第19話 「ふふっ」※

 兄は自分の部屋にこもっているようだ。

 ウィリアムは溜まり場でも浴びたシャワーを家でももう一度浴びた。下着、スウェットズボンを穿きながら鏡を見ると、こめかみに黄色いペンキが残っていた。脱いだ時に付いたものが、落ちきれなかったようだ。


「ふふっ」


 四人でべちゃべちゃになった楽しさがよみがえる。


「ウィル」


 急に後ろから声が聞こえて、ヒッと息をのむ。兄がバスケットからパーカーを取り出していた。一応溜まり場で洗ったのだが、当然完全に落ちるわけがなく、べっとりとペンキに染まっている。


「これは何ですか?」


 ジョエルの指に、ペンキが滲んだ。


「な、何でもないから……」

「何でもなくないでしょう? これは元は白色だったはずですが」

「い、い、良いだろ別にっ、染めただけだから」


 ジョエルは深刻そうな顔になる。彼の視線が下に落ちた。見ると、自分のすねに痣がある。オスカーに蹴られた時のものだ。


「あなた……もしかしていじめられてい――」

「はっ、はあっ? んなわけねえだろ!」


 とんでもないことを言うので、反射的に否定した。


「でもこんなにされて、痣までできて」

「違う、俺が悪いんだ。それと服は、自分でやったんだって!」

「ああ、言えないのですか。脅されているとか、あるいは庇っているのですか。優しいのですね、ウィル」

「俺がやったって言ってんじゃん!」


 どうして信じてくれないんだ。胸がギリギリと痛い。

 ジョエルは苦々しい顔をした。黙り込んで、何かを考えているようだ。

 ウィリアムも、何となく動けずにいた。自分にとって嫌な言葉が返ってくるとわかっていたのに。


 しばらくすると、ジョエルが口を開いた。


「その輩と付き合うのはやめなさい」









「──────────────――なんでっ!」





 景色が一瞬白んだかと思うと、風船が弾けるような大声が出た。喉がジリッと熱くなる。

 ジョエルもその声量にびっくりしたらしく、固まって「何でって……」と言いかけたが、ウィリアムはパーカーをひったくりその場で着ると家を飛び出していた。




 いつ出たのかわからない涙で視界がぼやけていく。辺りは暗くなり始めていた。詰まった鼻に化学的な異臭が流れ込んだ。





 再び溜まり場に戻ってくると、扉越しに三人の話し声が聞こえてきた。

 ウィリアムは扉の前で立ち尽くす。入っていいのか、躊躇する。彼らに会いたくてたまらないはずなのに、手をドアノブに掛けられない。ウィリアムは扉の前に座り込み、凍えながら唇を引き結んだ。


 『どうして友達を否定する?』とか『なんで信じてくれない?』とかいった苦しさが浮かんできて思考を埋めていく。


 考えたくない。考えたって無駄なことだから。


 そうやっていつも逃げようとする自分がいる。けれど、今日という日はそれが許せなかった。


 頭痛の気配がする。ウィリアムは先制して自分の頭を殴った。鈍い衝撃と共に視界が揺れたが構わず続ける。するといつしか狙いが外れて自分の頬を打ってしまった。口の中に血の味が広がる。皮膚がはがれたようにジンジンする。ウィリアムの頭に、不意によみがえる記憶があった。



────────



 それは、彼がまだ施設にいた頃の話だ。ウィリアムはジョエルと一緒に職員室へ呼び出された。そこで聞かされたのは、ジョエルの養子縁組の話だった。


「養子……ですか?」

「ええ」


 ウィリアムの声は震えていたが、先生は特に気に留めず続けた。


「ジョエルを引き取ろうという話が出ているの。それで、あなたにも話をと思ったんだけれど」


 この人は何を言っているんだろう。ウィリアムはその言葉を反芻していた。

 先生の隣には、初めて見る男性がいた。いや、よく思い出せば、以前施設に訪れていた気がする。


「君は、私と同じ名字になりたいと思ったことはないかね?」

「なりたいです!」


 大きな声で返事したのはジョエルだった。この男とずいぶん仲良く話していたのを覚えている。


「そうでしょうそうでしょう。やっぱりあなたも男の子ですものねぇ」


 先生はジョエルの肩をポンッと叩いて嬉しそうに言った。


「じゃあ決まりだね」


 男はそう言うと手を差し出した。


「これからよろしく頼むよ、ジョエル」


 はいと元気に握り返すジョエルを見て、ウィリアムは唇を噛んでいた。俺だって同じ姓になりたかった。家族になれたら良かったと思う。全てに裏切られた気がした。ウィリアムの心は荒れ狂っていた。今までずっと一緒に暮らしてきて、急に引き離されるなんて納得できない。

 しかし、口に出して言えるはずもなく黙っているしかなかった。


「ジョエルはまだ六歳だけど、真面目だし、性格も良い。弟君のこともよく面倒を見てくれてる。良い家族になれると思うんだ。だからもちろん、君が望んだらいつでも弟に会いに行っていいからね」


 するとジョエルの顔から光が失われる。不安げに瞳が揺らいでいた。


「ウィルは一緒じゃないんですか?」

「えっ、ああ……」


 男は言い淀むと、


「彼はまだ小さいから引き取れないんだよ」

「そんな……ぼくの弟なのに……」


 彼は俯いてポロリと涙を流す。先生が屈んで言った。


「まあまあ、すぐ会えるようになるから。それまでお兄ちゃんとしてしっかり支えてあげなさい」

「いやだよぉ……」


 声を上げて泣き始める彼に、二人は慌てて慰めようとしていた。彼はその手を払いのけて抱き着いてきた。その衝撃を受け止めた途端、我慢して押し込めていた型が壊れて崩れて、一気にあふれ出して一緒に抱き合ってわんわんと泣いていた。



────────



 その時の光景を思い出しただけで胸が締め付けられるようだ。


 その後は、あまりにもジョエルが拒絶したので、結局養子縁組は無しになった。ウィリアム共に引き取ってくれる親は現れず、ついに数年前まで施設育ちとなった。ウィリアムは嬉しかった半面、自分がジョエルの幸せの足枷になっていることを十分理解していた。


 ――ドンッ


 扉が開いて、背中が痛む。現実に引き戻される。


「わ! ウィルっ、帰ったんじゃなかったの?」

「あ? いんのか」


 邪魔になっているのはわかっているが、体が動いてくれない。扉の隙間から何とか脱出したサムが、ウィリアムの前に座り込んだ。


「どうしたの……怪我してんじゃん!」


 頬に触れられてウィリアムは顔を伏せた。中にいるままの二人も、異様な空気を感じ取ったのか茶化してこない。サムの手が肩に触れた。


「お兄さんに殴られたの?」

「はっ?」


 珍しくアレクが声を上げている。


「ちが、っ……違う、から……」


 言いたいことはあったが、急に嗚咽が込み上げてきて、我慢しようとすると声が詰まってしまう。熱い涙がまたあふれてきて冷えた頬に流れる。


「ああっ、ウィルどうしたの? ゆっくりでいいよ、言ってごらん」

「え、でたい」

「え?」

「家、出たい……」


 言った途端、何かが決壊したように涙と嗚咽が止まらなくなった。止めようとしても、まるで助けを求めているかのように這い出していく。


 家を出たい。ジョエルにこれ以上負担をかけたくないし、喧嘩して仲を悪化させたくない。ジョエルに嫌われたくない。家を出たほうが良い。でも離れたくないと訴える自分もいる。すべてがぐちゃぐちゃになって責め立てて、ウィリアムを苦しめている。


 頭上で、三人が不安定に言葉を交わすのがわかった。サムに抱き起され、「中に入ろ。ね?」と手を引かれた。



 まだペンキは乾ききっておらず、家具が中心に寄せてあった。ペンキまみれになって遊んだ時のシートは取り換えられて、きれいになっている。名残があるのは飛沫が乾いたラジオだけで、アレクがスイッチを押して止めた。


 嗚咽で酷い吃音になりながらも、兄に対する不満と自分への怒りをつらつらと吐き出す。オスカーが何か反論しているが、サムが制して先を促してくれた。


 途中からお酒が入り、意識がふわふわととろけていく。舌がピリピリする。もともとそんなに飲む生活はしていなかった。勧められるがままぐびぐび飲まされる。何か硬いものが喉に引っかかった気がして、慌てて酒で流し込む。空きっ腹へアルコールがダイレクトに染み渡り、ウィリアムは酔いつぶれてしまう。ほか三人もほろ酔いだ。


「ウィル、出ていくにしろ、金が必要だろ? もっと稼がせてやるよ」


 もっと稼ぐって、どういう意味?


 そう訊きたかったが、口がうまく動かず呂律も回らない。なんだか具合が悪い。ソファで横になりたいのに、手も足も自分で動かせない。


 アレク、とオスカーが呼び掛けると、体をグイっと起こされる。熱い腕の感触から、羽交い締めにされていることは分かる。なぜか、その手は力が抜けていて本気で押さえていない。


 起こされたことによって、だんだんと視界がくっきりしてくる。サムとオスカーが言い合いをしているようだ。すると、サムがオスカーとアレクの顔を交互に見て、最後にこちらを見てきて、ガクッと視線と肩を落とした。

 近づいてきたかと思うと、ズボンを脱がされた。尻に生あたたかいビニールシートの感触がして、下着も持っていかれたとわかった。

 脚の間に割って入ってきて、何をするんだろう、とウィリアムはぼんやり目玉を動かし、手をぱたぱたさせる。

「慣らさないとさすがに可哀想だからさ、ね? 俺が言い出したんじゃないよ、だってアレクもいるから……」

 そんなことを言いながら、紫色のパウチを口にくわえて、封を切った。ピンク色のとろりとしたものが出てくる。

「お前だって、やりたくてたまらねぇくせに」

 オスカーがニヤニヤしているらしい。ベルトを外す音が聞こえる。

「黙れよ」

 サムが低い声で言う。アレクはずっと黙っている。

 靴も足先から抜け落ち、ビニールの上でチャリンと響いた。




 痛みは絶対にあったはずなのだけれど、全部が夢のように曖昧だった。




 気が付くと、トイレに顔を突っ込んで酒を吐いていた。手がせわしなく便器を撫でている。舌先がビリビリする。冷たいタイルが膝の皮膚に食い込んでいく。背中を誰かが擦っている。


「ウィル……」


 サムの声がするのでサムなのだろう。彼が頭を支えてくれていないと自分は溺死してしまうだろう。膝立ちしていたが、急にぬるっと滑ってうまく立てない。足の間を伝う粘液のせいだ。酒のせいか、それとも大声を出したのか、喉がヒリヒリした。


「いくらエリートな兄貴がいても、弟がこんなことしてるんだって知られれば、ざまぁねえな」


 ほらよ、と札数枚を叩きつけてくる。拾おうとしたのに背筋がなよっとしたままで床にだらけた。


「ウィ~ルぅ~」


 サムがくすんくすんと鼻を鳴らしてこめかみにキスしてくる。ぱたぱたと動く手で、タイルにある札を一枚一枚握りしめた。目玉が勝手にぎょろぎょろ動いて痛い。体は奇行しているけれど、頭はきちんと回っている。ジョエルへの憎しみ、愛しさ、哀れみが同時に湧き上がってぐちゃぐちゃだった。どうして俺より先に行ってしまう、どうして俺を捨てない、どうして休もうとしない、どうして長袖を着なくちゃいけない、どうしてそんなにかっこいいことができる、どうしてそんなに頑張るのか。体の不快感や背後の奴らの視線より、ジョエルのことばかりが頭に浮かんだ。それはウィリアムが無意識に兄へ助けを求めていたのかもしれない。


 オスカーが唸って自分のほうを指さすと、アレクの大きな影がやってきて腋と膝の下に手を差し込まれて持ち上げられてソファの革が耳元でギュッと鳴った。いろいろ考えていたのに、眩しさでどっかに行ってしまう。オスカーが難しい単語で喋っている。手術台に寝かされている気分。家の暗がりが恋しくなる。ジョエルに温かく迎えてほしい。反面、彼だけが何も汚れていないのは不公平な気がした。やっぱり、頭もおかしくなったのかもしれない。でも、すごく魅力的な案だと思えた。

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