第10話 「これまでの通り、ジョエルは、特に問題はない。この調子のままで良いよ。ふう……まったく、ここまで優秀な学生だと私も指導のし甲斐が無くて困るよ」

 時計は十二時半を周ろうとしていた。優等生の進路相談ということで、ジョエルはヘンリク教授に呼び出されていた。彼の研究室は、カフェモカと古臭い書類の香り、それから昼飯のために買ってきたのであろうハンバーガーの匂いまで充満している。机の傍らに積み重ねられた『ボルチモア・サン』が今にも雪崩を起こしそうだ。

 彼は買い替えが必要であろうデスクチェアにふくよかな体を落ち着けてジョエルを見上げていた。予算不足というわけではなさそうだから、そのチェアがよほど気に入っているのだ。


「これまでの通り、ジョエルは、特に問題はない。この調子のままで良いよ。ふう……まったく、ここまで優秀な学生だと私も指導のし甲斐が無くて困るよ」

「それは……ええ、申し訳ございません。教授」

「いやいや全然いいんだよ! 大学来たのに遊び惚ける馬鹿がたまにいるんだ。……ああ、ちょうど、別の学部のやつがそう愚痴っていてね」


 ガチャと奥の部屋の扉が開き、助教授が顔を出す。


「教授! ちょっと」

「え何? あ、ジョエル、君はもういいよ。これをついでに洗い場に置いておいてくれないか」


 彼は尻にチェアからはみ出したスポンジのかすを付けたまま、奥の部屋へ引っ込んでしまった。ジョエルは持たされたマグカップを、研究室内のシンクへ持っていく。本来、生徒が研究室内に入った際は、用がある彼のデスク周り以外を歩くのは禁止されている。だが、ジョエルは注意されない。


 マグには飲み物が乾いた跡がこびりついている。ジョエルは何と無しに水にくぐらせると、シンクに落ちていたスポンジに洗剤をかけて擦り付けた。


 きれいにしたマグを立てかけると、ヘンリクがまた出てきた。


「まったく……。あ、ジョエル、まだいたんだね!」

「あ、ええ」


 家での癖でつい洗ってしまった。


「ちょうどよかった、って言っては申し訳ないけど、これをお使いしてほしいんだ」


 渡されたのは紙袋だ。温かくて、ケチャップの匂いがしている。


「食べ物ですか?」

「そうそう気をつけてね、あと三分で爆発するから。早くあいつに届けてくれるかい、医学部の教授に」


 そう言いながらヘンリクはばたばたと部屋を飛び出した。ごちゃごちゃした研究室で何かにぶつからないのはさすがの身のこなしだ。何かトラブルがあったのだろう。ジョエルには知る由もないが、とりあえず頼まれたことは遂行するつもりだ。




 医学部棟へ足を踏み入れる。学生はカフェテリアへ行っているらしく、ジョエルの足音が廊下の奥まで良く響いた。


 教授の研究室へ近づくと、何やら話し声が聞こえてきた。大声で怒鳴っているようにも聞こえたので、ジョエルは足音を忍ばせた。


 少し経つと、靴音が近づいてきてジョエルは反射的に扉から離れる。


 ガチャリと出てきたのは、ヤンキーだった。染めたとわかるくっきりとした赤毛、ジョエルより背は低く、そばかすが目立つやる気のない表情、耳にはいくつものピアス、同じく赤色の左眉は怪我の後遺症のためか眉頭の一部が生えていなかった。


 ジョエルが軽く微笑むと、その翠眼で鋭く睨みつけながら横をすり抜けて行った。

 この大学に、あんな不良がいるものなのか、とジョエルは逆に感心する。


「教授、教育学科のジョエルです」


 ノックをしてそっと覗くと、教授は心底悩ましげなため息をついていた。彼はヘンリクと同じような体型で、袋を渡すと、その表情は打って変わって喜びに満ちあふれた。




 研究室を後にすると、サアッと開けっ放しの入り口から風が吹き込んだ。鳥肌が立つ。


「もう秋ですか……」


 この前まで暑くて仕方がなかったのに、とジョエルは深く吸い込んだ。すがすがしく、木の葉の匂いと湿った土の匂いが肺に溜まる。


 寒くなると、家の電気の使用量が増えるものだ。普段はあまり点けない照明も早い段階で点けていないといけないし、暖房も必須だ。施設にいた頃も電気ストーブはついていたが、彼が周りに注目されているのに気付いて、ジョエルは弟の手を引いて離れたところに座った。寒がっている弟に引っ付いてあたためてあげた。今は到底できそうもないが、もしできたら節電になるのだろうか、とジョエルは少し苦しくなった。


 早く、弟と仲良くしたい。それができていたのは小さな頃だけだ。しかし、それはジョエルにとっての苦い思い出と同期していた。弟をいじめから守れなかった。むしろ危険な目にばかり遭わせてしまった。弟が未だに病弱なのはそのせいかもしれない。だから、今のように稼げて、将来性もある自分を自負している。


 食欲はやはりなかったが、鳥肌を鎮めるのと栄養補給のために自販機でホットコーヒーを買った。ウィリアムは、寒がっていないだろうか。ジョエルは腕を擦った。

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