第11話 「リアム」※

 連休日の客入りや、労働者の日に向けての準備でウィリアムの勤め先の店は依然として忙しかった。瓶を割ってしまった件をだいぶ警戒されており、ウィリアムは以前と変わらず裏の清掃を任せられていた。他のアルバイト仲間はせかせか働かされている。彼らの視界に入ると言葉にされはしなくとも、悪意が向けられているのだろうと、肩身が狭かった。


 誰の刺激もしないように、繰り返し裏口を清掃していた。隅々までごみを掻き出して、やることがなくなる。うっすら汗をかいたせいか、ちょっとの風でも体感温度が大げさに下がった。


 ガチャと扉が開き、ビクッと跳ねてしまう。そこにいたのはアジア系の先輩だ。


「リアム」

「え? あ、え?」

「お前だよ」


 慣れない名称で呼ばれて反応が遅れてしまう。コミュニケーションを取らないせいで、彼らには『ウィリアム』しか知られていないのだ。


 先輩は、ドアノブに手をかけたまま上半身だけを乗り出している。


「表もさ、今日客の出入り多いからさ、やべぇんだよ靴跡が、表の掃除もやっといてよ」

「あ、えっ、表もですか?」

「いいだろ」

「え、あの、あ、道具……」


 バタンと扉が閉じる。

 表と裏とでは使う道具が違ったはずだ。とにかく、表の掃除もしないといけない。急いで道具を片付けようとしたが、


「あっ!……ってて」


 塵取りを蹴飛ばしてしまった。せっかく集めたごみが散乱する。半ばパニックになりながらも、箒でガサガサと掻き集めた。


 先ほどの先輩を探して店内をさまよっていると、レジ打ちしているのを見つけた。二、三組が列をなしている。

 ウィリアムは開きかけていた口をつぐんだ。奥へ引こうとすると、肩にぶつかられよろめく。同期が目もくれずにたくさんの瓶を運んでいた。ウィリアムが落としてしまった本数の倍以上だ。

 邪魔をしてしまった。誰も彼もが自分を睨んでいる気がする。頭痛の気配がしてトイレへ足を向けた。チリン。入り口のドアベルが鳴って足を止める。振り向いてドアを見ると、その下の靴跡に目が行った。掃除をしないと、また迷惑をかける。




 なんとか作業をこなした後、休憩時間になり部屋の隅でコーヒーを飲んでいると、表のほうが騒がしくなってきた。怒鳴るように名前を呼ばれ、ウィリアムの心拍数は跳ね上がった。


 駆けつけると表で中年男性が腰を擦りながら怒っていた。しかし頭痛に気を取られて、言っている言葉が跳ね返っているように認識できなかった。ウィリアムはとりあえず謝るように促されていたので夢中で謝った。プレッシャーのせいか体だけは正常に動いてくれた。


 転んだ、治療費、訴訟という言葉が聞こえていた。気が付けば、ウィリアムはその場でクビを言い渡されていた。



 ■



 私物という私物は全く無かったので、ウィリアムはほとんど手ぶらで帰路についた。


 ふと前を見ると、溜まり場の入り口に立っていた。思い切っておもむろに開ける。誰もいない。そのままソファに倒れ込んだ。


「クソ……」


 ガクガクと震える手であてもなく胸元を掴む。掃除の事を詳しく聞かなかった自分が悪い。タイルを水モップできれいにした後水を捌けなかったのが悪い。自業自得。それはウィリアムにもわかっていた。

 だけど、せっかく祝ってもらった仲間に申し訳ない気がした。クビにされるのは初めてではないが、その度にひり付くような恥ずかしさは消えない。給料は振り込まれるのだろうか。不祥事を起こしてクビになったのだから、貰えないかもしれない。いやそれとも、逆に賠償金を請求されるのだろうか。そうしたら兄にも知らされる。


 彼はどういう表情をするだろうか。悲しそうな。怒ってるのを我慢しながら。それともわかりきっていたように笑って、


 ――だから言ったでしょう、無理はしないでと。


 そう言われる気がした。


 自分は、もう誰にも必要とされていないんじゃないか。誰かに頼らないと生きていけないんじゃないか。ずっと、兄に頼って。そうしないと何もできない、生きていけない。

 顔をしかめて呻いていると、目が痛くなってきて、熱くなってきて、フードを引っ張って押し付けた。




 何かが崩れる、ばらばらという音がしてウィリアムはびくりとする。目を開けようとしたが、くっついて開きにくい。


「だってぇ!」

「うるさい」


 サムとアレクの声がする。瞼を擦って振り返ると、ぼやけた視界に、点々と何かが散らばっている。


 体を起こすと、どちらがかけてくれたのか、タオルが体からずり落ちた。ソファが軋む音にサムが振り向き、


「あ、ウィルが起きたじゃんか~」

「お前が崩した」

「いじわるしたからだろ!」


 何やら言い争っているが、ぼやけていてあまり見えない。どうやらジェンガをしていたらしい。

 寝相が良くなかったらしい。ウィリアムは起き上がり洗面台で顔を洗った。


 外を見ると、闇に飲み込まれていた。オスカーはまだ来ていないようだ。二人が床の積み木を拾い上げてまた組み立てている。再戦するらしい。


「ウィルもやる?」

「いい」


 そっけなく言うと、二人の表情が怪訝になる。ウィリアムはソファに転がり目を閉じた。


 それから積み木の音に耳を傾けていると、急に扉がドンと開いた。目を開くと、アレクが骨太の指で棒を抜き取ろうとしているところだった。


「あああ! クソ! あのアマ!」


 オスカーが赤毛を逆立てて咆哮する。おおよそ、ナンパに行っていたのだろう。


「な〜に? また失敗したんだ、オスカー」

「うっせぇホモ! 何がいけないんだよぉ、クソが!」


 ズカズカと二人の元へ足を踏み鳴らすと、思いっきり蹴っ飛ばした。ジェンガは弾け飛んでぶつかった壁で軽やかに鳴った。咄嗟に顔を守ったサムは、腕の隙間から呆れたような笑顔を見せ、アレクは所在なさげに、抜き取ったばかりの棒を床に置いた。オスカーの狙いは移り、こちらをじろりと息荒く睨みつけてくる。


「どけよ」


 蹴飛ばされそうだと思ったウィリアムは跳ね起きて、おとなしくソファを譲る。どっかりと座るオスカー、勢いが余ってソファが後ろにギギーッとずれた。


「どうせ女はどいつもこいつも顔しか見てねぇんだ。そばかすか? このそばかすがいけないのか?」


 顔に爪を立てて下に下ろす。ひぃ、とサムが自分の頬に手を当てた。


「やめなオスカー、きれいな顔に傷がついちゃう」

「うるせえ黙れ! クッソ、クッッッソ! おごらせるだけおごらせやがって畜生が、ヤらせる気無ぇんならノるんじゃねえよ!」

「ほらもう、そういうとこだろ~?」

「死ねが!」


 よほど腹が煮えくり返っているようで、ソファのひじ掛けを地団駄踏むように蹴っている。


 オスカーの様子を見ていて、今日は不機嫌なやつが多いな、とウィリアムは思った。同時に、これからどうすればいいのだろうと、胸が痛んできた。いつ、バイトをクビになったことを打ち明けよう。心臓がピリピリと急かされてくる。どうにかして次のバイトも早く決めたい。でも、今の心境では求人情報を見ることすら億劫だ。そういえば、サムが麻薬の売人と仲良く話しているのを見たことがある。彼に言えば、何かしらの高額バイトを任せてもらえるかもしれない。でも、バレたらジョエルが何と言うだろう。


 舌打ちが聞こえたと思うと、オスカーが自分を見ていた。


「おいウィル、金やるからさ、しゃぶれよ」


 不意に、そんなことを言った。女とホテルへ至れなかったことへの不満なのだと、すぐにわかった。それが本気でないことも。


 キヒヒーッとサムが噴き出して腹を抱えている。


「なっ、何言ってんだよ〜。そういうのは俺に頼みなあ?」

「黙れぶっ殺すキチガイ」


 アレクはスルーして、床を片付けている。

 ウィリアムは胸が熱くなったり、冷たくなったりした。彼らの舌打ちや笑い声、積み木の音を聞いているうちに、突き動かすような何かが胸の内を這い上がり、息を吸い込むのも苦しい。ウィリアムはオスカーを見つめたまま、声を押し出す。


「いくら?」


 辺りが静まる。口の中が急速に乾いていく。


「え?」


 言い出した本人が、呆気にとられている。サムも、アレクも手を止めて、自分を見ていた。


 ウィリアムの視線を受けて、オスカーはつい財布を確認する。


「あ……ごめん、いま十八ドルくらいしかねぇけど……」

「わかった」


 ウィリアムは半ば放心しながら、ソファの前に跪いた。頭上から「え、マジで?」と声が降ってくる。三人の視線が痛い。チャックを下し、口を近づけようとして、マスクはどうしようと留まる。肌のこととは関係なく、あまり見られたくなかった。口の中がカラカラだ。唾液が無いと気持ち良くないだろうと、ウィリアムは舌で口内をなぞって潤わせる。マスクの下に指をかけ、唇が見えるまで引き上げると、そのまま頭を下した。








 咳き込みながら見上げると、オスカーは肩を震わせて笑っていた。


 「ハハッ、アハハハ! お前、なんつー顔だよ! はは!」


 二人の目が自分に向いているのを感じる。ウィリアムはゾッとしてフードを被りこむと動けなくなった。


「あ~あ、ウィル泣かせた」


 サムがそう言ったが、オスカーはすでにズボンを上げ終わっており、「じゃあな、ホモ野郎」と言って部屋を出て行った。


 視界にタオルが垂れる。差し出す手をたどると強靭な腕が見え、アレクの翠眼が自分を見下ろしていた。ウィリアムはそれを受け取って顔を拭う。


「ごめんな」


 彼にそう言われても、ウィリアムは顔を上げることができなかった。彼の股間がどうなっているのか知りたくなかった。


 サムが揺れる声で話しかけてくる。


「ねえ、ウィル……あいつさ、アマとヤれなかったのが悔しくてイラついてただけなんだよ。だから許してやって。ね?」


 そう言って十八ドルを差し出してくる。思えば、オスカーはそのまま行ってしまった。わざとではなく、気が動転していたのだろう。ウィリアムは首を横に振りながら受け取った。許せない、という意味ではない。オスカーに対する怒りは無いが、なぜか首を振ってしまう。今、自分がどんな表情をしているのかわからず、タオルで拭うのをいつまでもやめられなかった。


 アレクはまたジェンガを崩していた。サムがため息をつく音。沈黙が流れる中、ウィリアムはようやく立ち上がると一緒に床を片付け始めた。サムも参加して組み立てていく。そしてまた崩す。何も考えたくなかった。

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