第5話 「クソ……」
ウィリアムはゴミ箱の下を覗き込んだ。泥に汚れたネズミの影を追い求めたのだ。しかし見失ってしまったらしく、どこにも動くものはない。排水溝に戻ったのだろう。支給されたグレーの清掃員制服を着たウィリアムは、額から流れる汗を袖で拭った。サイズが合っていないそれは、ゴワゴワしていて肌を痛めた。
いま彼はアルバイトの真っ最中だ。今日も裏口周りの清掃を頼まれている。数日続く雨のせいで妙に湿気ていて、立っているだけで汗ばんでくる。ファンデーションが落ちていないか心配になる。裏方だとしなくてもいいかと思ったのだが、たまに表へ呼び出されるから結局塗っておかないと落ち着かないのだ。吸い殻やファストフード店のテイクアウトコーヒーのカップなどが転がっている。塵取りに掃き集めてゴミ箱に捨てる、単純作業。
雲に覆われているが、日差しは強いらしく、周りは明るく照らされている。妙に暑い。制服の袖をまくれば、多少は軽減されるだろう。しかし、ウィリアムにそれをする勇気はなかった。
「クソ……」
マスクを下ろして、ふうと息をつく。口元に袖を押し当てて汗を拭う。袖にファンデーションが付いてしまい慌てて擦る。耳元で蚊の羽音がして反射で退く。両手で叩いて始末すると、掌を広げて、死骸と血を見る。ウィリアムは舌打ちをした。兄の鋭い視線を思い出したからだ。蚊を叩こうとした手がカップに当たってしまっただけなのだ。でも、兄のあの目は鼻からウィリアムが悪いと決めつけていて、まるで刃を向けられているようで、何を言っても無駄な気がした。
すると、屋内からこちらに向かってくる足音が聞こえた。身構えると、扉を開いたのはバイトの先輩だった。
「ウィリアム、キッチンのあれ、何?」
「え」
「ごみぶくろ!」
「あっ……あ、ごめんなさい!」
ウィリアムはキッチンのごみを回収していたのだ。途中でネズミを見つけて追いかけに行ってしまってから、すっかりそのことが頭から抜けていた。
「ごめんなさい。取ります」
「いいよ。もう取ってきたから」
と先輩は背後から袋を持ち上げてウィリアムに投げて寄越す。ウィリアムは取り損ねてしまう。どさっと地面に転がってしまうのを見て、何も言えなくなる。
「今週で何度目? しかも今日はキッチンだよ。わかってる? 清潔感が大事なんだよ」
「ごめんなさい」
ウィリアムは俯いた。仲間には憎まれ口も叩けるのに、他人となると貝のように心を閉ざしてしまう。
先輩はため息をつきながら「別に怒ってるわけじゃないんだよ」と付け加えた。
「でもさ、こっちも見ないでさ。本当に悪いと思ってる?」
「あ……はい、ごめんなさい、えっと、ごめんなさい」
先輩は呆れたように、そのまま行ってしまった。ウィリアムはまた俯いて、勝手に流れてきそうな涙を堪える。流れたらファンデーションが落ちてしまう。周りの人は、意識的に自分たちを見ておらず話かけてこなかった。
頭が圧し潰される。以前から、感情が高ぶると頭痛がするようになった。オスカーには緊張性頭痛ではないかと言われた。
ウィリアムは頭を押さえ、カップを持ったままトイレへさり気なく入った。個室へ入ると、カップの中身を垂らして、ノブをひねって流す。便座に倒れ込むように座り、抑えきれない嗚咽をその音に紛らわせていた。
■
家に帰ると、鍵がかかっていた。ウィリアムは屈んで靴紐を解くと、抜き取った鍵で扉を開けた。真っ先にシャワーを浴びに行く。汗でべとべとになった肌を流す。暑いのに、シャワーのお湯の温かさは心地いい。曇った鏡を手のひらでキュキュッと撫でる。
自分の体を見つめる。痣だらけ。体温が上がっているおかげで、肌の赤さに埋もれているようにも見える。
――なんで、治さないといけないんだろう?
ウィリアムは時々そう思うのだけれども、いじめられたことやジョエルが治療費を頑張って稼いでいることを思い出して、そういうものかと納得した。
浴室を出てから歯を磨こうとして、ぎょっと手を止めた。ジョエルの分の歯磨きが無い。髭剃りも無い。家中を探したが、ジョエルはいなかった。
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