおぼつかない。

 確証はないが、その疑惑はほとんど当たっているようだ。あれほどバイトは辞めろと言ったのに、よりにもよって……。


 ジョエルはどんなに金に困っていても、それだけは手を出さなかった。知り合いに知られる可能性が高く、なおかつ知られたらトラブルは避けられない職だからだ。


 自分の監視が足りなかった。弟を不満にさせてしまった。その結果がこれだ。


 膝の上に投げ出していた腕を引き寄せて組む。指先を食い込ませてしまう。

 彼の頼りない体の抱き心地を思い出す。あの体にどんなことをされたのか想像して、かぶりを振った。考えたくない。夢だったらよかった。


 しかし、先ほどの体験が妄想を助長する。頭には、不良とまぐわう弟の姿が浮かぶ。自分もそれなりに経験したことだから、細かいところまでありありと想像が巡る。仰け反る様子が、どういうわけか破傷風で苦しんだ幼き弟の姿と重なって、ジョエルはトイレに駆け込んだ。



 ■



 それからジョエルは電車を二回乗り継ぎ、最終駅へ下りた。そこから徒歩十五分、だだっぴろく広がる朽ち葉色の草原の中に、ぽつりと佇む白い建物。そこが兄弟を十八歳になるまで見守ってくれた児童養護施設『ラスト』だ。


 ジョエルは深く息を吸い込み、肺の隅々まで空気を行き渡らせた。冷たい空気なのに、どこか懐かしく温かい。


 コンクリートで塗装された車道の脇を通り、サクサクと草を踏んでいく。冬の今は茶色だが夏には生き生きとした緑色になるのだ。


 白く塗られた門をくぐり、石段を踏んでいく。病院の入り口を彷彿とさせる重いガラス戸を開くと、ジョエルの体は暖房のぬくもりに包まれた。そっと息を吐く。

 受付の年配女性がすぐに気付いてくれた。待合室に案内されながら、子どもたちともすれ違う。月一の頻度で訪れるジョエルの顔を覚えているようで元気に挨拶してくれる。中に入ると、女性はカフェオレを用意してくれて、ある人を呼びに行った。

 湯気の上がるカフェオレを飲むと、ミルクがよく香った。うっかり飲み込むと喉が焼けるようで、体がじんわりと発汗した。


 数分後、その人物が入室してきて、ジョエルは立ち上がった。


「ジョエル〜! 待たせたわね」

「こんにちは。お久しぶりです、グロリア」


 彼女は兄弟を担当して育ててくれた施設の職員だ。ハグとキスをして、ジョエルはまた座った。


 バッグからお土産の包みを取り出す。


「あら〜お土産ね。ありがとう! 今度はどこへ行ったの?」

「ヨーロッパです。バンジーをしてきました」

「バンジー! すごいわね、私は絶対無理だわ~」

「とてもよかったですよ」


 旅の思い出をグロリアに語り聞かせる。ジョエルの中での恒例行事だ。彼女も熱心に耳を傾けてくれるので、ジョエルは饒舌になった。もし母親が居るとしたら彼女のような女性がいいと思う。家族で旅行に行くこともあったかもしれない。考えてもしょうがない『IF』がふとした瞬間に脳裏をよぎる。


 話していると、一杯目のカフェオレが切れて、彼女が二杯目を用意してくれた。


「それで……ウィルは、最近どんな様子?」


 この質問を受けるたびに、ジョエルの心臓は重くなる。いや、いつもここへ来る予定を立てるたびに、この質問をされることを考えてしまう。会いに来るのが楽しみでありながら、ネックだった。


「どうやら、大学にも行かず不良と遊んでいるようです」

「あら……」

「最近、何故か家のことをしてくるようになったのですけれど、かえって仕事が増えてしまうのです」


 洗剤の分量を間違えたり、料理を焦がしたり。ウィリアムのことで良い報告ができた回数は少ない。


 そして今日は、なおさら深刻だ。売春疑惑。さすがに口には出さない。

 だが、彼女の顔はどことなく険しい。もしかしたら、ジョエルの負担が伝わっているのかもしれない。


「ウィルとは話し合ったの?」


 長らく話を聞いてくれた後、彼女は最初にそう訊いてきた。


「それが……、あまり時間がなくて」

「嘘おっしゃい」


 ぴしゃりと彼女が言った。ジョエルは思わず目を丸くし、口をつぐむ。


「数マイル離れたここへお土産を持ってくる時間はあるのに、いつも一緒の弟と話す時間は無いっていうの?」

「っ」

「時間が無いんじゃないでしょう? あなたが話したくないっていう我儘よ、ジョエル・ラスト」


 フルネームを言われ、言葉を失う。心のどこかでわかっていたことを、信頼している人に突き付けられた。壁が崩れて、自分の内面が丸裸にされたような気分だ。



 ジョエル・ラスト。ラストは施設からとった苗字。『ジョエル』と『ウィリアム』――その名前は、自分たちの産み親の唯一の愛情がわかる手段だった。自分たちは、籠に入れられ施設の前に置かれた。赤ん坊の首に下げられたネームプレートに、年齢とともに書かれていたらしい。当時、ジョエルは一才、ウィリアムはまだ〇才だった。


 ――というのは、過去にグロリアから聞かされた話。耳が遠のく。


 ジョエルは放心しそうになるが、びゅうと風が吹いて、窓がガタガタと音を立てた。ジョエルは、唾を飲み込んで引き戻した。


「ごめんなさい……」

「いいのよ。そのかわり、今度こそしっかり話し合いなさい」

「はい。そうします」


 返事をしながら、ジョエルはカップを置こうとして指から滑らせ、まだ熱いカフェオレをこぼした。





「今日も、ありがとうございました」


玄関で別れの挨拶をする。足元に冷たい空気の渦が巻く。ガラス戸一枚を隔てて、外と繋がっているのだ。


「先ほどは申し訳ございません」

「気にしないでジョエル。今日は来てくれてありがとう」

「えっと、お土産のチョコレート、すぐに持ってこれなくてすみませんでした。変質しているかもしれません」

「あら、大丈夫よ。皆と分け合うからすぐに無くなってしまうわ」


 ジョエルは失笑する。彼女もつられて、二人で笑いあった。


「今度は二人でいらっしゃい」


 その言葉に、ジョエルは遅れて笑みを浮かべると、扉に手をかけた。


 帰り道はとても寒かった。室内の温度に慣れていたのもあるだろうが、グロリアの言葉がジョエルの心で渦巻いていた。駅へ続く街道を歩いていると、足先がすっかり冷たくなっていく。どこかでくしゃみと「失礼」が聞こえた。皆凍えているらしい。

 店を眺める。この間まではハロウィングッズが並んでいたというのに、すっかりクリスマス一色へ変貌している。


 もうそんな時期か、とジョエルは思った。思ったより季節が過ぎるのは早い。クリスマスが来て、新年を迎え、そして春が来る。


 ――来年になっても、ウィリアムと不仲でいるつもりか?


 胸の中で、誰かが問いかけてきた。そんなつもりはない。


 ――なら、どうする?


 それは……――


「ウィルと、話し合いましょうか」


 喧騒の中で、ジョエルはつぶやいた。家に帰ったら、すぐにでも彼を捕まえよう。嫌がっても、引きずっていく覚悟だ。彼がこれ以上道を踏み外さないためにも、自分のためにも。


 今年こそ、ウィリアムと写真を撮るためにも。



 ■



 すっかり暗くなるのも早くなった。いつもは遠くから自宅が見えるのに、今は薄暗く沈み込んでいる。


 その時、かすかに煙草の匂いがした。家へ近づくにつれて、濃くなってくる。


 家の光が見えて、ジョエルはさらに違和感を覚える。いつもより、明るい。いったいどうしたのだろうかと、ゆっくり扉に手をかけた。


 複数人の笑い声がする。テレビの音声だ。ウィリアムが見ているのだろうか。


「ただいま」


 意識して、いささか大きく声を出す。その後息を吸うと、外でも香っていた煙草と同じ匂いがした。何人か、いる気配がする。


 リビングへ行くと、ウィリアムとあの不良どもがいた。


「あ、どうも、お兄さんですかぁ? お邪魔してまーす!」


 整った顔立ちの男が、明るくそう挨拶してくる。どうも、とこちらも返し、彼らを見まわした。

 そばかすの男が、挨拶もせずに鋭い視線を向けている。この男は見覚えがある、大学にいた、不良だ。

 もう一人、「っす」と聞こえるか聞こえないかの挨拶をする窓際の大男。煙草の匂いの正体は彼らしい。彼の着ている紺色のパーカーが、月光を吸い込んでいる。


 橋で見かけた光景がよみがえった。背の高い男と、一台の自転車を乗り回していた二人。


 ウィリアムの表情を見た。部屋はいつもより明るくて、はっきりと見えているはずなのに、何故だか心中を読み取れる気がしなかった。


 ジョエルはそれらを瞬時に見ると、彼らに笑みを向ける。


「こんばんは。いつもウィルがお世話になっています」

「どうもー」と顔が良い男。

「ウィル、彼らに飲み物は出しましたか?」

「出したよ」


 ウィリアムはどことなく、いつもとは違う気だるげな様子だ。自分を見ていないのは確かだが、テレビも見ていないようだ。


「そうですか。どうぞ、私を気にせず、楽しんでくださいね」


 それだけ言って、部屋に引き籠ることにした。


 ――「ウィルのお兄さんいつも敬語なの?」

 ――「うん」

 ――「何か冷たいね~」


 階下の会話が聞こえる。それに対してウィリアムが何と返事をしたのかは聞こえなかった。


 扉を閉めて、深呼吸をする。歓迎されていない雰囲気が、ひしひしとジョエルの胸を凍りつかせてきたのだ。本当はウィリアムと話をしたいのだが、彼らを追い出すわけにはいかない。話し合う時は、彼らのことも話題にしよう。


 ジョエルは気を取り直して机に向かったが、当然のように勉強に手がつかない。



 ■



 少しすると、コンコンと扉がノックされた。


 ――「お兄さん、ちょっといいですか」


 扉越しの声がして、ジョエルは椅子から腰を持ち上げた。


「はい、どう……」


 扉を開けると、目に入ったのはそばかすの男とウィリアムだった。男は、ウィリアムに銃口を突き付けている。そのせいか、弟は両手を上げていた。


 男は言った。


「お兄さん、悪いけど一緒に来てくんないかな」


 そう言いながら、銃口をさらに押しつける。ウィリアムが、苦しそうな顔をする。

 何が起こったのか理解できなかった。頭が追い付かない。ただ、自分が選択を間違えたことだけはわかった。


「……わかりました」


 答えながらも、男の目をじっと見つめ続ける。ここで動揺を見せてはいけない。


「じゃあ部屋出て。前を歩けよ」


 ジョエルは二人の前へ行き、階段を下り、リビングへ向かう。その間も銃口を向けられていて、生きた心地がしない。


 リビングに入ると、残りの二人がいた。

 ジョエルは大男に距離を詰められ、床へ引き倒された。ベリッと何かの音が聞こえた。両手首を取られて、袖が捲り上げられる。ぐるぐると巻き付く感触に、それがガムテープだと気付く。押さえつけられながら二人がかりで何重にも巻かれて、両手はすっかり固められてしまった。


 ウィリアムを探すと、目の前のソファに男と座っていた。銃は突き付けられていない。彼が無事なことにほっとしたが、すぐに自分の置かれている状況を思い出した。ジョエルは何とか起き上がろうとしたが、


「暴れんな」


 紺色の布地が見えて腹に衝撃が走った。景色がぶれる、思わず体を丸める。じわじわと痛みが全身を蝕んでいく。喉からカフェオレの臭いが込み上げてきた。「えっぐぅ」と頭上から薄ら笑いが聞こえるが、体がうまく動かない。

 頭皮に痛みが走った。髪を掴まれたらしく、上を向かされた。緑色の瞳と目が合う。そばかすの男だ。馬鹿にしたように鼻で笑っている。「アレク」と男は言って、髪を離した。ガクンと下を向く。無意識に体勢を立て直そうとする体が、どうにか膝立ちになってくれる。しかしそこで、また髪を掴まれた。目の前にはそばかすの男がいて、彼は両手をズボンにかけているので、違うのだろう。顎を掴んでくる指の感触……大男の手だ。


 そばかすの男はズボンを脱いで、性器を露出した。どうしてそんなことをしているのか、頭が追い付かない。


「待ってってオスカー。ウィ〜ル〜……ほっ、本当にいいんだね? ね?」


 顔が良い男の声だ。ウィリアムは「いいから」とぶっきらぼうに返事する。顎の関節に指を押し込まれ、痛みで思わず口を開いた。

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