第12話 「えっ!」
家に帰ったウィリアムは、洗面台で口をゆすいだ。鏡を見ると、胸元が濡れていた。噎せてしまった時に付いてしまったらしく、カチカチに固まっている。体が蒸し暑くなり、吐き気が込み上げた。
服を脱ぎ捨て、洗面器に水を張って擦り落とした。そのまま洗濯籠に放り込もうとしてとどまる。ジョエルが見たらどう思うだろう。自分がマヒしているだけで、変なにおいがしていたら問い詰められるかもしれない。頭のどこかで「そんなことにまで気付かないだろう」と思いつつも、「もしかしたら?」と考える。
洗濯機が目に入った。自分で洗濯機を使ったことはなかったけれど、兄が使っているのは見ていた。洗剤を入れてボタンを押すだけだ。兄は何でも自分でやってしまう。だけど、作業がそれだけなら、自分に教えてくれたっていいのに。けれど簡単だからこそ自分だけでいいと思ったのかもしれない。
洗濯ネットにパーカーを入れる。チャックを閉める時、布を噛ませてしまい、ちょっとだけほつれてしまった。どういう順番でボタンを押せばいいのかがわからない。ガイドブックがあるのかもしれないが、ジョエルがどこかにしまっている。テキトーに押していると、中身が回転し始めた。慌てて停止ボタンを押して、洗剤を手に取る。どれくらい入れたらいいのかわからなかったが、きれいにできれば洗剤臭くなってもいい。
ウィリアムはキッチンに向かい、何か食べられるものは無いかと探す。口の中の臭さを消してくれるものが良い。すると奥のほうにはちみつの瓶があった。いつかジョエルがお土産を買ってきた。少し白い部分があるけど、大丈夫だろうか。
スプーンを突き立てて、手こずりながら抉り出すとそのまましゃぶりついた。
洗濯機がゴウンゴウンと音を立てている。絡みついた甘味に吐きそうになりながら、ウィリアムは様子を見に行った。
「えっ!」
洗面所は真っ白になっていた。一面泡だらけだ。本体の洗濯機は見えなくなっている。
「うそ、どうしよう……」
とにかくどうにかしないといけない。ウィリアムは泡の中に踏み入った。泡が口や鼻に入り込んでくる。噎せるとさらに入り込む。指先に機体が触れた。その時、
「……ル? ウィル!」
玄関からジョエルの声がする。
「ジョエル……!」
少ししゃがれた声でウィリアムは返事をした。
「ウィル! とりあえず電源を切って!」
洗面所のそばまで来た声。ウィリアムは視界が塞がれているから指を滑らせた。
「で、電源どこ?」
「一番大きなボタンです!」
「見えないっ」
「泡をかき分けて!」
が、いよいよ洗剤が目に入ってしまってそれどころではない。痛みが走ると咄嗟に目を擦ってしまって逆効果だ。
「目ぇ痛い」
「ウィル!」
声が駆け寄ったかと思うと押しのけられて、ピッと音がして洗濯機が止まった。
静かになった部屋でしゅわしゅわと泡の音がする。ジョエルの怒りの気配がしてゾッとする。
「あ……ジョエル」
「目を洗いなさい、早く」
背中を押されて洗面台に押しやられた。目を洗って顔を上げると、ジョエルが疲れた顔をしていた。自分と同じように泡まみれだ。
何と言えば許してくれるだろう。ウィリアムは口をつぐむ。
ジョエルは疲れた顔のまま、
「シャワーを浴びなさい」
「え、あ……でも、ジョエルも」
「私は後から浴びますから」
無事で済んだきれいなバスタオルを渡されると、浴室に閉じ込められた。ジョエル、と呼び掛けたが反応は無い。今は黙って体を洗ったほうがよさそうだ。
全身がぬるぬるしている。目がまだ痛い気がして何度も洗った。
浴室から出ると、ジョエルは床に四つん這いになっている。泡を吸ってじわじわ音を立てる雑巾を折りたたんでいる。
こっちを向いた。また説教をされるだろう。
「ごめん……」
彼が立ち上がった時、ウィリアムは肩をすくめた。が、彼は微笑んだ。
混乱していると、バスタオルを巻きつけてくれる。背中をぽんぽんと叩かれた。
「えっと……?」
固まっていると、ジョエルは声を穏やかに、
「早く着替えて寝なさい。あとは私が片付けておきますから」
「はあ?」
思わず声が揺れた。どうして怒らない。
ジョエルは雑巾を洗面台で洗い始める。ムッとしてその腕を掴んだ。
「ジョエル、俺がやる」
「いま綺麗になったばかりでしょう? 結構ですよ」
またそうやって自分でやろうとする。そんな兄が怖くて、同時に腹が立った。
「や……やるってば」
ぐっと腕を掴むと、彼の腕にぽたりと自分の髪から雫が落ちた。ジョエルは言った。
「髪を乾かしなさい」
「髪なんていいから」
「最近冷えてきましたからね。風邪を引いたらどうするのです?」
心配そうな顔をされる。疲れているせいでいつもより弱々しく見える。そんな顔をされると、ウィリアムは強く言えない。
手の力が抜ける。一度抜けてしまうと、もう一度する気分でなくなる。一歩一歩後ずさると、自分の部屋に引き下がった。ドライヤーで髪を乾かしているうちに、どうでもよくなっていった。
次の日一階へ降りると、ジョエルはもう朝食の準備をしていた。カーテンの隙間から陽が射している。寝ぼけ眼を擦ると、湯気が上がる目玉焼きが見えた。
「おはようございます」
「お……はよう」
まだ目が上手く開かず、何度も瞬きして食卓についた。もう全てが済んでいた。テーブルにはトースト、目玉焼き、コーヒー、ウィンナーがある。ウィリアムの分はトーストと目玉焼きが別々の皿にあるが、ジョエルの分はトーストにのせている。
ジョエルも席について、コーヒーを飲む。ウィリアムはジョエルの皿を見て、同じように目玉焼きをトーストにのせた。器用に食べられない自分が恥ずかしい。気遣われているのも恥ずかしい。だから克服したいのに、持ち上げた途端に落としてしまって、黄身が飛び散った。
「おや」
ジョエルの手が布巾に伸びる。ウィリアムは反射的に掴み取った。まるで旗取りのようだった。
目が合うと、ジョエルは困ったように微笑んだ。そんな顔で見てほしくないが、ここで怒ったら昨日のことを許してくれないだろうと思い、黙った。
そしてジョエルは目玉焼きがのったトーストを器用に噛んで、千切る。あんな風に食べてみたいのに。ウィリアムは諦めて、トーストを千切って黄身に浸した。そして、パリッとウィンナーに歯を立てる。
いつも自分からはあまり話さないけれど、彼からも話題を振られない。昨日のごたごたのせいか、空気が重い気がする。目を合わせられない。
半分ほど食べ進めると、急にジョエルは口を開いた。
「ウィル、今日は何時に帰ってくる予定ですか」
ウィリアムはトーストを千切る手を止めた。
「え、わかんない」
「遅くなるなら連絡してください」
うん、と頷く。思ったより機嫌が良いのかもしれない。食べようとすると、ジョエルは何気ない様子で、
「昨日の洗濯物ですけど、あれは洗ったうちに入りません」
どうして急に。事実だけれど。
さらりとそんなこと言ってしまう彼が嫌だ。
手が止まっていた。
ウィリアムが言葉を失っていると、彼もまた返事を期待しないようで、
「洗いたいものがある時は、私に声をかけてください。それから」
「うるさい」
ウィリアムは話を遮り、トーストを口に押し込む。きょとんとしている兄は珍しい。が、今はどんな兄も見ていたくない。
あっちいけ。
「いってらっしゃい、ジョエル」
直前で言い換えると、ウィリアムは立ち去った。胸が痛かった。部屋に戻るとベッドにこもる。
しばらくすると、食器を洗う音が聞こえ始めた。
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