第7話 「怪我したのか?……おい、お前に言ってんだよウィル」

 オスカーはアレクにCDを渡した。


「怪我したのか?……おい、お前に言ってんだよウィル」


 ウィリアムは頑なに三人のほうを向こうとしなかった。入り口の壁に寄りかかったまま立っている。彼の視線がずっと指に注がれていたので、オスカーはそう思ったらしい。


「うるせえな」

「だったら返事しろよ。耳までイカレちまったのか?」

「うるせえ」

「それしか言わねえな」


 オスカーは面倒くさそうに頭を回した。ラジオから聞き覚えのあるロックンロールが流れる。


「なっつ〜。これいつのだっけぇ?」

「ええっと、待ってな……二〇一六年」


 オスカーがスマホを片手に言うと、サムはしゃっくりのような声を上げて驚いた。


「五年前! そんな前だっけ……ねぇ、ウィル~」


 アレクが調達した炭酸水を飲んでいた彼は、軽やかにウィリアムのもとへ駆け寄り、手元を覗き込んだ。ウィリアムは隠したが、


「何か刺さったの〜。手当ては?」


 と、唇を舐めた。

 観念したように、ウィリアムはどこかを指すように傷を見せた。


「ガラスが刺さったんだよ。瓶のな」

「割ったんだ~」

「割った」

「何があったんだよ~?」


 ウィリアムは頭を掻くと、兄に説明したことを繰り返した。


「ぐ、ふっ」


 意外にも最初にリアクションしたのはアレクだった。肩を小刻みに揺らし口元を押さえて、失笑を隠そうとしている。急激に顔に熱が上る。寡黙な彼にさえ笑われることをしでかしたのだとわかったのだ。


「貧弱だよウィル。だ、だって……っ瓶半ダースだろ? 本当に言ってる?」


 サムでさえ、笑いをこらえながらそう疑ってくる。


「う、うるせえ……!」

「どうせ割るんなら盗んじまえよ。バレりゃクビだがな」


 いつもならこれでもかと馬鹿にしてきそうなオスカー。しかし、笑うどころか呆れている。ウィリアムのあまりの非力さにドン引きしているらしい。その独自の論理で諭すような物言いがウィリアムにはかなり堪えた。フードを深く被り座り込む。


「ウィル~」


 サムも座り込んで視線を合わせようとする。ヨシヨシと頭を撫でてきて、機嫌を直そうとしている。しかし、意地になって下を向いているとサムは困ったように「ふぅん」と漏らした。


「アレク、手当てしろよ」


 オスカーが言うと、アレクが未開封のペットボトルを取った音が聞こえる。

 消極的なウィリアムは、両脇をサムとアレクに抱えられ、部屋の奥の扉へ引きずられる。ペットボトルを受け取ったウィリアムは傷口を洗い、その間にアレクが消毒液と絆創膏を調達した。他人に貼られた絆創膏はきれいだった。


「手当てくらいしろよバカ」


 オスカーにそう言われ、ウィリアムは思わずむっとした。


「したから!」

「じゃあなんでしてねえんだよ」


 言うかどうか一瞬迷ったが、勢いと三人の視線に促された。


「ジョ、っ……兄貴に、剥された」

「兄貴に?」

「どういうこと……?」


 どう説明しようか。暗闇で逆光になった兄、それでも責めるような視線を向けられていた。思い出して吐きそうになる。

 グッと口を噤むと、「大丈夫?」とサムから心配されて、おそるおそる口を開いた。


「傷を見たいって言われて……」

「はぁ?」

「追いかけられて……逃げてきた」


 詳しく話したくなかった。三人は顔を見合わせて、それから憐れむような目を向けてきた。ロックンロールの爆音が沈黙を強調していた。


「やべえな、お前の兄貴」

「こっわ……」


 元気出して、とサムからチョコ味のガムを差し出される。口の中の酸味を消したか

ったので、ありがたくいただいた。その後、オスカーがアレクに夕飯を調達させた。兄と一緒に食べるのとは違う楽しさがあった。



 ■



 いつの間にか、ウィリアムはベッドで横になっていた。目の前に広がるのは病院の個室だ。見覚えがある、と思っていると、幼い頃のジョエルがやってきて手を握りながら泣いている。思い出した。破傷風で入院したことがある。どうやら夢を見ているらしい。今は、ようやく筋痙攣が治まり安静にしているところだ。ジョエルは顔をうずめて何か言っている。耳を澄ますと――……しなないで、ウィル、しなないで……――しゃくりあげてぐずぐず泣いている。



 腕の内側がくすぐったくて、ウィリアムは呻き声をあげた。ふとした瞬間に転寝をしてしまったようだ。


「ん、ウィル、やっと起きた~?」


 明るい光が差し込んでいて、部屋全体がぬるい。ゆっくりと目を慣らすと、灰色の瞳を健全に潤ませた熱っぽいサムがいて、ウィリアムの手首をそっと手の中に持っていた。横になっていたソファから起き上がると、革に張り付いていた頬が引っ張られた。


「あっつ……」


 体中にまとわりつく汗。額を拭った手の甲がキラキラと光る。ウィリアムは見渡したが、サムしかおらず、ほかの二人は帰ったようだ。


「今何時」

「昼過ぎじゃないかな?」


 どうやら半日以上寝てしまったようだ。サムの白い肌をたらたらと流れる汗。彼は半袖をタンクトップのようにしている。彼の傍らにファッション雑誌があった。表紙を飾るモデルの顔はぐちゃぐちゃに塗りつぶされ、ボールペンが突き刺してある。

 今日もバイトがあるが、行きたくない、サボりたい、辞めたいと言う気持ちがウィリアムをソファに押し込めていた。

 またくすぐったくなってきた。サムのきれいな指先が、手首をなぞっている。


「何してんだよ、お前は」

「痣をなぞってたの……っあ!」


 振り払ったウィリアムは、袖をまくり上げた。パーカーは寝汗を吸ってしっとりしている。


「ごめん、冷蔵庫の中身これしかなかったから……」


 サムからペットボトルを差し出された。半分ほど入った水がチャプッと揺れる。


「飲む? 飲みかけだけど」


 ぼんやりとした頭でウィリアムは受け取った。ぬるくなった水を飲んでいると、サムが手のひらでひらひら扇いでくる。


「大丈夫? 脱いだら? 全部」


 それもいいな、とウィリアムは水を飲み終えると、上半身裸になった。ついでにマスクも取る。だいぶ爽快感が違う。水っぽい口元と頬をごしごし拭く。ソファに押し当てられていた跡が指先に触れ、早く治るようにと軽く揉んだ。サムはウィリアムのパーカーを掴むと、ばさばさ風を送る。


「ウィルさ、半袖のやつ着て来いよ」

「ない」

「ないって……半袖が? なんで?」

「持ってない」


 ウィリアムは自分の部屋のクローゼットを思い浮かべた。兄が買ってきたアウターがハンガーにかかっている。掻き分けても、そこに半袖は一着も無いのだ。


「ま〜じ? 俺が買ってあげようか」

「頼む。安いのでいい」

「おっけ!」



 サムは何かとウィリアムに優しい。


 ────でも、初めて会った時にはむしろ軽蔑の目を向けられていたと思う。避けたり無視したり罵ったりするわけではないが、こちらから目を離さず一定の距離を保って、「俺がDVセンターに通報してあげてもいいよ」とつぶやいて、自分からは話しかけてこない。彼は男の自分から見てもきれいで、自分とは全然違う世界を生きてきただろうと簡単に想像がついた。ウィリアムも自分から話しかけることはしなかった。ある日、彼は調達したお菓子を爆食いしていた。制止する声も聞こえないようで、オスカーに命令されたアレクが引き離した。すると部屋の隅で丸まってぐずつき始めた。二人は慣れた様子で放置していた。彼が売春している(本人はパパ活と呼んでいる)ことはオスカーから聞いている。客とのトラブルだと思う。ウィリアムはおそるおそる彼に近づいた。


「大丈夫ですか?」


 ウィリアムの声を聞いて、サムは顔を上げた。充血した灰色の目は、複雑な色合いをした宝石のようだった。しばらくジッとウィリアムを見つめ、そして、へらりと笑った。


「何も、ない」


 そう言って、彼は照れくさそうに顔を拭う。食べかすと体液でべたべたになっていた。タオルを渡すと、嗚咽を漏らすようにまた笑った。それ以来、彼は何かとウィリアムに絡んでくるようになったのだ。





 顎先から汗が落ち、腕に伝った。ウィリアムは汗が通った後を指先で追い、何となしに痣をなぞり始めた。


「ウィルもやるんだ?」

「昔から、暇な時に」


 グッと強く押すと、一瞬色が引いて、また浮き出る。それを見るのが楽しかった。見えないところは鏡を見ながらやった。

 長袖を着るようになってからは、袖をまくるのが面倒なうえ、血の流れをせき止められるのがきつくて、少しずつ億劫になっていた。いまは昔に比べ娯楽も増えたのもあり、暇をつぶせる手段はいくつもあるのだけれど。

 サムは興味津々にウィリアムの指先を見守っている。


「さっきの続きやってい~い?」

「暑いから嫌。あ、その雑誌で扇いどけよ」

「え~疲れるよ~」



 しばらくすると暑さに耐えかねて、二人ともショップのアイスクリーム屋に駆け込んだ。ウィリアムはバニラ味、サムはチョコチップの入ったソフトクリームだ。


「この店、パパがバイトしてるところなんだよねぇ〜。たまに遊びに行くんだけど、ここの店員さんたち優しいから好き」

「へー」


 二人は店のすぐ傍の石段の木陰に並んで座り、無言でスプーンを動かす。空は青く、白い雲がぷかりと浮かぶ。太陽に焼かれたアスファルトからは熱が立ち上り、道路を歩く人々は一様に暑そうにしている。


 ウィリアムは夢のことを思い出していた。

 ジョエルに泣かれた後、ウィリアムは彼を不安にさせないように、おとなしくすることにした。ジョエルは何でもやってくれた。すると、中学生になった頃には一人で出かけると「今日はお兄ちゃんと一緒じゃないけど大丈夫なの?」「あれ、ジョエルは?」とどこへ行っても訊かれた。自分は何もできないと思われている。自覚が全くなかった分、気付いた時には血の気が引いた。たまらなく悔しい。そして、俺はもう大丈夫だよ、とジョエルに言ったが、彼は「はいはい」と微笑むだけだった。ウィリアムは意地になって自分でやろうとした。でもその頃には、本当に何もできなくなっていた。失敗を繰り返して、ごめんなさいと謝るのにも、迷惑そうな視線で見られるのにも堪えられなくて、ついに諦めた。


 けれども、一年前にジョエルが大変そうだと気付いた時から再び、自分にも何かできないだろうかと考え始めた。こうしてバイトを始めて、兄の負担が一個でも減ればいいと。でも、何度も解雇されるうちに自分の中の頑張ろうとする気持ちが削れていく。家でも失敗ばかりで、ジョエルがイライラしてしまうのもしょうがない。何もかも自分が悪いから。

 肩をゆすられた。見れば、サムが呼びかけている。


「ねえ、ウィル。食べないなら、俺がもらってもい~い?」

「あ、ああ」


 ウィリアムはサムにソフトクリームを差し出した。


「じゃあ遠慮なく」


 彼はウィリアムの手ごと引き寄せると、大きく口を開けてパクッと食べた。バリっとコーンが砕け、彼の舌が丸めた指の中に触れる。ウィリアムの心臓が大きく跳ねた。


「おいひい!」

「そっか、よかったな」


 ウィリアムは小さくうなずき、彼の唇についた白いひげを指で拭ってやった。

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