第15話 「ただいま……」
悪魔が横を通り過ぎた。さらに前から怪物が迫ってきて、すれ違う。
ジョエルはゾンビと並んで歩いていた。昼から夜が深くなるにつれ仮装して歩き回る人は増えていった。仮装している人とそうでない人、割合は半々くらいでジョエルもそれに溶け込んでいた。鼓膜が柔らかく刺激された。建物を挟んだ隣の通りから、はやりの曲のバンド演奏が聞こえてくる。歓声も上がっている。出店もあるらしく、何やら香ばしい匂いまでしていた。
ジョエルは感覚的にハロウィンを体験しつつ、体で反応することができなかった。今日はずっと大学にこもって勉強していた。時折自販機で買う砂糖入りのコーヒー以外口にした覚えがない。空腹を通り越して、今は何も感じない。
街中にあふれる匂いに誘惑されかけるが、金がないことを思い出して、そそくさとその場を通り過ぎる。
鳥の声がする。内心驚いたが体が反応しない。見上げると、いつもは夜空に溶け込んでいる木が、町のイルミネーションの反射を受けて輪郭を見せていた。
家は幽霊屋敷のように暗かった。ウィリアムはまだ帰っていないのか、眠っているのか。ひょっとすると表の仮装パーティに参加しているのかもしれない。足が上がらなくて、靴底がザリザリとこすれる。
「ただいま……」
手さぐりで壁のスイッチを探す。
「つけないで!」
暗闇から声がしてジョエルはうわっと驚く。
「ウィル、いたんですか?」
足音が近づいてきて、手首を握ってくる。
「来て!」
手を引かれる。
リビングテーブルに何かが乗っているようだ。布をかぶせられていて、オレンジっぽい光が漏れている。
ウィリアムが、じゃーん! と布を取り払うと、明かりが体に染み渡るように広がる。咄嗟にジョエルは顔に手を翳して目をつぶった。
……目を慣らしながらゆっくりと瞼を開き、指の隙間から見る。カボチャが置いてある。ランタンであるらしく光が漏れており、まばらに部屋を照らしていた。よく見たら、顔が彫られている。
ジョエルはようやく、これがジャックオーランタンであることに気付いた。
「……これは?」
「作った!」
腕組みをするウィリアムはマスクを顎へ下げていて、得意げに吊り上げられた口角が陰になっている。彼の明るい顔は久しぶりに見た気がする。買ったにしては顔の造形があまりにも下手だから、そう聞いて納得した。ランタンの顔は左右非対称で、笑っているというより気まずい雰囲気をごまかしているかのようだ。
これを自信満々に見せてくる弟が、たまらなくかわいかった。
「ははは」
もう立派な大人なのに、こういうイベントをしっかり楽しむ子どもっぽさがかわいい。ろうそくの火のゆらめきを見ていると、体が温まるのを感じる。心から温まるのは久しぶりだ。かわいい弟のおかげだろう。疲労の緊張が一気に解れたような、逆に増したような、妙な感覚。
たまらず漏らした笑い声を聞いた彼が、途端に歯を食いしばり顔を赤らめ眉を吊り上げる。
「へ、下手なら下手って言えよ!」
「ええ、下手ですねぇ。ははは」
「なっ……!」
ウィリアムは持ったままの布を握りしめている。その指には絆創膏が巻いてあった。オレンジっぽく照らされている彼の顔の中で、瞳のきらめきが強くなった。ランタンを用意してくれたことよりも、弟の元気さを知って、ジョエルは嬉しかった。うまい言葉が思い浮かばない。ほめたいのに、かわいい、しか出てこない。成人男性にそれは失礼だろう。子どもへ言うものだし、怒るに違いない。力が抜けてくると、腹が空いてきた。
「ごはんにしましょうか」
ジョエルが目を擦ると、ウィリアムは俯きがちに「うん」と頷いた。
大盛りの冷凍カルボナーラを解凍し、半分ずつ取り分ける。まんべんなく解凍できておらず、固まったままの部分があった。熱い部分と混ぜて溶かしていく。ランタンの照明だけでは少し見え辛い。
「そんなにブロッコリーいらない」
弟のほうの具材が多くなってしまった。
「しっかりいただきなさい」
皿を置くと、彼はおとなしく席に着いた。
弟と食べると料理は味わい深くなる。アイスクリーム一つでも買って帰ればよかった、といささか後悔する。
昔、カボチャ味とコットンキャンディ味の、オレンジとピンクのアイスクリームを食べたことを思い出す。カボチャ味は甘苦くて、コットンキャンディ味は素晴らしく甘い。頬から垂れるアイスにかまわず齧り付くウィリアム。子どもの頃はジョエルも楽しめていた。
今でも、ジョエルは楽しむことができたはずだった。それなのに、バイトに明け暮れて、机にばかり向かっているから、こういうイベントへの関心が薄れている。弟は楽しむ気持ちを忘れていない。こういうところが、彼との差が開く原因なのだ。
ウィリアムを見た。フォークの動きも緩慢で、つまらなさそうだ。
「美味しいですか?」
「うん。……ジョエルは?」
「とっても美味しいですよ」
「変なの」
ウィリアムがフォークでブロッコリーを突きながら言った。
「何が、ですか?」
「冷凍食品だからいつも同じ味じゃん。なんで訊くんだよ」
「何だか、落ち込んでいたでしょう?」
ウィリアムは面を食らったような顔になる。
「だって……下手って……」
「ああ……それは、本当ですから」
「うぅうううるせえ!」
「ははは」
弟はムキになって残りを掻き込んでいる。お腹は空いているようだ。
来年は一緒にカボチャを彫ろう、とジョエルは思った。そうすれば、少しは距離が縮まる気がしたのだ。大学院へ行くことが決まれば、弟との時間も増える。それまで、辛抱だ。
「最近、バイトの調子はいかがですか?」
ふと、思いだしてそう訊く。フォークを咥えたウィリアムの表情が、無になる。彼の瞳の中の炎が揺れる。ジョエルと目を合わせたまま、口に含んだパスタをゆっくり嚥下している。その唇に小さな傷がある。よく見ると、手の皮膚もカサカサで荒れている。
「悪く……ないよ」
慎重に言葉を選んでいたようだ。まだ続けているらしい。だが、調子がいいというわけではなさそうだ。
「無理をしていませんか?」
「して、ない」
「それなら、よかったです」
本当は、辞めるように言いたい。しかし、せっかくの二人の夕食という構図を壊したくなかった。きっと、無理だと思えば自主的に辞めてくれるだろう。無謀なことをするものではないと自覚してくれるはずだ。
食べ終え、後片付けをしているとウィリアムがキッチンまでやってきて手伝おうとする。
「いいんですよ。ウィルは座っていてください」
彼は一瞬、何か言いかけたがすぐに口をつぐんで、肩を落としてリビングへ戻っていった。
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