第9話 「よぉくがんばったなあ、ウィル!」
ゼイゼイと肩で息をする。吐いても吸っても肺が痛い。ウィリアムは夜風に冷えた柔らかい芝生に倒れこむ。背後でキキーッと錆びれたブレーキがかかる。
「よぉくがんばったなあ、ウィル!」
自転車の後ろから下りたオスカーが珍しく素直にウィリアムをほめる。
「ごろじでやる……っ」
「おうおう、元気だな!」
心臓の拍動が耳まで聞こえる。ウィリアムの頭は血が激しく行き交い、自分で何を口走っているのかわからなかった。
「俺も疲れたぁ!」
サムも自転車を止めると、ウィリアムの側に寝転がった。汚れるぞ、とオスカーが言うが脱力しきっていて動けない。
ウィリアムたちはフェリーターミナルの近くの都市公園である『フェデラル・ヒル』まで来たようだ。夜とはいえど、観光客もいて人通りは多い。石像がいくつもあり、近くにはレストラン『ラスティ・スカパー』がある。でも汗だくなうえ服装が危ういので入れないだろう。
すると、アレクのたくましい腕が体を抱え上げてきて、ベンチへ横たわらせた。
「あ、ねぇねぇ俺も抱っこしてよアレク〜。ねえってば~!」
アレクは自転車からペットボトルを取り出し、ウィリアムの肩を抱えて起こした。ウィリアムの唇にペットボトルの口があてられる。
「噎せないようにな」
ジュースの甘みが流れ込み、喉奥の痛みをいやした。鼻から、オレンジの香りが抜けていく。
「アレク、おい、俺たちの分も買って来いよ」
「鬼畜〜っ。アレクだって走ったのに」
「あいつなら平気だろ」
会話を聞きながらゆるゆると冷静さを取り戻し、ウィリアムは座り直した。全身がじっとりしているが、人の目があるのでパーカーは脱ぎたくない。それに潮風は強く、むしろ心地よかった。
掌を見ると、木の皮が貼り付いていた。さっきしがみついた街路樹のものだろう。服にも草が付いていた。
ペットボトル数本の頭をつまんで、アレクが戻ってきた。オスカーとサムに渡している。すると何やら、香ばしい匂いも漂ってきた。
アレクはウィリアムに近寄る。マフポケットがふくらんでいた。そこから取り出されたのは、
「おっ、クラブケーキか」
オスカーが、ウィリアムに向けて差し出されていたそれを横取りした。
「おいオスカーっ」
サムの非難を無視して、白い袋の包装をちぎり、グムッと頬張っている。
「ぅあっち!」
できたてのようで湯気が上がっている。サムとウィリアムもアレクから受け取る。噛むとじゅわっとあふれた油が口から垂れてきたが、甘くて美味しい。汗がまた滲んできたが、栄養を欲している体にはありがたい。
「うめ〜! ありがとアレク!」
サムに合わせて、ウィリアムも頬張ったままお礼をもごもごと伝える。アレクは視線を合わせて軽く手を上げると、自分の分にかぶりついた。
ジュースで一服していると、近づいてくる影があった。明らかに不良のなりをしている自分たちに近寄る人は珍しかったので全員が視線を向けた。そこには不思議な格好をした女がいる。ウィリアムより頭一つ小さい。
「ウィルじゃーん」
つかつかとウィリアムのほうに歩み寄り、見上げた。最初誰だかわからなかったが、その声と態度で昔の記憶がよみがえってくる。
「えっ……あ、そ、ソフィー?」
「せいかーい」
ふっと笑った口から、ストロベリーの香りがした。
「お? なんだウィル、元カノかぁ?」
オスカーがはやし立てる。一方サムは、ソフィーをまじまじと見つめ「ひゅう〜」と口笛を鳴らした。
「ち、ちげーよ!」
「同級生です」とソフィーが嘘をつくと、途端に熱が冷めて肩を落とすオスカー。
しかし、サムとアレクに何やら耳打ちをした。三人は顔を見合わせて、ウィリアムへやけに優しい目を向ける。
「じゃあ、俺らちょっとコンビニ行ってくるわ」
「は?」
「じゃあね〜ウィル〜。自転車見とけよ~」
サムがバイバイと手を振り、三人は行ってしまった。
ウィリアムはソフィーと取り残され、ガチガチになる。できれば三人にはここにいてほしかった。けれども、彼女との仲を根掘り葉掘り詮索される気がしないでもないで、それはそれで嫌だった。
ソフィーはウィリアムの隣に座った。組まれた脚に、網タイツが食い込むのが見える。
「すごい……恰好……」
「ん、これ? ジャパニーズスタ~イル」
ぶかぶかのジャケットをひらひらさせるソフィー。ウィリアムは目のやり場に困った。
「ここまで走ってきたんだ~」
何を言われているのか、一瞬わからなかったが、
「さっき橋にいたよね」
「あっ、ああ……見てたんだ……」
「見てたよ。がんばってんじゃん」
情けない姿を見られた。ウィリアムは面目なくて、顔を逸らしてしまう。
「てかさ、また長袖着てんの?」
ソフィーはウィリアムの袖を掴んだ。振り払いそうになるが、ウィリアムは平然と努めた。
「着てるけど、何」
「夏でしょ今、わかってんの。また熱中症になるんじゃないの。覚えてる? ジョエルがサマーキャンプの時もウィルに長袖着せてさ、ウィル動けなくなっちゃったでしょ」
「そんなことも、あったけど……」
ウィリアムは目を逸らした。そんな思い出もあるが、いまだに長袖を着る以外の選択肢が自然に浮かぶことはない。
「ジョエルの自己中ったら変わってない」
そう言う彼女の前髪が潮風に吹かれて、その頬を覆った。彼女は急に無言になって、パタプスコ川を眺め始めた。ウィリアムも目を向ける、インナーハーバーの夜景は奇麗だ。波の音に、遊覧船がゆったりと横切っている。
「ウィルってさ、まだ写真撮ってんの?」
「しゃ、写真?」
「そう。中学校の頃、何かのコンクール的なやつで大賞取ってたでしょ」
ソフィーの言う通りで、何もできない自分の唯一の特技が「写真」だった。ウィリアムはスマホの画面を見せる。フォトギャラリーをパステルカラーの爪先がスクロールする。
「やっぱいいじゃん。映えるね。どっかにアップしてる?」
「い、いや……」
「えぇーっ、そんなに上手なんだからみんなに見せればいいじゃん。インスタとかさあ」
「イン、スタ……う……ん」
ピアノの演奏が聞こえてきた。レストランで誰かが弾いているのだ。
ふに、と何かが手に触れた、
「っ」
ソフィーがウィリアムの手を握っている。ふにふにと感触を確かめたかと思うと、爪先で痣をなぞり始めた。くすぐったい。ビクビクと手が痙攣しそうになる。ウィリアムは手の高さをその位置にキープすることに気を取られる。
「ウィルってさ、まだ童貞なの?」
「っは? え、ど、どうて……えっ?」
「その反応は図星か」
彼女の視線はウィリアムの手に注がれている。長いまつ毛が時折ピクリと動いた。
心臓が落ち着かなくて目を逸らすと、石像の台座から三人がこちらを覗いていた。身を乗り出しすぎているサムの首根っこを、アレクが引っ掴んで戻している。
「楽しそうだね」
彼女は自分と同じ方向を見ている。
「え、あ、なに、何が?」
「お友達と」
「とも、っ、あいつらは、べつに」
「でも女のほうはまだまだなんだね~」
「え、ぅ……」
「ジョエルと同じ顔なのに」
不意打ちだった。目の前が真っ暗になるような。
「何でそんなに怯えてるの? 痣気にしないで堂々としてりゃ、それなりにモテたんじゃない? それなのに学校ではいつも……」
「っうるせぇ」
ウィリアムは何かを言葉にしたかった。しかし、いま自分の感情を明確に表現できる言葉を思いつかない。兄の前でだってそうだ。今でもずっとそうだ。何かを言われて目の前が真っ暗になったり、真っ赤になったりしても、何も言い返せない。自分の中の何かが崩れてしまいそうになるのだ。口を開いたら自分ではなくなってしまいそうで、ウィリアムは黙って粘ついた唾液を飲み込んでいた。
彼女のカラコンで大きくなった瞳がジッとウィリアムの顔をなぞった。唇のラメが光る。
「かわいそ」
肺が詰まるようで、息が荒くなる。
「都合が悪くなるといっつもそれ。昔っから変わってない。反論できる頭脳も無い」
「ぅ、あああ」
また頭痛がした。頭を抱える。ひどく痛んだ。図星でしかない。ベンチの背に頭を擦り付ける。
「ごめん。私のせいか」
細い指が頭皮をなでる感触がした。触られるとさらに痛みが増した。
「ざ、わんなぁっ!」
その指を掴み払いのける。
「ごめんごめん。もう消えるよ」
そう言うのが聞こえた。鮮明に聞こえるので、耳元でささやかれているのかもしれない。しかし頭を擦り付けるのに夢中で彼女が消えたかどうか定かではなかった。頭の痛みをどうにかして逃がしたかった。ベンチの木肌でゴリゴリと痛みをそぎ落としたい。
不意に、羽交い絞めにされて視界が開ける。気が付けば泣いていたようで、キラキラと眩しく、心配そうに覗き込むオスカーとサムの姿があった。
「ウィルっ、あのクソアマに何言われたんだよ?」
涙を拭うサムの親指。後ろからも指が伸びてきて、マスクを軽く摘まむ。脂で汚れているアレクの指だ。隙間が空いたことにより呼吸しやすくなる。
「深呼吸しろ。落ち着け」
オスカーに首の後ろをぐりぐり撫でられる。痛いが、抵抗する気にはなれなかった。肩まで揉んでくるので、鬱陶しかったが、だんだんと痛みが薄れてくる。
三人に介抱されて落ち着いたウィリアムは、フードを被り顔を覆った。隣に座るサムの気配。
「ウィル……? 肌のことを言われた?」
「ちがう」
そういうわけではなかった。肌を貶されたわけではない。『ジョエルと同じ顔』だと、言われただけだ。しかし、兄と比べられたのは間違いない。それがウィリアムにとってたまらないのだ。
中学生の頃、有能な兄に対して引け目を感じすっかり引っ込み思案になっていたウィリアムに絡んできたソフィー。ウィリアムはそのうち恋心のようなものを自覚し始めていた。だけど、それは彼女と兄とのキス、そしてセックスを目撃してしまったことによって打ち砕かれてしまった。
久々に対面した彼女には、変わらない魅力があった。でも、心が動かされる感覚は無かった。トラウマになっているのだろう。
三人はその後、普通に駄弁り、ウィリアムが落ち着いてから解散となった。オスカーは自転車で、アレクは徒歩で帰路についた。家に帰りたくなかったウィリアムは、ひとまずサムと一緒に溜まり場に戻ることにした。彼は気さくに話しかけてくれたが、生返事しか返せない。
途中でサムがコンビニに寄った。ジュースを買ったらしく、重そうだ。
「持とうか?」
「いいっ、病人だからねウィルは」
サムが溜まり場の電気を点けると、白が目に痛い。フードを被りながらふらふらじりじりとソファまで歩く。
「体洗う?」
「洗面所で?」
「できなくはないぜぇ?……まあ、タオル持ってくるよ」
下着だけになり、サムが用意してくれた濡れタオルで体を拭いた。その間、サムは冷蔵庫にジュースを入れていた。
夜風に当たっていると、
「ウィル、ウィル」
サムが何やら目を輝かせ、リズミカルに体を揺らしながら、洗面所から布を持ってくる。じゃじゃーんと広げられた、カーディナルレッドの半袖パーカーだった。
「早いな」
「ごめん。セールワゴンに乗ってたやつだけど……」
「全然」
ウィリアムは受け取って、さっそく腕を通す。拭いたばかりの肌に、真新しい布地は気持ちよかった。
「似合う~!」
「う、るせぇ」
サムがべた褒めするのでウィリアムは顔を逸らした。
脱いだ服はサムが回収した。洗面台に水を溜め、石鹸を擦り付けて浸けている。ウィリアムは、彼がラジオにセットしたCDを聞きながら疲労で痛む足を揉んでいた。
「疲れてるだろ、寝な」
自分のシャツで濡れた腕を拭くサムに促されるまま、ソファに横になるウィリアム。寝転がった途端、ぐわんと頭が痛んだ、が、それも一瞬のことだった。
目を閉じていると、「忘れてた」とサムがつぶやいた。袋の音がして、ゴトッと傍の床に何か置かれる。
「何それ」
薄ら目を開く。
「氷。暑かったら食べるなり抱くなり」
音からして飲み物に入れるような細々とした形状ではなく、大きなブロック状のものらしい。ジュースだけでなくこれも買ったのなら、それはそれは重かっただろうな、と心の中で労った。
「ここエアコン無いもんなぁ。金貯まったら設置する、ってオスカーが言ってたけど……」
ウィリアムは天井を見つめた。電球が眩しくてすみやかに瞑る。それでも明るかったが、瞼がすぐに重くなってきた。
「おやすみ、ウィル」
意識を手放しかけていると、離れたところから声が聞こえ、部屋の電気が消された。入り口にサムの影が見える。
「どこ行くんだよ」
「さあ? 適当に~」
扉が閉じられるとよく見えなくなった。スニーカーの音が遠のく。
ウィリアムは氷に手を伸ばした。触れていないのに、冷気が伝わってきて気持ちいい。包装の表面の結露を撫でる。
サムはどこに行ったのだろう。寝床を探す時は、ここか客の家かを転々としているらしい。今日は誰か家に転がり込むのだろうか。
ラジオの曲は、眠りにちょうどいいギターのバラードになる。靴を脱ぎ捨てると、結びつけられた鍵がチャリンとなる。冷たくなった手を抱き込んで、ウィリアムは眠りに落ちた。
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