第16話 「……うっ……」
「……うっ……」
鼻の粘膜に張り付くような、酷い空気を吸い込んだ。ジョエルは突っ伏していた机から、ミシミシと体を起こした。広げられた試験勉強のテキストに折り目がついてしまっている。仮眠のつもりが寝過ごしてしまったらしい。
――「あちぃっ!」
――カランカランッ!
「えっ?」
キッチンのほうから聞こえて、ジョエルは背筋をピンっと伸ばした。
急いで駆けつけると、ウィリアムが自分の手を握って背中を丸めていた。床にはフライパンが落ちていて、黒い煙を上げている。火傷したのは明白だった。咽そうになりながらジョエルは強引に弟の腕を掴んで、シンクへ突っ込んだ。蛇口をひねって流水に当てる。
「い、いてぇよ」
弟の訴えを無視して、しばらく腕を握り続けた。流水から解放して、患部を見てみる。幸い、痕は残っていないようだ。床に落ちたフライパンに、何かが焦げ付いている。テーブルに卵の容器があるので、それなのだろう。卵を勝手に使われた上に、焦げを落とさなくてはいけない。食材と光熱費と水道代の無駄だ。もしかしたら火事になっていたのかもしれない。
ブゥンと虫の羽音が聞こえた。昨日のカボチャに集ってきたのだろうか。カボチャのほうに目を向ける。ハエが表面をサッ、サッ、と這い、目から内部に侵入している。昨日はあんなに温かく見えていたのに、今は腹立たしいほどに不細工だ。ジョエルは眉間を押さえた。
「あの、ジョエル……寝てたから……料理作ろうとして」
「……これ以上仕事を増やさないでください」
「え?」
「私の仕事をこれ以上増やすな、と言ったんです」
ひゅ、と弟の喉が小さく鳴った。
立ち尽くす姿が目障りだと思ってしまう。ジョエルは意識的に視界から外し、フライパンを拾い上げ水に漬けた。
換気扇を点け、窓を開けて煙を追い出す。ふやけた焦げにアルミ束子を擦りつけていると、いつの間にか弟が消えていることに気が付いた。またどこかへ遊びに行ったのだろう。ジョエルはフライパンの清掃を続けた。
洗い終えると、指先もふやけていた。そうだ、カボチャもついでに捨てようかと一瞬思ったが、ウィリアムは指まで怪我したのだ。さすがに本人の許可なしに、勝手に捨てるのは可哀想だ。
ジョエルは部屋に戻ろうとして、気配を感じ、弟の部屋に立ち寄った。
耳を当てる――かすかに息遣いが聞こえた。眠っているのだろうか。鍵が鳴らないよう、慎重にドアノブをひねった。
弟は、ベッドの上で丸まって寝ていた。扉に背を向けている。室内にも関わらずフードを被りこんで。風邪をひいてしまうだろう。毛布をかけてあげようか、と思っていると、
「っ、く」
ピクンと体がはねた。嗚咽を漏らしているようだ。起きている。泣かせてしまった。ジョエルはそう気付いて、音を立てないよう逆再生に動いて扉を閉じる。
声をかけるのは、彼の反省に繋がらない。無理なことをせず、こちらに余計な心労を増やさないように。泣かせてしまったが、これで自分の思いは伝わっただろう。
気分は重いままだったが、ジョエルは再び勉強机に向かった。
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