第8話 「ジョエル、一泊するつもり?」

「ジョエル、一泊するつもり?」


 肩を揺らしてくる柔らかく細い手の感触がして、ジョエルは身じろぎをした。


「いいえ、っ、少し考え事をしていたのです」

「ああ、そう?」


 ベッドから起き上がると、服を着て髪を手櫛で整える。とっくに彼女は着替えを済ませて、オーバーサイズのジャケットと網タイツの姿で、入り口に立っていた。

 ジョエルは袖を通すと、声をかけた。


「ソフィー、私が払いますから」

「んー? じゃあお願い」


 二時間分の料金を、精算機に入れてお釣りを受け取った。カツンカツンと階段を下りながらため息をつく彼女の肩へ手を添えた。彼女がヒールを履いているおかげで、頭一つ分あった身長差が縮まっている。


「不満でしたか?」

「んーん、違う。ボロかったから。ベッドとかスプリングがうるさかったし」

「あぁ、確かに。すみません、もっとグレードの高いところにすればよかった」

「いいって。手持ち無かったでしょ」


 ソフィーは、ジョエルの中学時代からの幼馴染だ。数年経った今でもたまに会ってこういうことをする。彼女はブリーチしたボブカットを揺らしながら、階段を降りた。毛先にかけて水色のグラデーションが入っている。


 外は入る前よりだいぶ暗かった。夏の終わりかけの日没は、予想以上に速い。二人はサーキュレーターの停留所へ歩き出した。サーキュレーターとは、市内のどこへでも無料で乗れるバスのことである。


「この後はどっか寄る?」

「そう、ですね。私はそろそろ帰らないと」

「ああそう。じゃあ途中まで一緒ね」


 サーキュレーターに乗り込む二人。乗客は半分ほどいた。二人の間には特に会話もなく、ジョエルは余韻に浸っていた。揺れが心地よく、瞼が重くなりかける。


 不意に、ソフィーが窓をつついて「あれ」と言った。


「ウィルじゃない?」

「え、ウィル?」


 ジョエルは身を乗り出した。サーキュレーターは信号待ちで止まっている。

 交差点の左へ進むと橋があり、そこにウィリアムの姿があった。周りには、先導して走る大きな男と、自転車で二人乗りをしている男たち。ウィリアムは走っていたようだがバテたようで、膝に手をついて息切れを起こしている。そんな彼を、自転車に乗った二人が囃し立てているように見える。足元で何かが光った。あれは、結びつけられた家の鍵だろう。


「元気そうじゃん」


 ソフィーがつぶやいた途端、彼女の頬がほのかに緑色に変わった。サーキュレーターが動き出し、ジョエルはよろめきながら手すりを掴んで座る。


「何を……しているのでしょうね、彼は?」

「運動じゃない?」

「それは、そうですが」


 ジョエルの心臓はバクバク動いている。街灯はあったが、弟はフードをかぶっていて表情が良く見えなかった。


「ちょっとはコミュ障治ったの?」

「いえ……相変わらずです。私との会話も避ける始末で」

「悪化してんじゃん」


 ジョエルは彼女の手に触れながら視線を落とす。


「最近は、大学に行ってるのかも怪しくて……」

「大学? ウィルが行けるとこあったんだ?」

「お金を払えば入学できるところを見つけまして、そこに通わせてます」

「ウィルが行きたいって言ったの?」

「え? いえ、でも、大学くらいは出たほうが良いでしょう?」

「それは一理」


 そうでもしないとあの子の取り柄がない。

 ふと、橋の光景を思い出して、ジョエルは足元を見つめる。

 自身の生活が忙しく弟の交友関係は把握できていなかったが、まさか、あのような不良とつるんでいるとは思わなかった。


「ウィルは、もう……まったく……」

「楽しそうに見えたけどね」


 ジョエルの心を読んだようなことを言うソフィーは、景色を眺めている。いつのまにか手は離れている。ネオンの看板や信号機の赤や緑の灯りが彼女の白い肌を横切る。窓に映った瞳と視線がかち合って、ジョエルは目を逸らした。


「あーっ傷ついた」


 外を向いたまま、彼女の唇が動く。


「すみません」

「いいよ。……だいぶ、悩んでんね?」


 すぐに言葉が出なかった。悩んでいること――いくつかあるそれから、選んで口にする。


「犯罪の加担をさせられているのではないかと思うと、気が気でなくて」

「ジョエルがちゃんと見てやりなよ」


 見ているつもりだ。ジョエルはそう返そうとしたが、実際に弟を管理できていない時点で、彼女の言う通りのことができていないのだ。


「善処します」


 そう返すことで精いっぱいだ。試験も近い。それさえ終われば、もう少し彼に構ってやれるだろう。


 サーキュレーターが角を曲がる。重力に沿って、ソフィーは肩を預けてきた。


「そういえば、病気は治ったの?」

「治療費は渡していますよ」

「あら、もう一緒には行ってないんだね」

「さすがにひとりで行ける歳でしょう? それに私は忙しくてとても」

「行けんのかな。でも、そっか……治ってる様子はあるの?」


 わからなかった。ここ数年はまともに会話もできていない。薄暗い部屋で、彼の肌をまじまじと見る機会があっただろうか。


 彼女の瞳は動かず、口は結ばれたままだ。この沈黙は、言葉にせずともジョエルの解答を示している。ソフィーはぱっちりと瞬きをして、元の位置に腰を落ち着けた。


 サーキュレーターが停車し、ジョエルははたと乗車口を見る。降りないといけない。ソフィーは窓に頭を預けて、瞳を閉じている。ジョエルは手すりを掴みながら立ち上がって、早足に停留所へ降りた。


 彼女のほうを振り返ると、窓越しに眠たそうな目がこちらを見下ろしている。サーキュレーターの去り際に、おやすみ、とラメが光る唇を動かし、手を振っていた。

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