第6話 「ウィル……? ただいま帰りました」
目が覚めて、瞼を押さえつけるような布の感触がした。体が揺れている。
機内アナウンスによると、着陸態勢に入ったらしい。
ジョエルはアイマスクをそっとずらしていき、ベルトが装着されているか確認した。
――夢を見ていた。混沌とした脈絡のないものだったが、昔の思い出をなぞったような内容があった。幼いウィリアムが、暇そうにしている。施設の中庭で遊ぶ子どもたちを、窓から眺めている。ジョエルは読書が好きなので、インドアで過ごしていた。ウィリアムはあまり体の強い方でないから、職員に止められていた。彼は窓に張り付いてジッと眺めていたかと思うと、自分の手を見た。そして――忌々しく浮き出た――痣を、そっと指でなぞり始めた。傍から見ていたジョエルはぎくりとした。
それだけだ。
何故今その記憶を思い出したのか、わからない。当の本人も隣にはいないのに。
空港から出ると、ジョエルは伸びをした。Tシャツの襟に引っ掛けていたサングラスをかける。予算のギリギリになってしまったため、歩いて帰ろうと思ったが、少し歩くとふくらはぎが段々と痙攣を始めた。仕方がないので、ジョエルは空港へ踵を返し、タクシーを拾うことにした。何台か停まっているだろうと思ったが、今日は郊外でマーケットがあるらしく一台も見当たらない。だが少し待つと、一台やってきた。
街並みが見慣れたものになっていくにつれ、安心感と倦怠感が同時に体から起き上がってきた。
■
正午過ぎ、二日ぶりに家に帰ると、焦げくさい臭いがジョエルを出迎えた。ウィリアムがまたやらかしたのだと悟る。
「ウィル……? ただいま帰りました」
カーテンから透ける日光だけが照明となっているリビングに出ると、ウィリアムが布巾を持って立ち尽くしていた。レンジの前、足元には黒いものが飛び散っている。エビの形をしたものと、クリームの白みがわずかに見えたので、冷凍グラタンだろう。
ウィリアムはジョエルの姿を見て唖然としながら、
「ジョエ……どこ行って、あ、これは……っ」
ジョエルの帰宅と、今起こっているトラブルに混乱している。おそらく、解凍して取り出そうとしたものの、容器が熱くて手を離してしまったのだ。
ジョエルは荷物をその場に置いて、ウィリアムの手から布巾を取り上げて床の掃除を始めた。
「少し退いて」
固まっている彼に声をかけると、サッと退いた。かつてグラタンだったものは溶けていて、容器も変形していた。
窓を開けて新しい空気を出迎えると、ジョエルは「ふう」と息を吸い込んだ。テーブルに戻ると、
「ウィル、お腹が空いたでしょう。空港のレストランでの残りです」
「あ……うん。食べる」
差し出したドギーバッグを、ウィリアムはおずおずと受け取った。彼が食べている間に掃除を済ますと、ジョエルはバックパックからビニールを取り出す。
「お土産です」
手渡すと、彼はかさかさと中身を取り出した。真空パックにされた肉塊だ。
「これ……ベーコン?」
「スペックといいます。燻製生ハムです」
「ふーん」
ウィリアムは顔を近づけてスパイシーな匂いを嗅ごうとしている。
「オイローパ・ブリュッケの近くの店で買ったんですよ。しばらくの間、朝食が晴れやかになりますね」
「オイローパ・ブリュッケって……バンジーで有名な橋の?」
「ええ、とてもスリリングでしたよ!」
「やったの?」
愕然と目を見開く弟、兄は意気揚々と語り出す。
「やりましたよ。3・2・1・バンジー! って。鮮明に記憶に焼き付けようと思ったのですが、気が付いたら下にいたんですよ! ビヨーンとロープが張る感覚で意識を取り戻しましてね、五回ほど跳ね返りました」
ジョエルは思いをはせるように目を閉じる。
「ああ正直、体験者のブログを見ると『あれは軽い自殺』だとか『気持ちよかったし絶対やったほうが良い』だとか、反応が両極端だったので少々心配だったのですが……やってよかったですね。生まれ変わるとはああいうことをいうのでしょうか? 思い出すだけでビリビリきますよ今でも。いい経験になりました! これは将来私の生徒になる子どもたちにしっかり伝えないといけませんね!」
ジョエルは腕の鳥肌を擦った。弟が何も発さないので様子をうかがうと、彼はわなわなと震えている。
「ウィル……?」
スペックを持つ指に力が入っているようで、パックにしわが寄っている。どうして彼が機嫌を損ねているのか、ジョエルにはわからなかった。思いつくとしたら、
「ひょっとして、あなたも行くつもりだったのですか?」
すると彼は怒気をはらんだ瞳をカッと見開き、腕を振り上げると握りしめていたスペックを投げつけた。ジョエルの真横を掠め、シンクのたらいにぶつかり派手に倒れる音。
ジョエルが固まっている一瞬のうちに、ウィリアムは飛び出してしまった。
倒れているたらいを立てかけなおし、シンクの中に落ちたスペックを拾い上げる。水滴を拭って冷蔵庫へしまうと、荷物の片づけを始めた。
シャワーで旅の疲れを流しながら、ジョエルは「ふう」とタイルの壁に額を預けた。せっかく楽しい旅路を歩めたのだが、弟の機嫌を損ねてしまったようだ。
本当に、ついてくるつもりだったらしいのには驚いた。でも彼は人に注目されるのが苦手なうえ、旅路で絶対息切れを起こすだろうから、しないほうが良いのだ。
――私だって、彼と同じ立場なら、注目されるのは怖い。
ジョエルは脚のマッサージをしながら考えた。
浴室を出ると腹が減っていたが、眠気もあった。冷凍グラタンはもう一つあったが、それは寝起きに食べることにして、牛乳を温めて飲んだ。ベッドに寝転がり毛布をかぶって、まどろみに身を任せる。
玄関ドアの音がして、ジョエルはゆっくりと瞼を開いた。ウィリアムが帰ってきたのだろう。細めた片目でスマホの時計を見ると、二十時過ぎだ。目覚まし時計にセットした二十一時より早く目が覚めた。
すっきりと目が覚めたので、二度寝はせずにリビングへ出た。
キッチンの照明だけを点ける。薄目で手探りながら冷凍グラタンを取り出し、レンジで温める。インスタントコーヒーを溶かしていると、ウィリアムがそっと部屋から出てきた。ジョエルと目が合い、ビクッとこわばる。
出て行った後だったので、多少気まずかったが、彼の手に持ったものを見てジョエルは息をのんだ。救急箱だ。
「あなた、怪我を?」
「してない、っ」
彼は右手をサッと背中へ隠した。一瞬だけ、絆創膏が見えた気がする。
「見せて……」
「んっ!」
覗き込もうとしたジョエルに、救急箱を押し付けるウィリアム。思わず手に取ってしまうと、彼は逃げるように玄関へ駆け出した。
「ウィル!」
チン! とレンジが鳴った。
ジョエルは救急箱を持ったまま彼を追いかける。暗い廊下の途中で、彼の服を掴んだ。手から滑り落ちる救急箱、木箱なので床で割れてしまう。勢いで転びそうになるウィリアムの腕を、ジョエルは掴んで引き寄せる。
「いって! 離せ、離せよ!」
「見せなさい……!」
弟は必死の抵抗を試みたが、何度腕を振りほどこうとしてもビクともしなかったため、段々としおらしくなる。
「ちょっと転んだんだよ!」
と、諦めて絆創膏を貼った指を差し出した。リビングから洩れる光を頼りに見ると、しわが寄りまくっためちゃくちゃな貼り方をしていることがわかる。
「きちんと消毒しましたか?」
「した、よ」
彼がそういうことを言っても、実のところは済んでおらず、化膿してしまった過去を思い出す。体の奥まで細菌が入り込み入院沙汰になったのだ。破傷風だった。あの時彼が苦しむ様子を見て、死んでしまうのではないか、取り残されてしまうのではないかと本気で怯えた。
息を飲み込むと、絆創膏をはがす。ウィリアムは逃げようとしたが、その手首を頑として離さなかった。廊下ではよく見えなくて、「来なさい」とリビングまで引きずる。
指からはオキシドールの匂いがする。剥がしたことによって、傷口から新たに赤い潤みが浮き出ていた。汚れは見当たらない。
「『転んだ』と言う割には擦り傷ではありませんね。何かが刺さったような」
「転んだんだって」
「正直に言いなさい」
ウィリアムは自分の首に指を立てて撫で、「ガラスが、刺さった」
「ガラス……?」
しぶしぶと、ぽつりぽつり、彼は白状する。
「バイトで……繁忙期らしくて、瓶を運んでたら、割っちまって……いつもは運ばなくていいんだけど……慌ててて、うっかり触って……」
「バイト……?」
ジョエルは目を丸くする。
「どうしてバイトなんかしているのですか?」
ウィリアムは目を合わせずに顔をしかめている。
「何か、欲しいものがあるのですか?」
「無ぇよ」
私の収入では足りないと言うのですか?
言おうとして、ジョエルは飲み込む。弟に、生活がカツカツという事を悟られたくなかった。
すると、ウィリアムが言った。
「あんたが……大変そうだから」
全身の皮膚が張りつめていく。ジョエルは口を開くが、咄嗟に言葉が出てこない。貧乏だと、そう悟られないようふるまっていたのに。知られた時に、ウィリアムからどんな視線を向けられるだろうと考えると、唾液が苦味を帯びたように思えた。
ともかく何か、言わないといけない。
「ウィル……誤解をさせてしまったようですね。バイトは……単に趣味なんです、体を動かしたくて。……ですから、あなたは心配せず大学に通ってください。あなたが慣れないことをして怪我をされたら、私も気が気でなくなります。無理をしないで。何もしなくていいですから」
必死に取り繕った言葉。めったに緊張はしないのに、体が燃えるように熱かった。
ウィリアムの表情は……晴れない。
「痛ぇ」と手首をひねる彼。
「ああっ、すみません」
ジョエルは慌てて離した。弟は手首を擦っている。自分の手もじんじんと熱い。よほど力がこもっていたようだ。
ウィリアムは怪我した指をくわえ、あふれて留まっていた血を舐めている。
そうだ、消毒をせねば、とジョエルが思うと、彼は踵を返し玄関に向かった。「ウィル!」と声をかけると、「バイトじゃないから」とそのまま行ってしまった。
しばらく、ジョエルは思考停止していたが、ハッとすると、床に崩れた救急箱の修理に取り掛かる。箱からこぼれていた綿棒も一本一本しまう。ガムテープで形を整え、もとの棚へしまう。
何か忘れている気がしたが、キッチンに置いてあるコップが目に入った。
「ああ、食事の途中でしたね……」
レンジのそばのミトンを装着し、中からグラタンを取り出した。まだまだ熱く、程よい焼け具合だ。弟は説明書を見ずにタイマーをセットしたのだろうか。食卓にそれと、コーヒーを置く。
ふーふーと冷ましながら口へ運ぶ。海老グラタンのぷつぷつとした食感がした。ついコーヒーを入れてしまったが、グラタンには合わない。ジョエルはそれから一口も飲まずに、無心でグラタンを食べ終えた。
ぬるくなったコーヒーを飲む。弟の怪我が気になった。さほど酷い怪我ではなかったが、悪化しないとも限らない。
「ウィル……」
そこはかとない恐怖に襲われ、無意識に彼の名前をつぶやく。
彼に、余計な心配をかけてしまった。慣れないことをさせてしまい、店側にも迷惑が掛かった。今回は何とか引き留めたが、彼はいつも自分から逃げる。やはり、話し合いをしないといけない。バイトのシフトと、試験期間のちょうどよい合間を狙って。だが、ここしばらくは都合が合いそうになかった。
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