第17話 「あー……音立てんなよウィル、萎えっから」※
ウィリアムが目を覚ますと、部屋は真っ暗なのがわかる。乾いた涙で開かない目を擦り、壁伝いに部屋から出る。
ジョエルの部屋のドアの下から光が漏れている。忍び歩いてリビングへ出た。時計を見て、二時間ほど経ったことを確認する。キッチンにはきれいになったフライパンが立てかけられていて、ウィリアムの胸を締め付けた。
――『私の仕事をこれ以上増やすな、と言ったんです』
怒りをこらえた兄を思い出して、体がカチカチと歯が鳴る。ジョエルと顔を合わせたくない。ウィリアムはそっと玄関から夜の街へ繰り出した。
■
溜まり場には、オスカーがいた。スマホから女の声が聞こえたので、アダルトサイトでも開いていたらしい。ウィリアムと目が合うと舌打ちしたが、来い、と視線をよこした。
ウィリアムの仕事は前払い制だ。ポケットにねじ込む。
「あー……音立てんなよウィル、萎えっから」
難しいことを言うな、とウィリアムは思いながらマスクの下に指をかけた。
一仕事を終え、うがいをした後は、オスカーと隣り合って座る気にはなれず、壁に背を預けていた。ラジオからは、流行りの早口の曲がうるさく流れている。ウィリアムが仕事をしている最中、オスカーが頭を引きはがしてセレクトしたのだ。
「帰んねぇの?」
しばらくしてからのオスカーの問いかけにウィリアムは無言で答えた。
「兄貴と喧嘩でもしたのか」
図星だった。目が合うと、オスカーにもそのことが伝わったらしく、鼻で笑われた。
「それで家を飛び出したって? ガキかよ」
「うるせぇ」
「耳が痛いんだろ? お前のそういう返事の時はそうだ」
オスカーはその場で煙草を吸い始めた。ウィリアムはマスクを押さえた。部屋に煙が充満してくる。扉を開けるために立ち上がるか、迷った。
「だいたいな、怒られてるうちが花だぜ? 俺なーんにも言われねえもん」
ウィリアムは顔を上げる。オスカーの表情は、せいせいしているように見える。けど、少し悲しげな影が窺えるようにウィリアムには見えた。
にわかに、鼓動が早まっていく。
ジョエルから、何も言われなくなる日が来る?
それはつまり、兄に見放されるということ?
息が詰まる感覚がして、口元の手をどける。吸い込んでしまった煙が肺に貼り付いて、噎せそうになる。
ジョエルに見放されたら、自分はどうして生きていけばいい? 金を稼ぐ手段はあるけど、本当はこんなことしたくない。自分で稼げるようになった分、ちょっとでも兄の負担を減らしたくて、家事をするようになったけど、何もかも空回りしている。いつもそばで何でもしてくれた兄がいなくなったら、一人ぼっちになってしまったら。
曲も相まって、頭と胸が掻き回されているように苦しくなって、ウィリアムは立ち上がった。オスカーが煙の向こうから見ていた、どこか冷めた表情で。どことなく、兄の目にそっくりで、ウィリアムは溜まり場を飛び出した。
走っていると、鍵が足の甲を叩いているような気がした。重くて、痛い。
リビングの窓から明かりが漏れていた。駆け込むと、ジョエルは驚いたように固まった。ミトンをつけて、レンジからラザニアを取り出している。
「ごめんなさい、っ……」
震えながら、ウィリアムは声を絞り出した。
沈黙が訪れた。ジョエルはきょとんとして、ラザニアを食卓に置いた。その一挙手一投足が、ウィリアムの心臓を締め付けた。ジョエルはミトンを取り外すと、こう言った。
「何に対しての謝罪ですか?」
頭が真っ白になる。予想外の返答だった。
何に対しての、それはジョエルを怒らせてしまったことへの謝罪だ。
しかし、それだけではなかった。今までジョエルにはかなりの負担を強いてしまった。たった一言の謝罪で、すべてが赦されるかというと、そうは思えない。ともすれば、あまりにも自分がわがままなように思えた。咄嗟に何と答えればいいのかわからない。
ウィリアムの口からは、「あの」とか「その」とかとりとめのない言葉が洩れる。しどろもどろになってしまう。
ジョエルは、返事を待つようにゆっくりと近づくと、
「中身のない謝罪に意味はありませんよ」
ビリビリと全身がしびれわたる。血の気が引くような、逆に内側から燃え上がるような。教師を目指している彼らしい言葉に、落ち着けなくて呼吸を忘れる。
「ウィル、どうしたのですか?」
なだめるような、優しい声が、ウィリアムの胸にグサリと杭を打ち込む。ジョエルの表情は怒っていない。悪事を働いた子どもを叱る大人のようだ。そんな目で見る兄の姿に嫌悪感が湧いた。だけど同時に、ものすごく悲しくなった。嗚咽が漏れそうになって、ウィリアムは、いつの間にかまた逃げ出していた。
曇り空の外は、すっかり暗くなっている。街の明かりが、空の暗さを一層引き立てているようだ。寒くなるかと思ったが、空の雲が湿気を含んでいて生ぬるい。それでも、心は冷え冷えとしていた。
家も溜まり場も飛び出してしまった手前、戻りづらい。謝りに行ったのにまた逃げ出してしまう弱い自分に生きている意味があるのだろうか。
するとクラクションが鳴らされた。信号が赤になっていることに気付かなかった。駆け足で通り抜ける。車の中から向けられる視線が嫌で、フードを被りこんだ。
コンビニが見え、ウィリアムは誘われるように自動ドアを潜り抜ける。冷房が利いていてサッと鳥肌が立つ。
――悲しい時は、温かいものを飲めばいいのよ。
施設の職員が、そう言っていたのを思い出した。幸い、金は稼いだばかりだ。
早速カフェオレを買ったはいいものの、コーヒーメーカーの前で立ちすくんでしまう。どうやって作ればいいのだろう。ボタンを押す順番は、マークで示されているが、それでも間違って押してしまうかもしれない。床には雫が乾いた跡があるし、真上の蛍光灯はチカチカしている。店員に聞くのが一番早いには違いないが、勇気が出ない。
いつもは、兄にしてもらっていた。どうぞ、とカップを渡してくれる兄の顔が浮かぶ。
こんなことも、自分でできないなんて、本当に何の価値もないのではないか。
ふと、女性の客がこちらを覗いていた。目が合うとにっこりと微笑まれる。手には、ウィリアムと同じくカップを持っている。
まずい。顔がピリピリして、地面が自分のところだけ窪んでいく感覚。とりあえず上から順番にボタンを押す。最後に注ぐボタンを押せばいいはずだ。すると、ドリッパーの先から液体が注がれる。
ホッとしながら、まだドキドキしている。あとはカバーを被せるだけだ、というところで、
「あっ!」
力を入れ過ぎて、コップが手から滑り落ちた。バシャーッと広がる茶色の液体。
まぁ、とあきれる女性の声。
ウィリアムがフリーズしていると、声を聞いたらしい店員が顔を出した。
「あーあ、やってくれたねぇ」
「あっ、あっ、っあの」
どうにか謝罪しようとするが、口から出るのは蚊の鳴くような声だけだ。
「いいよいいよ、こっちでやっとくから」
奥へ行ってしまう。モップを取りに行ったのだろう。ウィリアムは、涙があふれだしそうになる。視線を感じる。誰の目も見たくない。俯きがちに店を後にした。
フードを深く被りこみ、地面ばかりを見てとぼとぼ歩く。火照った体が冷えていく。靴とズボンの裾に、茶色の飛沫が染み付いていた。
夜がだんだんと更けてきて、寒さがいよいよ増してきた。金は余っていたが、カフェオレを買うのは怖い。それに、金は貯めておいたほうがよさそうだ。
橋の傍のコンクリートブロックに腰掛ける。ズボン越しに冷たさが伝わってくる。歩き過ぎたらしく、足が痛みだした。
時折通り過ぎる走行音が、ウィリアムの孤独を引き立てているように思えた。
膝を抱いて、顔を伏せる。靴紐の鍵が目に入る。ウィリアムはギュッと瞼を閉じた。
しばらくすると、ドシンドシンと足踏みする音が聞こえた。
顔を上げると、大きな男が自分を見下ろしている。びっくりしたが、フードを被りそこから飛び出す帽子のつば、そのシルエットには見覚えがあった。
「っ、あ、アレク!」
フードを脱いで一息つくアレク。
「どうした?」
雲の切れ目から差し込んだ月明かりが、彼の肌を伝う汗をきらめかせた。ランニングの途中らしい。どことなく、彼の声が小さい気がした。そわそわして首の後ろを擦ったり顔をしかめたりしている。ウィリアムも彼の目を見れなかった。彼のモノの感触はまだ手に残っている。
訊かれたことに、ウィリアムは答えられない。
「うるせぇ」
つい、口に出してしまう言葉。なぜだか、涙が滲んできた。バレないように瞼がかゆいフリをする。
グギュゥ、と腹が鳴った。
二人の時が一瞬硬直した。
自分の腹の音だと、ウィリアムは気付く。そういえば、数時間何も口にしていない。そのうえ歩き回ったのだから、自分が少食であろうと腹が減るのは当然だ。
「家来るか?」
「え、家に?」
アレクが急に言い出して、ウィリアムは目をしばたかせた。しかし、差し出された手を、そのまま掴んでしまう。指先が冷えている温かい手だった。
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